日本の近代史について、ざっくりと説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
日本の近代史をざっくり3つに分けます!
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この記事では、「開国〜太平洋戦争」の日本の歴史をざっくりと説明します。
ざっくりと、3つの時期に分けます。
1850年頃~1900年頃 | ①外国に負けない国になるために改革した時期 |
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1900年頃~1920年頃 | ②民衆のエネルギーが拡大し、無視できなくなった時期 |
1920年頃~1945年 | ③戦争へと突き進んでいった時期 |
【日本の近代史】①外国に負けない国になるために改革した時期
江戸時代末期の1800年頃から、欧米の国々が船で日本にやってくるようになりました。
日本は新たな課題と向き合わなければいけなくなったのです。
それは、
外国に負けない国にならなきゃいけない!
という課題。
そして、1853年にアメリカのペリーが軍艦4隻で日本にやってきて、日本に開国を要求。
圧倒的な実力差を目の当たりにした日本は、開国せざるをえませんでした。
これが決定的でした。
このあとの日本は、「外国に負けない国にならないと、日本終わるぞ…」という危機感を強く抱いた人々を中心に、「外国に負けない国になる」ことに向けて、激動の時代を迎えます。
「外国に負けない国になる」にあたって、もめたポイント
- 外国…どうする?今すぐぶっつぶす?
- 徳川氏…どうする?必要?
いろいろあって(って一言で終わらせられないくらい、いろいろあって)、結局、
今すぐ外国をつぶすのはムリだわ…(→国内で改革をするぞ)
という方針にはみんな賛成、って感じになった。
けど、「徳川氏…どうする?必要?」っていうポイントでは、もめたまま。
- 「徳川氏を中心にやっていこう」っていう旧幕府を支持する人
- 「徳川氏を排除して新しい日本を作っていこう!」という新政府
の両者の間で、1868年から1年間にわたる内戦(戊辰戦争)が起きました。
結局、新政府側の勝利という形で決着。
正式にバトンを受け取った新政府は、この後「外国に負けない国になる」ためにいろんな課題と向き合います。
「外国に負けない国になる」にあたって、課題だったこと
- 藩のせいで日本はバラバラ
- 強い軍隊がない
- 税金収入が不安定
- 国の政治のしくみがない
- ”日本”だけだと独立を守れないかも
これらの課題を克服するために、新政府はいろんな改革を行いました。
ただ、一筋縄ではいかなかったのが、④と⑤。
もめたポイント
④国の政治のしくみ
- 民衆の意見(エネルギー)を、いつ、どうやって、どれくらい取り入れる?
⑤日本の独立を守る
- 国境を防御するために、国境の外にある朝鮮半島への影響力をゲットしたい。けど、そのためには中国とのバトルが不可欠…
④について
民衆の意見を取り入れる…つまりデモクラシー(「公議世論の尊重」)が重要なことは新政府もわかっていたんだけど、「いつスタートして、どのようにやるか」は難しい問題だった。
で、最終的には、1889年に憲法が発布されて、1890年からは議会がスタート。
国の政治のしくみが整った!
でも、「人々の意見(エネルギー)を取り入れる」って、すごくむずかしいのです。
⑤について
あと、日本の独立を守るために、国境を守るだけじゃなくて国境の外に勢力圏を持っておいた方がいい。
だけど、日本の周りを見渡してみると、その勢力圏になりうる場所は朝鮮半島しかない、という状況。
朝鮮半島は中国が影響力をもっていたから、中国とのバトルが必要だということがわかった。
で、1894年、とうとう日清戦争が。
さらに1904年、日露戦争が起きます。
なんと日本はどちらも勝利。
「強国」として認められるようになったのです。
めでたしめでたし…というわけにはいきません。
【日本の近代史】②民衆のエネルギーが拡大し、無視できなくなった時期
民衆のエネルギーが拡大して、政府は民衆を意識せざるをえなくなっていったのです。
特にインパクトが大きかったのが、日露戦争後の日比谷焼打ち事件。
これは、日露戦争で賠償金をもらえなかったことに対する、民衆の暴動です。
また、資本主義経済が発展していく中で、貧富の差が拡大した結果、労働運動・社会主義運動も盛り上がっていきました。
1914年から始まった第一次世界大戦によって日本は好景気になりましたが、大戦をきっかけに、米騒動という民衆のエネルギーの爆発も起きました。
新たな課題
民衆のエネルギーがすごい…どうする?
「外国に負けない国になる」ために大胆な改革をする時は、民衆の意見を多少無視したとしても、権力の中心にいる少人数の人たちで日本を引っ張っていくのが重要だったのかもしれません。
ですが、「外国に負けない国になる」ための大改革は一段落。
いよいよ、「人々の意見(エネルギー)を取り入れる」…つまりデモクラシーについて真剣に考えるステージに到達したのです。
1918年に本格的な政党内閣(原敬内閣)が誕生。
1924年から1932年までは、政党内閣が連続して誕生しました(憲政の常道)。
政党内閣
多くの大臣を衆議院の多数派政党の者がしめる内閣
つまり、民衆の意見(エネルギー)を吸収した形の政治のしくみが花開いたということ。
1925年には普通選挙法も成立しました。
世界も変わりました。
第一次世界大戦の反省から、「戦争はもうやめよう。みんなで協調しよう。軍事力を拡大するのもやめよう。」という雰囲気になったのです。
すばらしい世の中になった…かに見えました。
【日本の近代史】③戦争へと突き進んでいった時期
日本は、新たな課題と向き合わなければいけなくなりました。
日本が向き合わなければいけなかった課題
- 恐慌(大不況)
- 「日本の生命線」と言われた満蒙が奪い返されるかもしれないという危機
1920年代に、大不況が何度も起きたのです。
そしてそんな中、日露戦争で多くの犠牲を払って獲得した中国での影響力が失われる危機に直面しました。
結局、デモクラシーが花開いたかに見えた日本は、それらの課題と向き合うなかでバラバラになり、軍部が政治を動かすようになって、デモクラシーは死にました。
そして、国際的に孤立。
その後、中国との戦争、アメリカとの戦争に突き進むことに。
国土は崩壊。
敗北です。
まとめ
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