日本史

琉球処分をわかりやすく【日本の歴史】

  • 琉球が「日本の中の沖縄」になるまで
  • 沖縄が日本に編入されて以降(=琉球藩が「沖縄県」になって以降)

の沖縄の歴史について、わかりやすく説明したいと思います。

山川出版社の『詳説 日本史探究』では軽くしか書かれていないので、記事を読んでいただいた方の理解が深まるように頑張ります!

沖縄県では、土地制度・租税制度・地方制度などで旧制度が温存され、衆議院議員選挙が実施されたのも1912(大正元)年からであった。本土との経済的格差は大きく、県民所得も全般的に低かったので、本土への出稼ぎや海外移住で流出した人口も少なくなかった。

山川出版社 『詳説 日本史探究』p.245 注

琉球が「日本の中の沖縄」になるまで

琉球を日本に組み入れる

沖縄には1400年頃から琉球王国という国がありました。

江戸時代の琉球王国は、薩摩藩と中国の両方に従っているという複雑な状態にあり(日中両属状態)、日本の一部だったわけではありません。

この琉球王国を、江戸幕府が滅亡して新たに成立した明治政府は”日本”に組み込もうとします。

(理由)欧米流の国際関係では「国境があいまいなのはダメ!国境ははっきりと引く!」というのがルールだったから。欧米諸国のマネをして欧米諸国に追いつこうとしていた日本にとって、国境線が曖昧なアジア流の国際関係をアップデートする必要がありました。

1872 琉球藩の設置

1871年、台湾において琉球王国が関わるトラブルが発生します。

宮古島から首里に年貢を送った船が、帰り道で台風により流され、台湾南部(ぴょこっと突き出ているところ)に漂着。

そしてなんと、台湾に漂着した琉球民が、なんと台湾原住民に殺害されてしまったのです(54名が死亡)。

この事件に対する日本と中国のリアクションには温度差がありました。

  • 日本からしたら「(これから日本人に組み込もうとしている)琉球民が殺害されてしまった!うちの国民になんてことをっっ!」って感じ。
  • ところが、中国は「台湾の原住民は清朝の支配が及ばない人達だからなあ・・・」というリアクション

※当時、中国(清)は台湾を直轄領にしていました。が、台湾のことをそれほど重視していなかったこともあり、台湾全土を統治するのではなく西側の平野が比較的多い地域のみを管理していた状態でした(→台湾の原住民が東側の山岳地帯にいる)。

尚泰

琉球漂流民殺害事件(宮古島島民遭難事件)を口実に、明治政府は琉球を日本に組み入れる準備を推し進めました。

具体的には、1872年に琉球王国を琉球藩という名前に変えさせて、国王の尚泰っていう人を琉球藩王としました。

琉球王国のシステムを維持したまま、日本の一部に組み入れようとしたわけです。

1874 台湾出兵

中国(清)は「台湾の原住民は清朝の支配が及ばない人達だからなあ・・・」という理由で琉球漂流民殺害事件に対する賠償を拒否。

責任を追及したい日本は台湾への出兵を検討します。その後、台湾出兵を実行するか否かで政府内でかなり揉めたようですが、

最終的に日本政府は、軍人や士族の強硬論におされて1874年に台湾に軍隊を派遣しました(台湾出兵)。

軍隊が台湾南部に上陸し、台湾先住民との間で戦闘。

その後イギリスの仲介があって、日本と中国(清)の間で

  • 日本の出兵は正当な行動であること
  • 事実上の賠償金を支払うこと
  • 日本は軍隊を撤退させること

への合意がなされました。

「日本の出兵は正当な行動である」ことを中国(清)が認めたわけなので、琉球の帰属問題に対して日本が有利な立場を得ました。

そして1875年、日本政府は琉球に中国(清)との関係断絶を命じました。

ところが、まだ琉球の帰属問題に決着はつきませんでした。琉球が中国(清)との関係存続を希望したし、中国(清)も関係断絶を命じた日本に対して強く抗議したからです。

1879 沖縄県の設置(琉球処分)

1879年、明治政府は軍事力を背景に無理やり琉球藩の廃止・沖縄県の設置を実行しました。(琉球処分)

国王の尚泰は首里城を日本に明け渡して、東京へ移住することを強制されたのです。

この日本の行動に対して、中国(清)は「俺が支配している琉球になんてことしやがる!」って抗議してきて、揉めに揉めることになりました(→結局、日清戦争まで決着がつかず)。

