日本の古代史について、ざっくりと説明をします!
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この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
日本の古代史をざっくり4つに分けます!
この記事では、「旧石器時代〜平安時代」の日本の歴史をざっくりと説明します。
旧石器時代~縄文時代 | ①小グループで生活していた時期 |
弥生時代 | ②グループが大きくなった時期 |
弥生時代~奈良時代 | ③各地のグループが一つに統合されていった時期 |
奈良時代~平安時代 | ④統合がうまく行かず、それぞれが好き勝手にやり始めた時期 |
①小グループで生活していた時期
旧石器時代
約20万年前、現代人と同じ新人(ホモ=サピエンス)がアフリカ大陸で出現しました。
で、彼らお猿さん達は地球の各地にウッホウッホと歩いていきます。地球はどんどんお猿さんの星になっていったのです。
で、そのお猿さん(人類)はテクテクと歩いて日本(当時は「日本」って呼んでいたわけじゃないけど)にもやってきました。
「いや日本って島じゃん!お猿さんは水泳も得意だったの?」って思うかもしれませんが(実際にウッホウッホ呼吸しながら平泳ぎでもしたのかもしれませんが)、
大昔の地球はものすごく寒い氷期とそこそこ暖かい間氷期っていうのをくり返していて、ものすごく寒い氷期の時期は海面が低くて日本列島と大陸が陸続きになっていました。
なので、テクテクと歩いて日本へとやってくることができたわけです。
こうして、今の日本がある場所でもお猿さんが生活するようになって、いわゆる「日本史」が始まります。
彼らは野生の動物(マンモス、ナウマンゾウ、オオツノジカなど)を狩ったり、植物を採取したりしてお腹を満たしていたようです。
食料を見つけることが必要なので、洞窟や簡単なテント式の小屋に住みつつ、移動中心の生活を送っていました。
この時代を旧石器時代と言います。
旧石器時代の人間は家族など(いくつかの家族の連合体)の小グループで生活をしていました。
野生の動物を狩ったり植物を採取したりして生活する上で、グループが大きすぎると食料を十分にゲットできなかった時に困るからです。かといって単独行動だと役割分担できないので生きていくのは難しい。小グループを組むのがちょうどよかった!ってことでしょう。
縄文時代
そして今から約1万年前、地球が温暖化します。
地球が温かくなった結果、地球を覆っていた氷が溶け、水が流れ出して海面が上昇。こうして日本列島ができました。
また、温暖化したことによって人間が暮らす自然環境もガラッと変わりました。
- 中小動物が増えた
- 植物がたくさん生えた
- 入り江ができた
食料が豊かになって、食料をゲットするのが簡単になったんです。大型動物を探し歩く必要はなくなったんですよね。
こうして日本列島の人類は食料を探して移動生活をする…のではなく、定住生活をするようになっていきました(→竪穴住居)。
このように温暖化によって生活の様子がガラッと変わったので、それまでの旧石器時代と区別して、この時代のことを別の名前で呼ぶことにしました。
そうです!縄文時代です。
んで、縄文時代と言えば縄文土器。小学校の歴史の授業でも勉強するやつ。これも定住が始まったことと関係していると思います。
重くてデカい土器って持ち運びが不便で移動生活には向かないけど、定住する分には家に置いておけばいいですよね。で、食べ物を貯蔵したり植物を煮たりするのに使う。
そのような土器がたくさん作られるようになったので、この時代のことを、その土器につけられていた縄目の文様(もんよう)から名前をとって「縄文時代」と呼ぶようになったわけです。
旧石器時代と同様に、縄文時代の人々も小グループを組んで生活をしていました。食料をゲットするのが簡単になったとはいえ、大量の食料を生み出せる段階までは到達していなかったからです。
しかし、このあと日本列島に伝わった稲作は生活の様子を大きく変えることになりました。
②グループが大きくなった時期
弥生時代
日本列島で縄文文化が続いている間に、中国大陸では稲作が始まって農耕社会が成立し、さらに鉄器の使用が始まりました。
こうした稲作や金属器などの新しい文化・技術が、中国や朝鮮半島から日本列島に伝わります。
※縄文時代の終わりの頃に地球がまた結構寒くなって、朝鮮半島と日本の九州地方が陸続きになっていた…っていうのが一つの理由らしいです。
