半生振り返り
ブログ「社会科プラス」をご愛読いただき、ありがとうございます。
このページでは、自分の半生を超長文で振り返りたいと思います。
自己紹介と簡単な経歴
望岡 慶(モチオカ ケイ)です。「もちお」という略称を使うこともあります。
関東で生まれる → 公立中学校 → 公立高校 → 1年間浪人 → 東大(教育学部) → 東大院(教育学研究科) → 1年休学して某テーマパークで1年間働く → 修士課程修了(教育学) → 公立中学校の教員に → 退職 → ブログをがんばる → ?
もう「普通のレール」から外れてしばらく経ちます。楽しいけど、後戻りできなくてつらい。
これまで①(学生時代)
目立つ存在ではなく、スクールカーストで言うと中の中くらいの存在。
たしか小3の3学期から塾に通うことになったけど、勉強はできるわけでもできないわけでもない、といった程度。運動も中の下くらい。存在感ゼロの人間だったと思います。
転機①:小5でカードゲームにハマる
小5の時、大好きだったゲームのカードゲームが発売されていることを偶然知り、イトーヨーカドーでスターターデッキを父親に買ってもらいました。
初めてカードゲームにハマる。
自宅近くのショッピングモールで100人規模の小さな大会が開かれることを知り、なんとなく参加してみたところ、優勝だったか準優勝だったか3位だったか忘れたけど入賞しました。
何かが人よりうまくできた経験は短い人生の中で初めてだったから、うれしかったんだと思います。この大会での入賞をきっかけに気を良くして、完全にカードゲーム沼へ。以後、大会や練習会に頻繁に通って大学生や大人と一緒に遊ぶようになります。
素早いレスポンスが求められるアクションゲームは昔から苦手でしたが、じっくり考えられるターン制のカードゲームは自分に合っていたのだと思います。勝つために戦略を考えたり、対戦相手が次に何をやろうとしているか?対戦相手が嫌がっていることは何か?を考えたりするのが楽しかった。実際、この部分に関しては小学生ながら他の人よりも秀でていたと思います。
カードゲームにのめり込む一方で、小3から通っていた塾での勉強のモチベーションは0に。「ただ塾に通っているだけ」状態。偏差値40台を連発してしまいます。
もともとは中学受験をする予定でした。が、勉強よりもカードゲームの方に熱中したかったので、小6の4月頃「塾を辞めて地元の中学校に行きたい」と親に伝えました。特に反対もされず、すんなり辞めさせてくれました。「ありがてえええ!いい親だー」と子供ながら思ったのを今でも覚えています。
今振り返ると、あのカードゲームに出会わず流れで中学受験していたら人生は全く違ったものになっていたはず。
こうして地元の公立中学校に進学しました。
転機②:中学でソフトテニスに出会う
中学校といえば、新しく始まる部活動。当然カードゲーム部はなかったので、何部に入るのか検討する必要が生じました。
当時はカードゲームだけでなく、ヒカルの碁もマイブーム。ミーハーな僕はヒカルの碁に影響されて、中学では囲碁部に入ろうと思っていました。が、地元の中学校には囲碁部がありません。
そこで、ミーハーな僕は同時期に流行っていたテニスの王子様になんとなく影響されて、なんとなくソフトテニス部に入部することになります。
このなんとなくの選択が、今後の自分の人生が大きく変わる転機になりました。
中学生になってからはカードゲーム熱も冷めていたので、行き場のなくなったエネルギーは自然と部活動に向けられることになりました。
ただ、テニスコートに行くのがすぐに嫌になった。中学校の顧問の先生(M先生)はとても厳しく、怖かったからです。
それでも「退部は絶対したくない。負けたくない。できないまま終わりたくない。」と思い、必死に食らいつきました。
ソフトテニスに対するモチベーションはそんなに高くありませんでしたが、顧問のM先生は選手としても指導者としても実績のある素晴らしい人だったので、練習を重ねるうちにそれなりに勝てる実力が身についてきました。どう考えても僕より頑張っているだろう他校の生徒にも勝てたりしました。世の中は本当に不平等だと子供ながら思ったのを今でも覚えています。
ところが中学2年生になって、顧問の先生が変わりました。練習時間は激減。まだ打っているのに、活動終了時間が来た瞬間に「時間が来たから」と顧問がすぐにネットを下げる。。
ここではじめて、元顧問のM先生がとてもありがたい存在だったことに気づきました。本当に愚かでした。
「中学1年生の時、もっと頑張っておけばよかった。あんなに恵まれた環境をムダにした自分は本当にバカだった。」
そんな自己嫌悪もあり、次第にソフトテニスが自分にとって特別なものになっていきました。ここでソフトテニスを雑に扱ってしまったら、自分のことが本当に愚かしく思えてしまって自己嫌悪が止まらなくなると思いました。
ちなみに僕は新卒で中学校の社会科教員になるのですが、中学校の教員という仕事に就くことを漠然と考え始めたのがこの頃だったと思います。M先生に憧れていたのかもしれません。M先生は社会科の教員でした。
高校時代