上からの「日本」化

沖縄県が設置された後、明治政府は沖縄を近代日本の国家体制に組み込んでいきます。

  • 県知事は明治政府から派遣(初代県令は鍋島直彬 なべしまなおよし)。
  • 県庁役人や警察・教員などの多くが他府県出身者によって占められた。
鍋島直彬

一方で旧制度も温存(旧慣温存策)

一方で沖縄(琉球)の昔ながらの制度・慣習は温存されました。

土地制度・租税制度・地方制度などの住民の生活に密着に関わる部分での急激な改革は、強い反発を招くから・・・だと思います(徐々に少しずつ改革しようとした)。

※明治維新の頃の五榜の掲示と似ている

共通語教育

言語の矯正に関しては、明治政府は積極的に取り組みました。

沖縄師範学校や小学校を作り、テキスト『沖縄対話』を用いて沖縄の人々に日本語(普通語)を教育。沖縄の方言を喋った生徒の首に「私は方言を喋ってしまいました」っていう方言札をかけたりもしたようです。

沖縄の人が本土の人に差別されないように・・・とのこと(←差別されていたことの表れ)

日清戦争での勝利→沖縄の日本帰属が明確に

沖縄を日本に組み込もうとする行動により、日本と中国の間で対立が起きていました。

1895年、この「琉球は中国のものか?日本のものか?」問題に決着がつきました。日清戦争で日本が勝ち、下関条約で台湾が中国から日本のものになったからです。

「台湾が日本のものなら、台湾と日本にはさまれている琉球も日本のものでしょ」って感じ。

「沖縄」になってから(「大和世」)

沖縄が果たした役割

  • 砂糖の製造(糖業)が沖縄の基幹産業
  • パナマ帽、織物業、泡盛製造も行われた

旧制度の改革

日清戦争で勝利し沖縄の日本帰属が明確になった後、明治政府は旧制度の改革を実行します。

  • 1899〜1903 土地整理事業(→近代的な土地・租税制度がスタート)
  • 1896 郡区制

衆議院議員選挙の実施

明治政府は沖縄を近代日本の国家体制に組み込んでいったわけですが、沖縄県民に選挙権がすぐに与えられたわけではありません。

沖縄県民に選挙権が与えられたのは、1912年のことです。1912年にようやく衆議院議員選挙が実施されました。

背景には、謝花昇(じゃはな のぼる)ら沖縄県民による参政権運動がありました。

謝花昇

1879年の琉球処分から30年以上、1895年の日清戦争での勝利による沖縄の帰属問題の決着から17年経って、やっと「日本人」になれた・・・って感じ。

沖縄の経済が崩壊

沖縄はサトウキビから黒糖を生産する製糖業が盛んな地域です。

(本土にとって「砂糖の供給地」と位置付けられていた、とも言える)

沖縄の人々は砂糖を売ってお金を得ていたわけですが、第一次世界大戦後に日本で恐慌が相次いで起こる中で、沖縄もその影響を受けてしまいます。人口の7割を農民が占めた沖縄の経済も本土同様に崩壊。

沖縄の人々は十分なお金を得られなくなって困窮し、さらに台風や旱魃に襲われて、食べるものに困ります。

そこで、普段は食べないソテツという植物の実も食糧とするようになりました。

が、ソテツの実を食べるには十分な毒抜きが必要。にもかかわらず、毒抜きが不十分なソテツを食べてしまう。沖縄で集団食中毒が発生しました(ソテツ地獄)。

様々な背景があるはずですが、沖縄がサトウキビ生産に依存していた(=本土にとって「砂糖の供給地」と位置付けられていた)からこその事件と言えると思います。

移民(南洋移民)

第一次世界大戦後の不況とソテツ地獄で苦しむ中で、沖縄の人々は県外、そして海外に希望を見出します。

1920年代頃から

  • 大阪や神奈川への出稼ぎ
  • 南洋諸島やフィリピン、ペルーなどの南米への移民

が増加。沖縄を離れた出稼ぎ者や移民による仕送りが、沖縄にいる家族の生活を支えました。

沖縄県立博物館で撮影

※特に南洋諸島への移民(南洋移民)の数が多かった。沖縄県の奨励や南洋興発株式会社の募集などにより多くの人が送り出された。

※移民が盛んになった理由の一つに、「地割制が廃止されて土地の所有売買が可能になり、海外への渡航費を工面できる人が増えた」こともあるそうです。

参考資料

沖縄県公文書館

詳説日本史

政治・経済 東京書籍

読んで深める 日本史実力強化書

おすすめの学習教材
モチオカ

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