戦国時代っていうのは、応仁の乱の後の約100年間、各地に戦国大名がいて激しく争った時代のことです。
その戦国大名について、3つに分けて説明します。
- 戦国大名とは?(登場した理由)
- 戦国大名はどうやって地域を支配したのか?
- 主な戦国大名
戦国大名とは?(登場した理由)
まず、戦国大名とは何なのか?という話をします。
戦国大名は、戦国時代の大名のことです。
守護大名とは違って、必ずしも幕府から地域支配を任命されたわけではなくて、自分の実力で地域を支配していました。
室町時代では、地方を支配する(まとめる)ために幕府が守護を任命していました。
室町幕府はこの守護の権限を強化しながら各地の武士をまとめていって、全国を支配していたんです。
(権限が強化された室町時代の守護のことを、鎌倉時代の守護と区別して守護大名って呼ぶこともあります。)
つまり、守護大名が地方の武士をまとめて、その地方を支配していた。
じゃあ、なんで守護大名が地方を支配することができるのか?
もうちょっと噛み砕いて言うと、なんで地方の武士は守護大名に従うのか?
と言うと、それは幕府が守護という役職に任命しているからです。
守護大名は、幕府に「守護の仕事をしてね」って認められたっていうお墨付きがあるからいろいろなことをできるわけです。
ところが、応仁の乱の頃から室町幕府の力が衰えてしまった。
そうなると、幕府が任命する守護っていう役職に意味がなくなってきます。
幕府が力を持っていれば、守護大名に対して「あの幕府に任命された人かあ」って思えるけど、
幕府が衰えていたら、「別に任命されたとか、関係なくね?言うこと聞かなくて良いや」って思う人が多いはずです。
となると、地方を支配する(まとめる)には、何が必要になるでしょうか?
“役職”じゃなくて、
その人が”しっかりとした実力を持っていること“がより重要になります。
で、実力で地域支配を実現する人が各地で現れました。これが戦国大名です。
戦国大名の中には、もともと守護に任命されていた人で「地域を支配する人」っていう地位をキープした人もいました。
一方で、守護代などの守護の部下や地域の武士のような、「下っ端」の存在だった人が戦国大名になったケースもありました。
このように、下の者が上の者に勝って交代することを下剋上と言います。
戦国大名はどうやって地域を支配したのか?
戦国大名が実力を持っている人だ、っていうのはなんとなくわかったけど、、、
「じゃあ実際、どうやって地域を支配していたの?」っていう話についてです。
3つに分けて説明します。
- (1)地域社会をどうまとめたのか?
- (2)家来をどうやってまとめたのか?
- (3)どうやって経済力をつけたのか?
(1)地域社会をどうまとめたのか?
戦国大名が実力で支配した地域のことを、領国(分国)と言います。
この領国にいる一人ひとりの武士からしたら、自分にとってプラスになる人・頼りになる人についていきたいですよね。
例えば、何かトラブルがあった時に解決をしてくれたり、間に入ってうまいことやってくれたりするような人。
つまり、戦国大名は信頼されていることが重要なんです。
(別に戦国大名に限った話ではないけど。地域を支配しようと思ったら、その地域にいる人から信頼されることが必要。)
分国法
戦国大名は領国支配のために分国法というルールを定めました。
その地域ならではのやり方を取り入れつつ、戦国大名の支配に従わせることを目指したルールです。
例えば、分国法の中にあったルールのなかで有名なのが喧嘩両成敗。
これは、トラブルを実力で解決しようとして争いをおこなった場合、その理由がどんな理由だったとしてもその当事者のことをお互い処罰するというルールです。
喧嘩したら両方とも成敗するよ、っていうこと。
まあもともとトラブルから争いが起きた時は喧嘩両成敗的な解決の仕方をしていたみたいなんですけど、戦国大名はさらに「俺が解決するから、お前らお互いに手を出すなよ」って言ったんです。
戦国大名の支配に従わせることを目指しています。
検地
戦国大名は、ルールを定めるだけでなく土地の調査もしました。
この土地の調査のことを検地と言います。
検地をすることで、その土地をだれが持っていて、その土地がどんな土地なのか?を把握するんです。
家来である武士に、土地の面積や収入額を自己申告させる形で土地の調査を行いました。(指出検地)
貫高制
収入額は、貫高制という仕組みを使って表されることになりました。
土地から得られる収入を銭で表示するんです。
(土地から得られる収入を銭で表したものを貫高と言う)
検地と貫高制によって、領国内の武士が管理している土地の規模を貫高という統一的な基準で把握することができるようになりました。
支配している地域の土地をしっかりと把握するって大事なことですよね。
(2)家来をどうやってまとめたのか?