ソフトテニスが上手だった中学校の先輩を追いかけて、僕も同じ高校に僕も進学することにしました。そして先輩が主力として活躍していたソフトテニス部に入部。
僕が進学した学校は、ソフトテニス強豪校でもなんでもない、ただの進学校です。にもかかわらず、顧問の先生(O先生)は全国出場経験のある素晴らしい人でした。
中学校だけでなく、高校でも僕は環境に恵まれたのです。
とはいっても、僕は別にスポーツの才能があったわけでもなんでもないので、最高成績は「県大会にやっと出場できた」くらい。たいして勝つことはできませんでした。
それでも「自分には何の才能もないけれど、だからこそ努力する才能だけは持とう」と思い、自分なりに努力はしたつもりではいました。チームメイトが予備校を理由に部活を早退したり休んだりするようになっても、自分は部活よりも予備校を優先することは絶対にしませんでした。
勉強面では、中学の時と同じテスト勉強のやり方を継続したら、クラスで1〜2番、学年でも1〜5位くらいの成績をとることができました。各地域の勉強が得意な人が集まっている学校の中で、自分が勉強が得意な層にいるという事実にビックリしました。
そして、カードゲームにハマった時と同じように調子に乗り始めます。「もしかして頑張ったら東大に手が届くのでは・・・?」と。
そして、「せっかくなら自分の限界に挑戦してみよう!次の大学受験が人生で最後の受験勉強になるかもしれないわけだし。最後の受験、自分の限界に挑むために東大を目指してみよう!」と決意しました。学歴が欲しかったわけでも、東大でやりたいことがあったわけでもなく、単に自分の力を試してみたいという目的で東大を志望しました。
模試で偏差値40台を連発していた小学生の頃からは想像もつかない決断でした。東大合格を本格的に目指し始めた僕は、親にお願いをして、高校生活の1年目が終わる3月から予備校に通わせてもらうことになりました。
最初は有名な河合塾や代々木ゼミナールに通おうと思っていたのですが、最終的に選んだのは、父が見つけた比較的小さな予備校「東進ハイスクール」。
当時の予備校界隈では、教室での一斉授業が一般的でした。今とは違って、映像授業の配信(当時はDVDを使っていた)により一人一人が自分のペースで学べる、という東進ハイスクールの学習スタイルは斬新でした。
そんな最先端の授業スタイルを提案していた予備校に通うことになり、本当に東大に合格できそうなくらいにまで学力が伸びました。自分のレベルに合った授業を選択でき、自分のペースで学べ、講師の説明で理解できなかった部分は巻き戻してもう一度確認できる、というシステムはとても合理的に感じました。
かなり力がついた感覚があったので、目標の東大も「まあ受かるんじゃないか」という気がしていました。模試などの結果から、親も学校の先生も予備校のスタッフもそう思ってくれていたと思います。
が、うまくいかなかった。
別に油断をしていたわけではないし、余裕をこいて入試前に手を抜いてしまったわけではありません。にもかかわらず、東大入試最初の科目の国語で動揺し、立て直せないまま1日目が終了。
その時点で不合格を確信しました。一つ失敗すると全て崩れ去ってしまうくらいの、中途半端な学力しか身についていなかったことが敗因でした。
合格発表日の3月10日、掲示板に僕の受験番号はありませんでした。東大以外の大学を一切受験していなかったので、自動的に浪人が決まりました。
周りでは合格した人があちこちで胴上げされていたはずですが、呆然とする僕の視界に現れたのは「あと365日」と書かれた長い長い一本の道でした。
「また1年頑張らなければいけないのか」「東大入試のあの緊張感をまた経験しなければいけないのか」と絶望したのを今でも覚えています。
浪人時代
意気消沈した僕は、「せっかく浪人するなら余裕で合格できるくらい学力を伸ばそう」と思い直し、今まで以上に必死に努力することにしました。目安として、夏までは1日7時間、夏以降は1日10時間勉強することを決めました。
浪人中の1年間は、勉強が苦しいと感じるよりも、「自分は好きなだけ勉強できる恵まれた環境にいるのに、この地球上には勉強したくてもできない人、環境に恵まれていない人がたくさんいるんだよな。本当に世の中って不平等だ。」と無意味に思い悩むことの方が多かったです。それくらい、勉強だけに専念できる1年間は僕にとって贅沢な時間でした。
「たとえ本番で失敗しても東大に余裕で合格できるようになる」ために、わかりやすい中間目標として「東大模試で10位以内に入ること」を目標にしました。必死に勉強した結果、比較的受験者数の少ない代ゼミの東大模試では1位、受験者数が多い河合塾や駿台の東大模試では10位くらい、受験直前には確か4位くらいの順位をとることができました。
1年間の浪人の末、東京大学文科三類に合格。ほっとしたと同時に、親も含め周りの人がすごく喜んでくれたのがうれしかったです。
大学時代
大学でもソフトテニスを続けました。そして僕は中学、高校に引き続き、大学でも環境に恵まれることになりました。
僕が入学・入部した約1ヶ月後に、大学時代に全国優勝経験がある超すごい人がチームのコーチに就任したのです。そのコーチは女性でしたが、男子顔負けのボールを打つ、ものすごい人でした。