この結果、人々の生活の様子が変わりました。具体的に言うと、稲作が伝わったことにより縄文時代の狩猟採集社会から農耕社会に変化しました。食料を探してゲットする生き方から食料を生産する生き方へと変化したっていうことです。
ってことで、それまでの縄文時代と区別して、この時代のことを弥生時代と呼ぶことにしました(※なんで弥生時代と呼ぶのか?については省略→くわしくはこちら)。
※稲作が伝わったのは九州なので、農耕社会はまずは主に西日本に広がりました。日本全国に農耕社会が一気に広まったわけではありません。
この弥生時代の間に、人々が生活するグループが大きくなっていきました。より多くの人が集まってみんなで生活するようになっていったんです。
そのような変化をもたらしたのが稲作です。
稲作(コメ)っていろんな意味で特別なものだったんですよ。
まず、稲作という大仕事をする時にはたくさんの人々による共同作業が必要です。みんなで共同作業をするにあたっては、やっぱりリーダー的な存在が必要ですよね。こうして、人々の集団の中に社会的な上下関係(格差)が生まれました。
また、稲作により富を何倍にも拡大できるようになりました。コメって、1粒の種から何十倍何百倍の実がなるんですよね。食糧っていう富を一気に拡大させることができるすごいものだったんです。縄文時代にゲットしていた食料とはそのあたりが違いました。
そして、コメは腐りにくいので長期間保存することができます。大量生産した富を蓄積できるようになったわけです。なので、富をたくさん蓄積した集団とそうでない集団との間には経済的な上下関係(格差)が生まれました。
こうして、人々はより大きなグループで生活するようになり、さらには蓄積された富(=余ったコメ)をめぐってグループ同士で戦い始めたりもしました。
この結果、あるグループが別のグループを吸収したりして、だんだんと広い地域を支配する国みたいなもの(クニ)があちこちに誕生することになりました。
各地のグループのリーダーたちの思考
他のグループ(クニ)よりも抜きん出たい!
↓
①鉄資源をゲットしよう!
しかし鉄は日本列島内で生産できなかった(朝鮮半島から鉄資源を入手し、それを加工して鉄器にしていた)
→鉄資源を入手できる朝鮮半島との結びつきが大事!
②より強い存在からお墨付きをもらおう!
日本列島内での立場を高めるために、より強い存在である中国から「あなたは○○国のリーダーだよ」って認めてもらう
※教科書に出てくる金印はこの話と関係している
※ドラえもんのスネ夫みたいなイメージ(スネ夫は背後にジャイアンっていう強い存在がいるからこそ、のび太に対して強く接したりできる)
ちなみに、北海道と沖縄では稲作は行われなかったので、人々は縄文時代のような生活を続けました(グループはそんなに大きくならなかった)。
→【北海道】続縄文文化、【沖縄】貝塚文化
③各地のグループが一つに統合されていった時期
弥生時代
日本列島内で国同士が争っている中、倭国大乱という大きな争いが起こったりもしたようです。
「どうやったら争いがおさまるだろう…」って悩んだ国々は、邪馬台国の女王卑弥呼を「日本の王だ」って感じで共同で王に立てることにしました。
こうして争いはおさまり、邪馬台国を中心とする約29国の小さな国々の連合体ができました。
こんな感じで、各地のグループが一つにまとまっていく段階が第三段階です。
古墳時代
各地のグループが一つにまとまっていく過程は、リーダーのお墓の様子からもわかりました。
鍵穴みたいな独特な形の墓(前方後円墳)が、日本列島のあちこちで造られるようになったんです。お墓の形はどんな形でもいいはずなのに、鍵穴みたいな独特な形の墓ばかりが造られるようになった。
このことから、各地のリーダーたちが結びついて(共通の意識を持って)チームみたいなものを作っていたということがわかります。
で、特にヤマト地方(今でいう奈良県)にあった前方後円墳が巨大だったので、このチーム全体のボスはヤマト地方にいたのでは?って推測できます。
各地のリーダーが結びついて成立したこのような連合体のことを、ボスがいただろう地域から名前をとって、ヤマト政権と呼びます。
つまり、稲作によって大きく成長した日本各地のグループが、一つにまとまっていったわけです。
しかしヤマト政権は危機に直面します。
飛鳥時代
直面した危機はいくつかあるんですけど、その中で大きかったのが「隋が中国を統一して、国際的緊張をもたらした」という危機。