次に、戦国大名は家来をどうやってまとめたのか?についてです。
貫高制
戦国大名は、貫高制を使って家来をまとめました。
※貫高は、家来たちの収入・地位の基準にもなったということ。
まず、戦国大名は家来である武士に対して貫高を保障します。
鎌倉時代は「土地の管理を認める」っていう形で武士の収入を保障していた(ご恩を与えていた)のですが、
戦国大名は「どこどこの土地」という形ではなく、銭の額である貫高という形で武士の収入を保障したんです。
土地そのものではなく、あくまで土地から得られる収益を武士の収入として保障した。
その代わりに、戦国大名はその武士が管理をしている土地の貫高に応じた軍役を課しました。
この結果、武士は貫高に見合った規模の軍隊を常に準備して、戦いが起きた時には参加することが義務付けられました。
こうして、貫高制のもとで戦国大名と家来との間の主従関係が作られました。
(土地から得られる収益を保障しているだけなので、同じ貫高の土地であれば置き換えすることが可能ですよね。この結果、家来である武士がその土地に縛られることがなくなったし、戦国大名から見れば、武士を土地から引き離しやすくなりました)
寄親・寄子制
さらに、戦国大名は一部の農民も家来に組み入れていきました。
農民の中には、自ら武装をし武士と主従関係を結んで侍身分を獲得していた人がいました。この農民出身の武士のことを地侍と言います。
農民っていう「支配される側」でありつつ、武士という「支配する側」でもあった、っていう人たちです。
この地侍を、戦国大名は家来に組み入れていくんです。
戦国大名の家来の中で有力な家来に地侍を預けて、グループを作りました。
この有力な家来のことを寄親、有力な家来のもとに預けられた武士たちのことを寄子と言って、この軍隊の仕組みのことを寄親・寄子制と言います。
このように軍隊を組織することで、戦国大名は高度な集団戦をすることができるようになりました。(鉄砲や長槍などの新しい武器を使った戦法)
関連:鉄砲伝来・キリスト教伝来・南蛮貿易(ヨーロッパ人との出会い)について
(3)どうやって経済力をつけたのか?
戦うためには、経済力が必要です。やる気があっても、武器や食べ物やお金がないとどうしようもないですよね。
ということで、戦国大名は経済力を高めようとしました。
城下町・楽市令
1つ目の方法が、城下町です。
戦国大名は大きな城とその周りに城下町を作って、商人や職人を呼び寄せて住まわせました。
で、「ここで商売をするなら税を払ってねって言ったりはしませんよ!」ってことで楽市令っていうのを出して、自由な商売をさせました。
税を取られることなく自由に商売ができるなら、商人や職人は積極的に城下町に住もうって思いますよね。もうかるので。
経済圏の整備
2つ目の方法が、流通のスムーズ化です。
通行料を取るために作られた関所を廃止したり、馬を配備したりして、領国を一つのまとまりをもった経済圏にしようとしたんです。
関所があると商品を運んだりする時に不便ですからね。
金銀鉱山の開発
3つ目の方法が、金銀鉱山の開発です。
戦国大名は、積極的に鉱山を開発して金や銀をたくさん採りました。
このことは、中国やヨーロッパとの関係に影響してきます。
主な戦国大名
最後に、主な戦国大名を紹介します。
16世紀半ばの、主な戦国大名の支配の様子はこんな感じです。
越後=長尾景虎(上杉謙信):守護代出身
相模=北条氏康:家来出身
甲斐=武田信玄:守護出身
駿河=今川義元:守護出身
越前=朝倉義景:守護代出身
尾張=織田信長:守護代出身
安芸=毛利元就:家来出身
薩摩=島津貴久:守護出身
※越後:新潟
※相模:神奈川
※甲斐:山梨
※駿河:静岡
※越前:福井
※尾張:愛知
※安芸:広島
※島津:鹿児島
応仁の乱以降、室町幕府の支配地域は山城国(京都)周辺だけになっていました。
→鉄砲伝来・キリスト教伝来・南蛮貿易(ヨーロッパ人との出会い)について
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