もちろんコーチは僕たちをムダに甘やかしたりはしませんでした。練習は厳しく辛かったです。が、コーチはたくさんのことを教えてくれました。僕のソフトテニスの実力は大学時代に最も伸びたと思います。
ソフトテニスの技術面だけでなく、精神的にも鍛えてもらいました。コーチはよく「テニスコートはその人を映し出す鏡だ」と言っていました。平たく言うと「プレーに人間性が出るぞ」という意味です。
また、「何事も他のことのせいにするな。自分に原因があると考えなさい。そうでなければ、人として成長できないから。」とも教わりました。いろんなことを教えてくれて僕を成長させてくれたコーチに、今でも感謝しています。
転機③:外部コーチの経験
大学の部活を引退した後、大学院修士課程を修了するまでの約3年間、母校の高校で外部コーチをさせていただくことになりました。
ここで、とある生徒と出会いました。この生徒との出会いが、僕にとって3つ目の転機です。
彼は弱気で引っ込み思案で、「他に適任な人がいないから」という消去法で部長になった人でした。部長になってからの彼の口癖は「はやく引退したい。はやく部活をやめたい」。口で言っているだけではなく、本心からそう思っていることがよく伝わってきました。
ところが、そんな彼が驚くほどの成長を見せました。
部長になって1年になろうとする頃、つまり最後の大会の直前には、別人になっていました。真剣な表情で「まだ後輩に伝えきれていないことがあります」と言うようになり、必死に後輩を指導するようになっていたのです。
最後の大会では、県大会で上位に入る相手に対して、彼は堂々と互角以上に戦う姿を僕達に見せてくれた。これだけでも外部コーチとしては満足なのに、彼は最後のミーティングで「後輩たちにこれを最後教えたい」と言い、後輩のために、チームのために、自分が持っているものを惜しみなく伝えようとしていました。
「はやく引退したい。はやく部活をやめたい」と消極さを吐露していた彼はそこにはいませんでした。
そして顧問の先生や僕に対して「今まで本当にありがとうございました」と涙を流しながら深々とお辞儀してくれました。
すごく幸せでした。幸せを感じて涙が出たのは初めてだったかもしれません。人の成長を目の当たりにして、本当に感動しました。
「俺が育てた」とか「感謝されて自尊心が満たされた」とか、そういうことではありません。自分の関与に対する満足感を抱いたわけではありません。
ただ単に、一人の人間の成長を見ることができた、という事実に対して幸せを感じました。
そして、「教員になったら、こんな幸せな瞬間をまた経験させてもらえるかもしれない」と思いました。
「教員の仕事って、人の成長を感じられる瞬間に立ち会える最高の仕事なんじゃないか」
漠然と抱いていた「教員になろうかな」という思いが、「教員になろう」にはっきりと変わった瞬間でした。
これまで②(教員時代)
苦手意識があった社会科の教員を目指す
教員を目指すにあたって、担当する専門科目を選ぶ必要があるわけですが、僕が選んだのは社会科。
数ある教科の中で社会科を選んだのは、矛盾しているように聞こえると思うけれど、社会科に苦手意識があったからです。
学校で取り組んだ教科(9教科)の中で社会科だけは、どのように勉強をすればいいのか最後までわかりませんでした。
理数系の科目は効率的な学習方法がしっかりと体系化されていると思います。例えばシンガポールや北欧の教育がすごい!って紹介されることがありますが、その時の科目はたいてい算数・数学です。mathematicsに関してはグローバルスタンダードと言える学習方法が確立していると感じます。
しかも理数系の科目は階段状に学習プログラムが組まれていて、ステップを踏んで学んでいけば就職につながる=大人になってからも役に立つ=実利があるように上手に設計されている、という印象もあります。近年、理数系教育を重視している国が多いのは、「理数系教育は役に立つ」という認識があるからでしょう。
一方の社会科はどうか。
社会科に関しては「何をどのように学習すればいいのか?」が明確に体系化されていないように感じます。「この国の教育がすごい!」と紹介される時に、社会科が扱われている例は見たことがありません。
正直言って、理数系の科目に比べて、社会科は就職・将来につながる=大人になってからも役に立つように設計されていないと思います。勉強内容とリアルな社会とのつながりを感じられない。勉強をして定期テストや入試で高得点をとることができた時でも、社会についてしっかりと理解できたという実感がない。大人になってからニュースや新聞を読んでも、内容を理解できるようにはならない。
そんな社会科に、僕は苦手意識を持っていました。理数系の科目に比べて、「つかめた!」っていう感覚が全然なかったし、社会の勉強をしていても「これって勉強して何かいいことあるの?意味あるの?」って思えてイマイチ楽しめませんでした。
けれど、「得意なもの」(数学)よりも「苦手意識がある=攻略した実感がないもの」を扱った方が面白いし楽しめると思いました。社会科には、年月の経過とともに新たな内容が生まれ続けるという面白さもあります。
