本記事では、一揆と応仁の乱について説明をします!
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僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
一揆と応仁の乱についてわかりやすく
一揆と応仁の乱について話をします。
今回話をする時代は、室町時代です。
今回の話をざっくりまとめると、
室町幕府の力が衰える
→室町幕府・鎌倉府が分裂する
→関東が戦国時代に突入する
→1467年に京都を戦場とする大きな争い(応仁の乱)が起きる
→全国各地に争いが広がって戦国時代に突入する
です。
まずは、「室町幕府の力が衰える」っていうところの説明をします。
①室町幕府の力が衰えた
室町幕府は、幕府がむちゃくちゃ力を持っていて日本全体を従わせていた、っていうわけではありませんでした。
将軍が力を持っている武士を守護に任命して、その守護が地域を支配していたんです。
(そのような力を持った守護は守護大名って呼ばれるようになった)
だから、将軍が守護に任命しているとはいえ、守護大名がいるからこそ室町幕府は全国を支配していたわけであって、将軍とその守護大名との絶妙なバランスが崩れると非常にマズいんです。
ただ、4代将軍足利義持の時代までは、将軍と有力な大名達とのバランスが保たれていて、室町幕府の全国支配は安定していました。
ところが、このバランスが6代将軍足利義教の時代に崩れてしまいます。
4代将軍の足利義持は1423年に将軍を辞めて、子供の足利義量が5代将軍になりました。
ですが、足利義量は病弱で1425年に17歳で死んでしまいます。
足利義量には子供がいなかったので、彼が死んだ後、お父さんの足利義持が将軍の代わりとして実質的に将軍の仕事をすることに。
ところが、なんと足利義持も1428年に死んでしまうんです。
この結果、6代将軍を誰にするか?っていう問題が生じました。
で、「どうするよ?」って大名たちが話し合った結果、石清水八幡宮っていう神社でくじ引きをすることになったんです。
くじ引きの結果、足利義持の弟の足利義教が6代将軍になることになりました。
この足利義教がバランスを崩しちゃうんですよ。
足利義教は、独裁的な政治をしちゃったんです。周りの人がビビっておしっこを漏らしそうになるくらい怖い政治を行ったみたいです。
そうなると当然、大名たちは不満です。
で、1441年に有力守護の一人である赤松満祐っていう人が足利義教を殺しちゃうんです。(嘉吉の変)
将軍がいるからこそ力を持った全国各地の大名たちがまとまることができていましたが、その将軍が殺されてしまった。しかも、その後は10歳くらいの幼い男の子が将軍になった。
この結果、将軍の権力が衰えてしまって、有力な大名が幕府の政治の主導権を握ろうと争い始めることになったんです。
で、大名たちが2つの勢力に分かれて争うことになり、室町幕府は内部対立してしまうことになりました。
②農民の生活が苦しくなって、一揆が結ばれる
室町幕府の力が衰えた原因は「大名たちが対立したこと」だけではありません。
社会で混乱・運動が起きたのも原因です。農民の生活が苦しくなって、貧しい人が増えたんです。
室町時代には、土倉や酒屋などのお金を貸す業者(金融業者)に対して、借金を重ねている農民がいました。
荘園で生活をしている農民は、その土地の所有者である荘園領主に対して年貢を納めることになっています。で、土地によっては、その年貢を集める仕事を土倉や酒屋が代わりにやったりすることもあったようなんです。
ところが、なかにはその年貢をちゃんと納めることができない農民もいた。
しかも、室町時代は気候の影響で農作物が全然取れない年が結構あって、かなりの農民の生活が苦しくなっていた。
そういう時に、お金を貸す業者である土倉や酒屋は「じゃあお金を貸してあげるから、これで年貢を納めたことにしてね」って言うわけです。
こんな感じで借金を重ねていって、生活がぶっ壊れていく農民がいたんです。
そんな中、1428年に足利義持が死にました。で、足利義教が6代目の将軍になると、ある事件が起きました。
農民が「借金を帳消しにしろ!」って言って、貧しい暮らしをしている武士たちと一緒に京都にある土倉・酒屋などを襲ったんです。
これを正長の土一揆と言います。
中世では、「将軍の代替わりの時に社会が”あるべき状態”に戻る!」っていう考え方が一般的だったみたいです。
ってことで、6代目将軍が誕生した時に、正長の土一揆っていう借金の帳消しを求める運動が起きたんです。
1441年には、6代将軍足利義教が有力守護の赤松満祐っていう人に殺されてしまいます。将軍の代替わりですね。
ってことで、やっぱり1441年に「借金を帳消しにしろ!」っていう運動が起きました。
これを嘉吉の土一揆と言います。
「借金を帳消しにしろ!」っていう運動が起きるくらい、農民の生活が苦しくなって貧しい人が増えていたっていうことですよね。
社会が混乱しています。
ちなみに一揆っていうのは、一人では実現が難しい目的を達成するために団結すること(団結した集団)を言います。
一揆に参加する人々が神社に集まって、「みんなで団結するぞ。裏切らないぞ。」って誓い合うんです。
で、みんなが署名をして、その文書を燃やします。
その灰を神水(しんすい)っていう水に溶かして、全員で回し飲みするんです。
儀式の時には鐘を鳴らしたようです。
金属音が鳴り響いて焦げた匂いがただよう神社で、「団結するぞ」って誓い合って回し飲みをすると、確かに気分が高まりそうですよね。
こうして、一人では実現が難しい目的を達成するために、人々は団結をしました。
これが一揆です。
このような団結のベースにあったのは惣村っていう農民の自治組織です。村では、農民が自分たちで地域を運営していたんです。
例えば、寄合っていう会議をしたり、自分たちの村独自のルール(惣掟)を定めたり。
ここまでをまとめます!