隋っていう国が南北に分裂していた中国を統一して、強くてデカい国を作ったんです。
で、それだけならまだよかったかもしれませんが、なんとその隋は、高句麗に軍隊を送ったりした。
ヤマト政権からすると、怖いんですよ。いつ海の向こう側から隋の軍隊が攻めてくるかわからないっていう恐怖です。
そこで、ヤマト政権の当時のボスだった推古天皇と甥の聖徳太子を中心に政治改革が行われることになりました。(→冠位十二階、十七条の憲法)
もっと日本のボス(天皇)に権力を集中させて、強いリーダーシップを発揮できるチームにしよう!っていう改革です。
つまり、国際的緊張の中で天皇中心の国づくりを目指したっていうこと。グループがだんだん一つにまとまってきていますよね。
でも、抵抗勢力がいてなかなかうまくいきませんでした。
ヤマト政権には大王(のちに天皇って呼ばれるようになる)っていうボス的な存在がいましたが、ボスが日本全体を支配していたわけではなく、あくまで各地の豪族が自分の国を支配している…っていう状況です。
そんな状況で、ボスは天皇中心の国を作るために「それまで豪族が支配していた土地と人々を、国家(ボス)が直接支配するよ」ってことにしたかった。
でもこれって、各地のリーダーである豪族からすると「オレたちのものを奪わないでくれよ」って感じですよね。
ってことで、抵抗勢力がいてなかなか天皇中心の国は完成しませんでした。
んが、いろいろあって(→詳細はこちら)、何十年もかけてやっと天皇中心の国の仕組みが整うことになりました!
奈良時代
※ここからはまだ執筆中です
こうして新たな時代が始まった。
どんな仕組みが作られたのか? ※中国のマネをして作った仕組み
【土地と人民は誰のもの?】
私地私民から公地公民に変わった
・天皇のものになった土地(公地)を支配するために、中央政府から国司っていう役人を地方に送って地方の政治を行わせた
・天皇のものになった人々(公民)を管理するために、戸籍(名簿)を作った
・国の運営に必要な費用を確保するために、人々には税を納めさせた(計帳という名簿に基づいて)
・ちゃんと税を納めさせるために、人々には田んぼをプレゼントした(食べ物に困らないようにして生活を保障した)
【どうやって国をまとめた?】
いろんなルールを作った(ルールのことを律令という)
※律令に基づいて運営された国家なのでこの国のことを律令国家という
天皇の住居の周辺に役所を作り、国の運営に必要な仕事をするための役人をそこで働かせた
なぜ仏教を利用したのか?
・
・
もっとくわしい内容は教科書とか資料集とかを読んでもらうとして、、、
とにかくこんな感じでスンバラシイ仕組みを作ったわけだけど、、、
④統合がうまく行かず、それぞれが好き勝手にやり始めた時期
奈良時代
律令国家が整えた仕組みはうまく機能しなかった。
“尊敬できる先輩”的な中国のマネをして、ものすごく頭を使ってスバラシイ仕組みを作ったとしても、日本にそれが合うかはわからないし、現実社会の人間がその仕組みで想定した通りに動いてくれるわけではない。
※せっかく合理的なマイハウスルールを作ったのに、我が子が想定外のことばかりしてルールが機能しない・・・せっかく作ったのに!!!って悩む親も多いはず。そんな感じ。
問題点①:田んぼを人々に割り当てるのが(=班田収授が)思ったよりも大変だった
※荒れた土地を開墾するのってむっちゃ大変
→対策:「ちゃんとした田んぼをプレゼントするのはキツイんで、勝手に開墾してくれ!その土地に税はかけるけど、あんたのものにしてあげるから」(743 墾田永年私財法)
=私有地を認め、たった30年ほどで「公地」を諦めた(→「苦労して手に入れたオレの土地!なんとしても守りたい」っていう欲求が生まれる)
墾田永年私財法が出された結果、
農民のなかでうまくいっていた人は、「よっしゃやるぜー」ってなって、土地を開墾しまくって、私有地を広げていったんです。
また、貴族や寺院も、「よっしゃやるぜー」ってなって、土地を開墾しまくって、私有地を広げていきました。
問題点②:税が重すぎた
※田んぼにかかる税である租はそれほど重くないけど、人にかかる税である調・庸などがむっちゃキツかった
→逃げたりちょろまかしたりする人続出(逃亡・偽籍)
→対策:
問題点③:天皇の周りにいる有力者が権力争いをした
平安時代
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