こうして、僕は社会科教員を目指すことにしました。教員採用試験を受け、大学院の修士論文を提出。4月から、とある県・とある市の中学校に赴任することが決定。
僕は中学校で出会ったM先生と同じく社会科教員に、そしてソフトテニス部顧問になりました。
転機④:学校教員の限界に気づいた
しかし、教員として働いて、すぐに既存の学校が持つ限界に気づくことになりました。
まず「教員が生徒一人一人としっかりと向き合うこと」が難しい。
学校教育の目的は、生徒の学びを支援することです。であれば、「40人の前で教員がひたすら喋る」という行為はその目的を達成する一つの手段にすぎないはずです。ところが、学校の授業では40人の前で教員がひたすら喋る授業が「普通」とされています。
この「普通の授業」がすごく嫌でした。
教員が一方的に喋り、生徒全員が同じペースで学習する授業は、勉強が得意な生徒だけでなく、苦手な生徒も置き去りにしてしまう授業。ごくごく一部の生徒にしかフィットしない授業です。
僕には「普通の授業(=一斉指導型の授業)」が生徒ひとりひとりと向き合っている授業だとはどうしても思えませんでした。
一人一人の学習を最適化するのであれば、勉強が得意な生徒はどんどん学習を先に進めていいはずです。逆に、勉強が苦手な生徒は、必要に応じて前の学年の内容に戻ったりしながらゆっくり学習を進めていいはず。
ところが、学校では「40人の前で教員がひたすら喋る」という行為の価値が過大評価されたままになっていました。
とはいえ実際には、既存の学校教育のシステムの中で(例えば東進ハイスクールのような)個別最適化された学びを実現するのは難しいことはわかっています。やれることに限りはあります。
そこで僕は、既存のシステムの中で可能な範囲で試行錯誤することにしました。「50分の授業時間の中で、理解のスピードなどが違う40人の生徒全員の力をどうやったら伸ばせるだろう?」と。
いろいろ考え、いろいろやってみた結果、例えば次のようなやり方があり得るという考えに至りました。
- 授業の理解度・学びの成果を確認するための課題(記述式)を提示する
- 生徒は一人ひとりiPadなどのタブレット端末で調べたり動画授業を見たりする
- 教員は教室を動き回って生徒ひとりひとりの質問などに答える
- 学びを深めるために、グループ活動やクラス全体での議論も(必要に応じて)実施する
- 理解度・成果を確認する課題は、一発勝負ではなく一定期間中に何度か挑戦できるようにする(→最終成果で成績をつける)
「教員がどう教えるか?」にフォーカスするのではなく、生徒一人ひとりの学びにフォーカスして、教室にいる教員は「生徒一人ひとりの学びをサポートする役割」に徹するというやり方です。
もちろん試行錯誤する中で、「今回の授業はうまくいった」という実感はなかなか伴いませんでした。そもそも自分の授業を「うまくできた」と評価する教員は危ういのではないか、とも思いますが、僕の授業が拙いものだったのは事実です。
それでも、自分が目指している方向性自体は間違っていないはずだ!と信じていました。ITが発達し、学校にiPadが配備された時代においては、個別最適な学びを実現する新しい授業を模索することが現場の教員には求められているはずだと思ったからです。
今の自分にできるベストの授業をして、反省点を洗い出し、繰り返し繰り返し改善していけば、生徒一人ひとりの学びを最大化できる授業に近づくはず。
そう考えていました。
ところが、授業スタイルを試行錯誤する中で突如、管理職に呼び出されました。そして怒鳴られた。「子供で実験するな!」と。そして管理職は僕に、いわゆる「普通の授業(=一斉指導型の授業)」を求めたのです。
本当にショックでした。どうすれば生徒一人ひとりの力を伸ばせるか?という試行錯誤を否定された気がしたからです。
もちろん、反省点が多々ある授業をしていたのだから、管理職に指摘されることは仕方がありません。管理職が言いたいこともわからなくはないです。不完全な授業を提供してしまったという意味で、当時の生徒に申し訳ない気持ちもあります。
だけれども、個別最適な学びに向けて試行錯誤すること自体は、時代の要請として間違っていないはずです。にもかかわらず、管理職は試行錯誤を「子供を使った実験」と切り捨て、伝統的な授業スタイルを現代でも継続することを求めました。余計なことはするな、というメッセージとして受け取らざるを得ませんでした。
その時、僕が求めていたのはアドバイスです。理想の授業に向けてどのように改善するべきかを一緒に考えてほしかった。そうしてくれたら、僕はその管理職のことを心から尊敬できたと思います。けれど、彼が選んだのは協力ではなく拒絶でした。
結局、公立中学校の教員には「余計なことはせず、現状を維持すること」「問題を起こさないこと」が求められているのでしょう。公立校は教育の最後の受け皿なのだから、そういうものなのかもしれません。
次第に、学校現場に自分がいることの意味を見出せなくなってきました。
転機⑤:学校現場の限界に気づいた
また、「日本の学校教育で求められている学びが極めて一面的である」ことにも、もどかしい気持ちを感じていました。