6代将軍足利義教の時代から、大名たちとのバランスが崩れてしまい、将軍が殺されることになってしまいました。
その結果、将軍の権力は衰えてしまって、大名たちが幕府の政治の主導権を握ろうと争い始めることになります。
一方、農村では自治組織が作られていて、団結のベースができていました。
そんな中で、借金を重ねたり、気候の影響で農作物が全然取れなかったりして、生活が苦しくなった農民が増えました。
で、農民は、将軍の代替わりを理由にして「借金を帳消しにしろ!」って暴れ出す事件を起こしました。
こんな感じで、大名たちが対立した上、社会で混乱・運動が起きることになって、室町幕府の力が衰えていくことなりました。
③戦国時代へ
ここから、戦国時代へと突入していきます。
まず、関東から戦国時代になります。
関東が戦国時代に突入するまでの話をします。
室町時代は、全国を支配していたわけではありません。
前の時代に幕府が置かれていた鎌倉には鎌倉府っていう役所(地方機関)が作られて、鎌倉府の長官である鎌倉公方が半ば独立した形で関東を支配していました。
ただ、鎌倉公方が一人で関東を支配していたわけではなく、鎌倉公方をサポートする役職として、関東管領という役職がありました。
鎌倉公方は室町幕府の将軍に対抗意識があって、お互いに対立して緊張が高まる場面が結構あった。
そして、鎌倉公方と関東管領もお互いに対立することがあった。
で、周りの人がビビっておしっこを漏らしそうになるくらい、怖い政治を行った足利義教は、1438年に鎌倉公方と関東管領の対立に介入して、鎌倉公方を攻め滅ぼしたんです。(永享の乱)
その後、しばらくして新しい人が鎌倉公方になったんですけど、鎌倉公方と関東管領の対立がまた起きてしまった。
で、1454年に鎌倉公方が関東管領を殺しちゃうんです。
で、室町幕府は鎌倉公方のことを攻めます。(享徳の乱)
その結果、鎌倉公方が古河っていう今でいう茨城のとある場所に移動して、抵抗するんです。(古河公方)
一方、室町幕府は京都から将軍の兄弟を堀越(ほりごえ)っていう、今でいう伊豆に送りました。(堀越公方)
こうして、関東を支配していた鎌倉公方が2つに分裂して、関東は戦国時代に突入することになりました。
京都でも戦乱が起きます。
室町幕府では、将軍の権力が衰えてしまった結果、有力守護の家や将軍家で争いが起きるようになりました。
まず、有力な大名である畠山と斯波の家で誰が後継者になるか?っていう争いが起きるんです。
しかも、将軍の後継者を誰にするか?っていう対立も起きた。
そんな中で、1467年に、畠山家での対立をきっかけに京都で戦乱が始まることになりました。有力守護だった細川と山名も加わって、東軍と西軍に分かれて争うことになったんです。
これを応仁の乱と言います。
こうして、京都も戦国時代に突入しました。
この戦いで厄介だったのが、生活が苦しくなっていた農民を両軍が戦いに組み入れたっていうことです。
生活が苦しくなっていた農民からしたら、世の中に対して不満を持っているわけですから戦う理由があるわけです。
農民たちは足軽と位置付けられて、徒歩で略奪行為をしたり放火をしたりして、かなりかき回したようです。
京都はボロボロになります。
応仁の乱自体は1477年に東西両軍が「もう戦うのはやめようぜ」ってなって終結しましたが、地方では引き続き争いが繰り広げられました。
守護(守護大名)からすると、自分が支配している地方がボロボロになる可能性があるので、地方に駆けつけることになります。
こうして、「有力な守護が京都に住んで、幕府の運営に携わる」っていう室町幕府の仕組みはぶっ壊れることになりました。
④地方での争い
応仁の乱以降、各地では誰がその地域を支配するか?をめぐって争いが続きました。
その中で、一揆が守護を倒すという事件が起きました。
1つ目が、山城の国一揆です。
武士や農民が守護を追い出して、8年間も自治支配をするんです。(自分たちで地域を運営した)
1485年から1493年の間です。
2つ目が、加賀の一向一揆です。
一向宗っていう宗教を信じている人たちが守護を倒して、約100年間も自治支配をするんです。(自分たちで地域を運営した)
1488年から1580年の間です。
このように応仁の乱以降、「実力がすべて」の世界になっていって日本全国が戦国時代に突入することになりました。
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