本記事では、鎌倉幕府の滅亡の理由と建武の新政について説明をします!
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僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政についてわかりやすく
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政について話をします。
今回話をする時代は、鎌倉時代です。
①鎌倉幕府の滅亡を理解するために
まず、鎌倉幕府の滅亡についてです。
鎌倉幕府の滅亡を理解する時には、2つのことをおさえることが大事です。
1つ目が、鎌倉幕府に対する不満が大きくなっていたということ。
2つ目が、鎌倉幕府を滅ぼそうと思った人がいたということ。
この2つが重なったからこそ、鎌倉幕府は滅亡するんです。
鎌倉幕府に対する不満がたまっていても、滅ぼそうと思う人がいなかったら滅亡まではいかないし、
鎌倉幕府を滅ぼそうと思った人がいても、不満を持っている人がそんなにいなかったら、滅ぼそうと思った人が潰されるだけです。
不満が大きくなっていたことと、滅ぼそうと思った人がいたこと、という2つのことをおさえるのが、鎌倉幕府の滅亡を理解する上で大事なことです。
では、1つ目の鎌倉幕府に対する不満が大きくなっていたことについて説明します。
②鎌倉幕府に対する不満
鎌倉幕府は、モンゴル帝国との戦争を経験しました。
これを蒙古襲来と言います。
で、そういう危機的な状況の中では、みんなで話し合って政治を行うのはイマイチなんですよね。
スピード感がないので。
そこで、蒙古襲来の頃から、鎌倉幕府では北条氏一族のトップの人(嫡流の当主)が絶大な権力を握るようになりました。
これって、周りの御家人からすると、不満を抱く1つの理由になりますよね。
政治的な不満です。
さらに、御家人は経済的にも鎌倉幕府に不満を抱くようになりました。
蒙古襲来の頃から、土地の分割相続などによって、御家人の生活がだんだんと苦しくなっていたんです。
そんな中で、蒙古襲来っていうのが起きてしまった。
御家人は、御恩に対する奉公っていう形で、戦いに参加するっていう契約を将軍と結んでいますので、モンゴル軍が襲って来たら、モンゴルと戦うわけです。
モンゴルと戦うためには武器とかの装備や食べ物が必要ですから、時には借金をしたりして、そういうものも頑張って準備するわけです。
ところが、別にモンゴルと戦ったからといって、新たに土地が増えるわけじゃないんですよね。
だから、奉公したのはいいけれど、御恩として新たに土地の管理権を認めてもらえる!っていうことがなかった。
負担だけして、何もプラスになるものをゲットできなかった。
ってことで、もともと御家人の生活が苦しくなっている状況で、蒙古襲来がその状況を加速させることになってしまったんです。
もちろん幕府はそのままにはせず、御家人を助けるための政策を行いましたが、効果はイマイチ。
こうした中で、特に近畿周辺では、幕府や荘園領主の支配に従わず、武力を使って抵抗する武士が現れるようになっていました。
このような人々のことを「悪党」と言います。
こうなると、幕府はトラブルを解決しないといけないわけですが、北条氏一族のトップが権力を握っていた鎌倉幕府は、うまいことやることができなかったみたいなんです。
政治的な不満と経済的な不満がギュッとあわさって、御家人は不満を募らせることになりました。
これが、鎌倉幕府に対する不満についての説明です。
ここに鎌倉幕府を滅ぼそうと思った人が現れたら、鎌倉幕府は滅亡へと向かっていきますよね。
で、そういう人が現れたんです。
③鎌倉幕府を滅ぼそうと思った後醍醐天皇
その人は、後醍醐天皇でした。
後醍醐天皇について、少しくわしく説明します。
まず、1270年頃から、天皇家で内部対立が起きていました。
天皇家の内部には2つの皇統(天皇の血筋)があって、その2つの皇統でお互いに対立していたんです。
大覚寺統と持明院統と言います。
で、1221年の承久の乱以降、天皇の皇位継承(誰が天皇になるか)に、幕府も絡むようになっていたので、2つの皇統が幕府に詰め寄るわけですよ。