近頃よく言われているように、学校教育で学ぶ内容は「正解のある問い」に関するものばかりです。生徒は教科書に書かれている知識を使って、一定の手順に従って処理をすれば正解にたどり着ける問題に取り組みます。
正解にたどり着ける力の習得具合は点数化され、生徒は順位や偏差値、学歴といった指標で序列化される。そして序列上位層の高学歴人材が、大企業や公務員職へと吸い込まれていく。
社会がそのような構造になっているので、そのシステムでの「成功」を目指す保護者は子供を塾に通わせ、子供は夜まで必死に勉強します。
その行為自体を全否定するつもりはありません。むしろ僕もその道を必死に走ってきた身です。
ですが、「正解のある問い」を解く ≒ オペレーションが重要なのと同じくらい、問題を発見したり問題解決のための仮説を立案したりする能動的な姿勢・クリエイティブな力も重要なはずです。むしろ人口減少社会に突入した日本においては、後者の能力の方が大事だとすら僕は思います。
しかし、
- 「自ら問題を見つけ、解き方を試行錯誤する」クリエイティブな能力
- 「能動的・主体的に物事に取り組んだり、目指す方向性を考えたり、成果を出すために一つずつ行動したりする」リーダーシップ
を育む教育を、学校が十分にできているとは思いません。
学習に関しては、さっきも言ったように「与えられた問題に対して教わったやり方を駆使して問題を解く」という、いわゆる問題演習が中心です。
リーダーシップに関しては、学校ではリーダーシップを「みんなに指示をする能力」という相当狭い意味で捉えていて一部の人にしか求めない傾向にあると思います。例えば僕が勤務していた中学校では、「リーダーシップ教育」は学級委員や行事の代表にだけ、放課後の時間を使って特別に行われていました。
これでは、クラスや学年という集団の中で
- 一部の人間が「集団に指示をし、みんなを引っ張る」という形でリーダーシップを発揮し、
- 周りの生徒は「リーダーについていく」という形でフォロワーシップを発揮する
という構図が生まれてしまいます。指示待ち・他人任せな姿勢が、フォロワーシップというオシャレな言葉で美化されていると言ってもいいでしょう。
正直、僕も当時はそこに一切の疑問も持たず、先輩教員が行う「リーダーシップ教育」を見て、「リーダーシップだけじゃなくて、フォロワーシップっていうものがあるんだ。へー」と呑気に感心していました。本当に愚かだったと思います。
受動的な学習活動を繰り返し、かつ日常生活や学校行事においても受動性を容認するような状況では、生徒が能動的な姿勢・クリエイティブな力を身につけるのはかなり難しいでしょう。「先生(orリーダー)、何をすればいいですか」「先生(orリーダー)、なんとかしてください」という人ばかりになっても不思議ではありません。実際、僕が勤務していた学校はそれに近い状態になっていました。
学校教育に感じた課題は解決できず
ここまで長々と書いた教育に関する話を、いったんまとめたいと思います。
これまでの学校教育は
- 一斉指導
- オペレーション
- 問題演習
- 受動性
- フォロワーシップ
に偏りがちでした。ですが、これからは
- 個別最適な学び
- クリエーション
- 課題発見、仮説立案
- 能動性
- リーダーシップ
これらの言葉をキーワードにして学校教育が進化していくことが求められる。
これが僕の考えです。っていうか別にこれは僕のオリジナルではなく、多くの人が同じようなことを言っているし、文科省もそう認識しています。
だけれども、学校現場には強い慣性が働いています。伝統的なやり方を好む保守的な教員や管理職、「生徒と楽しく過ごせればそれでいい」「自分が失敗する姿を生徒に見せたくない」という無難でリスクをとらない教員がたくさんいます。
現状、学校現場の中で一人の教員が起こせる変革には限界があります。これが、僕が教員を実際に経験して得た実感です。
それに、too muchな教育課程の中では、教員にとっても生徒にとっても新たな方向に向けて試行錯誤する時間や余裕を持つこと自体が難しいとも思います。
なにより、たとえ一人の教員が頑張って大きな変革を起こすことができたとしても、影響を及ぼせる範囲はものすごく狭い。それなりに変革することができたとしても、おそらくその人が異動したらすぐに消え去ってしまうくらいの儚い影響しか残せないでしょう。
学校現場でできることには限界がある、思っていた以上に。
そう考えるようになりました。
退職を考える
こうして次第に、学校現場で実際に働くのではなく、学校の外側から教育に携わる方が良いのではないか?と思うようになりました。
例えば、授業内容やソフトテニスの知見をブログ記事やYouTube動画にしてネット空間に置いておけばいいのではないか。こうすれば、「教室内にいる生徒、目の前にいる生徒にしかリーチできない」ということがなくなります。また、自分自身が稼働しなくても「自分の分身」が代わりに授業・指導をしてくれるようになります。
インターネットを活用した方が、学校現場で働くよりもたくさんの子供や教員の役に立てる(=社会に貢献できる)可能性が高いのでは?
