摂関政治について説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
摂関政治
摂関政治について話をします。
今回話をする時代は、平安時代です。
で、平安時代のキーワードをむちゃくちゃざっくり言うと、「平安時代は、中国をマネした段階から日本の独自性(オリジナリティ)が花開いていく時代」です。
日本独自のもの、日本オリジナルなものが何なのか?ですが、それが
- 摂関政治
- 国風文化
だと思ってください。
摂関政治っていうのは、「摂政・関白がリーダーシップをとって行う政治のあり方」のことです。
藤原氏っていう貴族が、摂政や関白になって権力を握ったんです。(くわしくは後で説明します)
今回は、摂関政治の話をします。
(摂関政治の話は記事の最後に出てきますが、なぜ摂関政治が行われるようになったのか?を伝えるために、平安時代のスタートから話をします。)
平安時代のスタート(桓武天皇)
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まず、平安時代のスタートについてです。
桓武天皇が794年に都を平安京に移してから、鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を平安時代って言います。
で、なんで桓武天皇が都を移動させたか?
これは、奈良時代に起きた政治の混乱から、政治を立て直すためらしいです。
奈良時代は、天皇の皇位継承をめぐる貴族の権力争いが起きて、すごい混乱したんです。
この混乱について、くわしく話をします。(大事なので)
律令国家の政治は、太政官の中のランクが高い人たちが話し合いをして、その結論を天皇が決済をするっていう形で行われていました。
この太政官の中にいる人たちが貴族です。(のちのち、藤原氏だらけになる)
貴族からすると、話し合いの中での自分の発言力を高めたいわけです。
なので、あの手この手で発言力を高めようとした。
例えば、自分の娘を天皇と結婚させるっていう方法。
天皇と親戚になるってことです。
そうすると、太政官の中での話し合いで発言力が増しますよね。
他には、ライバルとなる貴族をぶちのめすっていう方法。
これはシンプル。
あと、上皇側につくっていう方法。
上皇っていうのは太上天皇(だいじょうてんのう)の略で、天皇の位を後継者に譲った天皇に与えられる称号です。
で、この太上天皇は奈良時代に天皇と同じくらいの権力を持っていました。
というのも、太上天皇が天皇の面倒を見ていたからです。
だから、もし天皇と太上天皇が対立すると、朝廷が分裂する恐れもあった。
実際、奈良時代には天皇と太上天皇の争いが何回か起きました。
で、こうやってあの手この手で貴族は自分の発言力を高めようとしたわけです。
ただ、奈良時代の終わりの方では、この権力争いの中に、なんと仏教の僧が混じったりもしたんです。
で、桓武天皇が誕生。
桓武天皇は、「政治を立て直すぞ!」っていう思いで、都を移動させたんです。
784年に平城京から長岡京っていうところに都を移しました。
が、そこでちょっとトラブルがあって、結局794年には平安京に都を移すことにしました。
長岡京も平安京もどっちも京都盆地です。
長岡京は京都盆地の真ん中あたり、平安京は京都盆地の北の方です。
で、平安京には平城京から寺院を移転しなかった。
奈良時代がスタートする時、藤原京から平城京に都を移す時には寺院を移転したんですけど、
平安時代がスタートする時、平城京から平安京に都を移す時には寺院を移転しなかったんです。
これは、奈良時代に仏教の僧も混じって争いが起きたから。
政治と仏教をいったん切り離すために、奈良時代の寺院は移転しなかった、っていうことです。
だから、奈良には今でもお寺がたくさん残っていて、修学旅行先になっているんです。
天皇の権力を強化(嵯峨天皇)
806年に桓武天皇が死ぬと、また天皇と太上天皇の対立が起きました。
その争いに勝った嵯峨天皇っていう人は、「このままじゃマズい」ってことで、いろいろと改革をします。
天皇の権力を強化するための改革です。
ここで上皇の権力が落ちることになりました。
それまでは太上天皇の称号は、位を譲った時点で「自動的に与えられるもの」だったらしいんですけど、この嵯峨天皇の時から、「新天皇から与えられるもの」になったみたいなんですよね。
で、天皇の権力が強まった結果、天皇と関係が近くて深い人(貴族)が、ますます発言力をアップさせることになるわけです。
藤原氏が勢力をのばす
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で、やっぱり天皇にすり寄っていくのがうまかったのが、藤原氏でした。
藤原氏は、2つの方法で発言力をアップさせていきます。
1つ目が、自分の娘を天皇と結婚させるっていう方法。
自分の娘を天皇の后(妻)とし、生まれた子供を天皇にするんです。
これを、外戚政策って言います。
つまり、藤原氏は天皇の母方のおじいちゃんになろうとしたんですね。
なんでこれで発言力をアップさせることができるかというと、当時は子供を母の方の家で育てることが多かったからです。
結婚した男女は妻の方の家で生活して、妻の両親と生活するわけです。
あれですよ、サザエさんのマスオさん状態です。
マスオさんってサザエさんと結婚して、サザエさん(母の方)の家で子供を育てているじゃないですか。
サザエさんで言うと、藤原氏は誰ですか?
波平ですね。
波平は自分の娘(サザエ)を天皇(マスオさん)の后にして、生まれた子供を次の天皇にしようとするわけです。
サザエさんとマスオさんの子供であるタラちゃんは、サザエさんの家(磯野家)で育つことになるので、おじいちゃん(波平)の影響をすごく受けるんですよ。
こうやって、藤原氏は天皇に近づいて発言力をアップさせていきました。
と同時に、ライバルとなる貴族をぶちのめすっていう方法も使いました。
これが、発言力をアップさせる方法の2つ目です。
こうして、藤原氏は権力を握っていくわけです。
摂関政治の本質
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ただ、あくまで律令国家の政治は、太政官の中のランクが高い人たちが話し合いをして、その結論を天皇が決済をするっていう形で行われていました。
嵯峨天皇のところで天皇の権力が強まったっていう話をしました。
その天皇自身が幼かったりすると、その天皇が決済の判断とかはできないわけなので、困ります。
そこで、天皇の権限を代行する摂政っていうものが必要になるんです。
また、天皇が大人だったとしても、能力的に問題があったりした場合、やっぱり困ります。
そこで、天皇の補佐をする関白っていうものが必要になるんです。
つまり、こういうことです。
天皇の権力が強まった結果、天皇の年齢・能力・資質に政治が左右されやすくなった。
そこで、天皇の年齢・能力・資質に左右されずに、しっかりと政治が行われるようにするためにも、天皇のサポートをする摂政と関白の役割が重要になった。
これが摂関政治です。
単に中国のマネをしていた段階から、1個、階段をのぼって、日本のオリジナルな部分が生まれたんです。
で、その摂政と関白の職につくことになったのが、天皇に近づいて発言力をアップさせていた藤原氏だったわけです。
あくまでポイントは、藤原氏は天皇と近い関係を築いたから発言力がアップした、っていうことです。(摂政と関白になったから、ではない!)
まとめ
- 摂関政治とは、「摂政・関白がリーダーシップをとって行う政治のあり方」のこと。
- 天皇の権力が強まった結果、天皇の年齢・能力・資質に政治が左右されやすくなった。
- そこで、天皇の年齢・能力・資質に左右されずに、しっかりと政治が行われるようにするためにも、天皇のサポートをする摂政と関白の役割が重要になった。
- その結果、摂関政治が行われるようになった。
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