「自分たちの血筋から天皇を出させてください」って。
こんなこと言われたら幕府も困っちゃうよなって感じですが、実際に困った幕府は、2つの皇統から交互に天皇を出すことに決めたんです。
これを両統迭立(りょうとう てつりつ)と言います。
で、ちょっと時が進んで、1318年に大覚寺統から後醍醐天皇が即位します。
この後醍醐天皇、ちょっとかわいそうな感じがするんです。
というのも、後醍醐天皇のお父さんは「後醍醐は正統な後継者じゃない。正統な後継者は邦良親王だ」って考えていたみたいなんです。
後醍醐天皇は、当時19歳だった邦良親王っていう「正統な後継者」が大人になるまでの中継ぎでしかなかった。
後醍醐天皇からすると、むちゃくちゃ不満なんです。
なんとか自分が理想とする政治を行いたいんですけど、お父さんの遺言で「キミは正統な後継者じゃないから」みたいなことを言われちゃっているし、両統迭立で次は持明院統から天皇を出さなきゃいけないことになっている。
どうしよう?って後醍醐天皇は考えます。
そして、「この仕組みをぶっ壊すしかないな」って考え始めたんです。
そこで、後醍醐天皇は幕府を倒して、天皇による全国支配を復活させることを目指した。
両統迭立(2つの皇統から交互に天皇を出す)っていう方針を出している幕府を倒せば、自分が天皇で居続けることができるかもしれない、っていう思いもあったんじゃないでしょうか。
で、後醍醐天皇は悪党の楠木正成たちと一緒に兵を挙げました。
が、失敗します。
後醍醐天皇は捕まっちゃって、天皇の位から退くことになりました。
で、持明院統の光厳天皇が代わって天皇の位につくことになって、後醍醐は隠岐っていう島に流されちゃうんです。
ですが、戦いはおさまらず。
悪党の楠木正成たちは反幕府勢力を集めて戦い続けるんです。
そして、諦めない後醍醐。(この人の執念、すごいんですよ)
なんと後醍醐は隠岐を脱出します。
で、後醍醐は「幕府を倒すぞ」って呼びかけて、反幕府勢力を集めて戦うんです。
鎌倉幕府はもちろん対抗しましたが、鎌倉幕府側だった足利高氏(のち、尊氏)が途中で裏切って反幕府派になって、朝廷を監視していた六波羅探題を攻め落とします。
関東では新田義貞っていう人が鎌倉を攻めて、北条氏一族を滅しました。
こうして、1333年に鎌倉幕府が滅亡しました。
鎌倉幕府に対する不満がたまっていた中で、かわいそうな後醍醐天皇が幕府を倒すことを決意し、執念深く戦った結果、鎌倉幕府が滅びることになった、っていうことですね。
④建武の新政
1333年、後醍醐天皇は光厳天皇が即位したことを否定して、天皇独裁の体制を整えようとしました。
後醍醐天皇の夢が叶った感じがしますよね。
後醍醐天皇が行なった政治のことを、建武の新政と言います。
ここでいったん、武家政権がなくなったということがポイントです。
じゃあ、夢が叶った後醍醐天皇は、うまくやることができたのか?というと、残念ながら残念なことになりました。
各地の武士にとって、最大の関心は土地の確保なんですよね。
土地は富を生み出す富の基盤なので、土地の管理を引き続き認めてもらったり、新しく認めてもらったりする、っていうことが、武士にとっては大事なことなんです。
で、天皇独裁を目指す後醍醐天皇は、土地支配の確認は天皇の命令文書が必要である、というルールにしました。
この命令文書のことを綸旨と言います。
でも、土地の支配の確認手続きって、すごく大変なんですよね。
天皇がいちいち全部の土地の支配の確認なんかできるの?って感じなんですよ。
案の定、大混乱したみたいです。
各地の武士が京都に殺到して、ニセ綸旨が出回るくらい、混乱しました。
夢が叶った後醍醐天皇が行なった建武の新政は、うまくいかなかったんです。
こうした中で、足利尊氏が兵を挙げました。
そして1336年、足利尊氏は京都を武力で押さえつけて、後醍醐天皇を降伏させました。
建武の新政は崩壊です。
後醍醐天皇の夢はまたもや破れてしまったのでした。
ところが…後醍醐の執念はまだ消えません。
この後どうなったか?については、また今度。
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