学校現場の一教員としてではなく、一人一人の学びをサポートする環境の整備に注力する立場から教育に携わる方が向いているのでは?
そう考え始めた僕は、教員を辞めるタイミングを見計らうようになりました。
そして、(ここでは省略するが)退職を決意する出来事が起き、当初の予定よりも少し早く学校から離れることを決めました。
これまで③(ブロガー時代)
ブログ
教員を辞めることへの未練はありませんでしたが、退職後の準備を全くしないまま(=次の収入源がない状態で)教員を辞めたために収入が一気に0になった、という点がしんどかったです。
教員時代は忙しくてお金を使う暇がなく、また実家暮らしだったこともあり、1,000万くらいの貯金はありました。なので当分は無収入でも死ぬことはないとは思っていました。
それでも怖かったです。相当焦っていました。どんどん減っていく貯金残高が、まるで自分の寿命の砂時計みたく感じられました。
なんとかして収入を生み出さなければいけない。そのためには何か一つのことに全力を注がなければいけない。
そこで、バイトや再就職はせずに、まずは教員を辞める前からやってみたいと思っていたブログとYouTubeに注力することにしました。
- ずっと続けてきたソフトテニスに関する知見
- 学生時代の勉強の経験
- 教員の経験から培った学習に関する知見
- 社会科教員として蓄積してきた社会科の知識・考え方
今まで自分が培ってきたもの、ありとあらゆる経験をコンテンツ化しました。
ところが、授業内容・ソフトテニスの知見をブログ記事やYouTube動画にしてネット空間に置いたところで、たいした収入にはつながらないことにすぐに気がつきました。他人の商品を自分のウェブ媒体で紹介して仲介手数料を得るアフィリエイトで収入を得ようと思っていたものの、社会科やソフトテニスの分野には紹介できる親和性の高い商品があるわけではなかった(=アフィリエイトには不向きな分野だった)からです。
そこで、大きな収入を生み出せそうな新たな分野にも思いつく限り同時進行で挑戦してみることにしました。例えばマッチングアプリの記事を書いてみたりとか。一回も使ったことないのに。
こんな調子で時間だけが過ぎました。最初の数ヶ月は鳴かず飛ばずの状態でした。けれど、
「自分は学生時代に『努力する才能』を身につけた。諦めずに努力し続けることができる。コンテンツを継続的に生み出すことが求められるブログは、自分と相性が良い。だから、諦めなければいずれ絶対に年間1,000万円は稼げるはずだ。1,000万円を目標にしよう。必ず達成しよう。」
そう自分に言い聞かせて、とにかくコンテンツを作りまくりました。そう言い聞かせるしかなかったのだと思います。自分を信じて手を動かし続けるしかなかった。
出口があるのかわからない真っ暗闇なトンネルの中を、ずっと走り続けている感覚。
すると、半年くらい経ったところで、うっすらと光が見えました。自分が作った大量のコンテンツ(ほぼゴミ)の中から、「あれ、このコンテンツうまくいってるよね???」って思える原石が見つかったんです。
その原石は、「この切り口のコンテンツって、世の中に全然ないなあ。一応作ってみるかー」くらいの軽いノリで作った適当なコンテンツで、自分にとって渾身の作品では全くありませんでした。
にもかかわらず、なぜかそれが価値あるコンテンツだと評価された。正直ビックリでした。
でもやっとチャンスをつかむことができた。このチャンスを活かさねば。そう思った僕は、運良く見つけた原石を磨き続けることにしました。
ブログはどんどん成長。アクセスと成果が急増し、3年ほど経った頃には年間1,500万円以上稼ぐブログになりました。
当面の目標だった1,000万円を超え、見事に目標達成。
ですが、嫌味に聞こえるかもしれないことを承知で言うと、当時の正直な感想は「やっぱりブログでうまくいくことができた」という感じでした。あまり驚きも感動もありませんでした。「自分はうまくいくまで諦めずに努力するタイプだから、ブログもいつか絶対にうまくいく」って信じていたからです。
一方で、「書いてきた記事の中で、まさかこの分野でうまくいくとは思わなかった」という驚きはありました。
「予想通りうまくいった」という感情と「予想外にうまくいった」という感情が同居する、複雑な気持ち。ほんと人生は何があるかわかりません。
ちなみに、最初に作ったブログ「もちおスクール」は現在、
に分化し、それぞれ不定期更新ではあるが運営を続けています。
これまで④(2023年〜の停滞)
やる気を失う
ところが問題が起きました。
当面の目標をそれなりに達成して危機感がなくなって以降、次の展望が描けなくなってしまいました。
「このブログを使って年間で稼げる限界値まで達したのでは・・・?」という感じがしたし、同じことを何年もやり続ける自分の姿をイメージできなくなってしまった。
今後の成長が見込めないこと・もうできるとわかったことに、興味を維持できない。
