南蛮貿易でなぜ中国と日本が直接貿易をしなかったのですか?
っていう質問をいただいて、「良い質問!っていうか本質を突く質問!」って思ったので、勉強し直してまとめました。
日明貿易から南蛮貿易への流れ
日明貿易(勘合貿易)
- 朝貢形式(日本国王の朝貢と明皇帝からの返礼という形式)
- 明は自国民の出国を禁止(海禁政策)
- 明は周辺国のリーダーに勘合という証明書を発行する
- 日本商人は勘合を持った遣明船に乗って明の寧波などに行き、そこで交易をする
1400年頃に開始。
↓
1408年に足利義満が死去した後、4代将軍の足利義持は朝貢形式を嫌って勘合貿易を中断。
↓
6代将軍の足利義教のもとで、貿易利益を求めて再開。
↓
15世紀後半、室町幕府の衰退とともに貿易の実権は大名(大内氏・細川氏)へと移る。
↓
16世紀になると、遣明船の派遣は大内氏と細川氏が独占。両者が実権をめぐって争う。
↓
1523年、明の寧波で大内船が細川船を焼き払うという事件が発生(寧波の乱)。
↓
この争いに勝った大内氏が勘合貿易を独占。
↓
16世紀半ばに大内氏が滅亡し、それにともなって勘合貿易も断絶。
中国商人との密貿易
勘合貿易は断絶したが、九州の大名が派遣した遣明船と中国商人との間で、福建地方などで密貿易が行われた(後期倭寇)。
南蛮貿易
大航海時代のさなか、ポルトガルがインド洋沿岸から中国に至る交易ルートに参入。
↓
明政府は公的な貿易を認めなかったため、ポルトガル人は中国人倭寇と密貿易を行った。
→こうした中で、種子島にポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が漂着する(→鉄砲を購入)。
↓
明が倭寇を倒すのに協力した見返りとして、1557年にポルトガル人のマカオ定住が認められる。
↓
それ以降、ポルトガル船は日中間の中継貿易を行う。
中国と日本が直接貿易をせず中継貿易に依存した理由
- 明では自国民の出国を禁止する海禁政策が発動されていた。
- 日本にとっては、わざわざリスクを冒して明まで行き、密貿易をしなくて済む。
ただ、日本は
- ポルトガル人宣教師がキリスト教の布教する
- 中国産生糸をポルトガル商人から高値で買わなければいけない
という問題に直面することになり、
といった対処をすることになった。
最終的には、江戸幕府はポルトガル船の来航を禁止し、こうして南蛮貿易は終了した。
日本史の記事・動画一覧はこちら
参考文献
関連:高校日本史Bの参考書・問題集を東大卒元教員が紹介【大学受験にもおすすめ】
通信教育
学習漫画・参考書
社会科チャンネル
社会科(歴史・地理・公民・政治経済)の内容について、本質的な部分をわかりやすく解説するチャンネルです。