それにブログで収益を生み出すことができたとは言っても、アフィリエイトで他人の商品を売っているにすぎません。自分にしかできないことで価値を生み出しているわけではない、という感覚が常にありました。
他人が作った商品に価値があるだけ。他者に依存して生きているにすぎない。
自分が世に認められているわけではない。必要とされていない。代わりはいくらでもいる。
これじゃ1ヶ月後、1年後にどうなっているかわからない。不安。
しかも原石をたまたま見つけることができただけで、「狙い通りにうまくいった」というわけでもありません。その分野でブログを書いていて「むっちゃ楽しい!」って思っていたわけでもない。
確かにある程度のお金を得ることはできました。教員を続けていたら絶対に不可能な額でした。でも、その金額に見合う価値が自分自身にあるとは全く思えませんでした。
世の中に貢献できているという感覚がない。今まであんなに環境に恵まれて生きてきたのに、この社会に恩返しできている感覚が一切ない。
この世界で生きている実感がない。生きているけど死んでいる。そんな感覚。
その後も一応、毎日ブログを触って「仕事」は続けました。作業時間だけで言ったら、うまくいく前とうまくいった後もそんなに変わらなかったと思います。
でも、教員を辞めた直後のような必死さはなくなってしまいました。自分が作ったブログ記事やYouTube動画はそれなりに地球上の誰かに見られてはいるけれど、社会にインパクトを与えているわけではない。社会に貢献できている感覚は一切なく、モチベーションが低下してしまいました。
レールから外れて、こういう人生を歩むことになったことを後悔しているわけではありません。けれど、「別の人生もあり得たよなあ。別の人生の方が、社会に貢献できている感覚を持てていたかもなあ。」という妄想をよくするようになりました。
東大卒という学歴を活かして有名企業に就職し、上から与えられた役割を果たすべくゴリゴリ働いていたら。当時の僕にとっての「普通の道」を選んでいたら。いったい僕は今どこで何をしていたんだろう。
当面の目標を達成して満足する一方で、未来への不安を抱きつつ、自分は人生を無駄にして生きていないだろうか?と悩み、自分にしかできない仕事をしなければと焦りを感じる日々。
ブログでうまくいって真っ暗闇なトンネルを抜けたと思っていたけれど、全くの勘違いでした。
バイト
暗闇の中に居続けることに疲れてしまった僕は、気晴らしに週2〜3日、数時間だけ接客のバイトをしてみることにしました。
有り余った暇な時間を強制的にバイトで埋めることで、創作活動に充てられる時間を減らし、かつブログによる収入が減るという事態をあえて作り出すことで、「また走らなければ」と発破をかけようとしたわけです。
久しぶりの「普通の仕事」。電車に乗り、決められた時間に出勤し、決められた仕事をこなす。肉体労働は疲れる。
でも、仕事内容は僕にとって楽しいものだったし、暗いトンネルの中に籠っているより明らかに気が楽でした。久しぶりにたくさんの人と会話する仕事をするようになって、「たくさん喋ると声って枯れるんだなあ」「たくさん笑うと顔に笑いジワができるんだなあ」と、どうでもいいことに改めて気づいたりもしました。
一方で、改めて、いやもしかすると初めて、仕事について明確に実感できたことがありました。
それは仕事の種類について。クリエーションとオペレーションって全然違うんだなあ、ということ。
クリエーションは「ビジネスの仕組みを作り上げる」仕事。
- 何が価値になるかを見つけ出し、自分で仕組みを作らなければいけなくて大変だし、労力と時間をかけたとしても、お金が手に入るかわからなくてしんどい。
- けれど、全てが自分次第だから、ある意味で気楽で自由だし、うまくいった時に得られる対価が大きくなりやすい。
一方、オペレーションは「誰かが作ったビジネスの仕組みの下で、一定の作業をする」という仕事。
- 仕組みが既にできていて、何が価値ある行動なのか(=何をやればいいのか)が明確だから悩まなくていいし、役割分担された仕事さえこなし、とりあえず決められた時間さえ過ごせば、全体の成果にかかわらずお金をもらうことができて気楽。ありがたい。
- けれど、自分自身が働き続けなければ(=時間を提供しないと)お金は手に入らないし、自分の時間と体力を提供して手に入れられる対価は基本的に大きくなりにくい。
クリエーションとオペレーションがこんなにも違うのだということを、コンテンツ制作とバイトという両極端な仕事に同時期に取り組んだことで、心の底から実感をもって理解することができました。
そして自分自身のことを改めて見つめ直す機会にもなりました。
自分がやりたいことは何なのか。
クリエーションとオペレーション、どっちにも良い部分と悪い部分があります。どっちの方が偉いということもありません。自分がやりたい方、自分に合っている方を選べばいいだけです。
でも、自分はどっちをやりたいのか?
もう中年にさしかかるけど
やっぱり自分は、自分で道を切り拓きたい。自分の道を作りたい。「どうやればいいかわからないこと」に挑戦する生き方をしたい。
そう思いました。
思い返せば今までは、うまくいくやり方がはっきりした道、いわば舗装された道ばかり走ってきた人生でした。
ソフトテニスには道を指し示してくれる指導者や手本となる先輩がいたし、外部指導者・教員として10年近く続けたソフトテニス指導も、自分が過去に教わったことをベースにすることができました。
勉強だって、理解すべきことがすべてまとまっている教科書や参考書があったし、たくさんの生徒を合格に導いてきた塾・予備校の授業を受けることができました。
ブログはすでに「収益を生み出すためのブログ運営論」なるものがインターネット上にあふれていました。なにより、結局のところブログは諦めずに記事を執筆し続けることが事業の肝だという根性論的な要素が大きかったです。
これまで確かに努力はしてきました。一生懸命走ってきたとは思います。
でも、僕が今まで取り組んできたものは、「やり方はわかっている。あとはキミがやるだけ。」というものばかり。後追いしていただけ。すでに先人達が踏み固めてキレイに整えてきた道路の上を走っているだけでした。
今度は自分で道を切り拓きたい。まだ存在しない道を自分で作りたい。自分にとってまだ解決できていない、どうやればうまくいくかわからない領域に挑戦したい。まだ名前がついていない仕事をやってみたい。
僕は「『人が自分の可能性を最大限発揮できる社会、悲しみよりも笑顔の方が多い社会』の実現に向けて、やれることをやる」という生き方をする。今はじめて誰かに言ったけど、これがずっと自分が思い続けてきたこと。自分との約束です。
この約束を忘れず、今度こそ自分で道を切り拓きたい。
★★★
こんな大げさで熱くて恥ずかしいポエムなんかを書いてしまったので、奇跡的にここまで読んでくださった優しい方の中には「コイツ何かすごく大きなことに挑戦するのかな」と期待してくれた方もいるかもしれません。
でも、ガッカリさせてしまいそうだけど、そんなことはありません。
道を作ることができたとしても、細い細い道に過ぎないと思うし、前に進むことができたとしても、世の中にとっては小さな小さな一歩に過ぎないものだと思います。
でも、僕にとってそれが自分の道で、確実に前に進んでいる一歩なのであれば、それでいいと思っています。一人一人が独自の一歩を積み重ねて、社会は少しずつ前に進んでいくものだと思うし。
もう中年に差し掛かって、一般的には「限界と将来が見えて落ち着いてくる年齢」になってしまったけれど、まだまだ人生挑戦していきたいです。
ということで、これからやろうとしていることを、自分への戒めの意味も込めて宣言しておくことにします。
↓
これから(2024年〜)
まだ自分の中で解決できていない以下の課題に取り組む。
- 社会科をどうやって勉強したらいいかわからない
- どうすれば社会科を楽しく思えるようになるかわからない
- 社会科を勉強しても、現代について理解できるようになる気がしない(=学校で学ぶ社会科と現実社会との間に大きな断絶がある)
- 「正解のある問い」の処理能力を測る受験勉強に対する、子供・保護者の優先度が高すぎで、子供・保護者が競争に疲弊している(おそらく東アジア・東南アジアもこの傾向が強まりつつある)
- 「個別最適な学び、クリエーション、課題発見、仮説立案、能動性、リーダーシップ」にフォーカスした学びを、日本社会が子供(+大人)に提供できていない
- クリエイティブでリーダーシップがあり、一緒に学んだり議論したりしてお互いに高め合える、仲間と呼べる人がほとんどいない
具体的にどのように取り組むかについては、別の記事でまとめました。