本記事では、ヨーロッパ人との出会い(鉄砲伝来・キリスト教伝来・南蛮貿易)について説明をします!
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僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
ヨーロッパ人との出会いについてわかりやすく
ヨーロッパ人が日本にやってきたという話をします。
今回話をする時代は、戦国時代です。
今回の話をざっくりまとめると、「16世紀半ばにヨーロッパ人が船に乗って日本に来て、いろんなものを日本に伝えたよ」です。
ただこれだけだとざっくりすぎるので、
- なぜヨーロッパ人が日本に来たのか?
- ヨーロッパ人が来たことで日本がどう変わったのか?
の2つに分けて、説明します。
①なぜヨーロッパ人が日本に来たのか?
まず、なぜヨーロッパ人が日本に来たのか?についてです。
ここで考えるべきなのは、2つです。
(1)なんで日本に来れたのか?(手段)
(2)なんのために日本に来たのか?(目的)
これ、僕たち人間が今から火星に行く、って考えるとイメージしやすいです。
今から火星に行こうとしても、難しいですよね。なんでかというと、火星に行く手段がないから。厳密に言うと火星に行く手段はあるのかもしれないですが、行ったら戻って来れない可能性が高すぎて危ないです。
火星に行こうと思ったら、そこにたどり着くためのいろんな技術・発明が必要なんです。
あと、火星に行けたとしても目的がなかったら行かないですよね。
「なんとなく火星を見たいから」っていう理由で、お金をかけて危険を冒して行くのはバカバカしいです。
火星に行こうと思ったら、火星でしか手に入らないモノをゲットしたい、とか何か目的があるはずなんです。
つまり、どこか遠くの場所に行く時には手段と目的があるんです。
手段と目的の2つの視点で、ヨーロッパ人との出会いについて説明します。
(1)なんで日本に来れたのか?(手段)
まず、ヨーロッパ人がどうして日本に来れたのか?についてです。
これは、16世紀半ばまでに船で遠くまで行く技術が発達したからです。
ルネサンスという文化運動・芸術運動が14世紀にイタリアから始まって、15世紀以降、ヨーロッパに広まりました。
そのルネサンスの時期に、船で遠くまで行くのに必要なものが発達したんです。
1つ目が、羅針盤。
方角を知るための、磁石を使った道具です。コンパスとも言います。
この羅針盤が、ルネサンス期のヨーロッパで改良されて実用化されました。
2つ目が、航海術。
航海術っていうのは、船がいま海の上のどこにいるのか?を考えたり、どの方角にどれくらいのスピードで進めばいいのか?を考えたりする技術のことです。
ワンピースだったら、オレンジ色の髪の毛のボインの人が担当しているスキルですね。
3つ目が、世界地図。
地球は球体だ、っていう考えに基づいて世界地図が作られました。
このように、ルネサンスの時期に船で遠くまで行くのに必要なものが発達しました。
このことが、ヨーロッパ人が日本に来たことのベースにあります。
(2)なんのために日本に来たのか?(目的)
次に、ヨーロッパ人がどうして日本に来たのか?についてです。
日本が目当てだったというよりも、ヨーロッパ人が海を渡って遠くに行きたかった目的の延長線上に日本があった、っていう感じでとらえると良いです。
ヨーロッパ人が海を渡って遠くに行きたかった理由を2つ説明します。
1つ目が、香辛料を直接手に入れたかったから、です。
胡椒やナツメグなどです。
ヨーロッパで肉を食べる文化が広まるにつれて、「香辛料がほしい!」ってみんな思うようになったんです。
ただ、この香辛料はインドや東南アジアで採れるものでした。
なので、イタリアの商人がイスラム教徒の商人から買い取る形で、ヨーロッパ人は香辛料をゲットしていました。
ところが、15世紀頃にオスマン帝国っていう国がアジア・アフリカ・ヨーロッパにまたがる地域を支配して、商人の活動を制限したんです。
そうなると、ヨーロッパ人としては香辛料をゲットしづらくなって困るんです。(ゲットできたとしても、ものすごい値段が高かったり)
そこで、ヨーロッパ人は「オスマン帝国を間に挟まない形でインドや東南アジアの香辛料をゲットしよう!」って考えて、船で直接アジアに行くことを考えました。
そうやって香辛料をゲットできれば、ヨーロッパで高い値段で売れるので儲かるんですよ。
2つ目が、キリスト教を広めたかったから、です。
16世紀に、教皇が「教会にお金を払えば罪は許されますよ」ってことをやっちゃったんですね。
で、「こんなのはキリスト教じゃない!」って思った人が、キリスト教の中で新しい派閥を作ったんです。
この新しい派閥をプロテスタント、この動きのことを宗教改革と言います。
つまり、宗教改革の結果、もともとの派閥であるカトリックと新しい派閥であるプロテスタントにキリスト教が分裂したんです。
で今度は、もともとの派閥であるカトリックが「プロテスタントに対抗して、私たちも改革をしよう!」って言って、海外に布教(宗教を広めること)をしようとしました。
で、「アジアにもキリスト教を広めるぞ!」ってことで船で海を渡ろうとしたんです。
この活動の中心にいたのがイエズス会です。(みんな大好きなザビエルもイエズス会のメンバー)
ここまでをまとめます。
ヨーロッパ人がどうして日本に来れたのか?
- ルネサンスの時期に、船で遠くまで行くのに必要なものが発達したから。
ヨーロッパ人がどうして海を渡ろうと思ったのか?
- ①香辛料を直接手に入れたかったかったから
- ②宗教改革の結果、「キリスト教をアジアに広めよう」って考えた人たちが現れたから。
こうして、ヨーロッパ人は積極的に海に出るようになりました。
で、この時代(ヨーロッパ人が積極的に海に出ようとした時代)のことを大航海時代と言います。
大航海時代で先頭を走っていたのはポルトガルとスペインでした。
ポルトガルは、16世紀初めにインドのゴアや東南アジアのマラッカに拠点を作ってアジアでの貿易に参加しました。1557年には中国のマカオに住みつくことを認められました。
スペインは、太平洋を横断してフィリピンのマニラに拠点を作ってアジアでの貿易に参加しました。
こうした中で、日本にもヨーロッパ人がやって来るんです。
1543年と1549年の出来事が重要です。
②ヨーロッパ人が来たことで日本がどう変わったのか?
ヨーロッパ人が来た結果、日本に鉄砲とキリスト教が伝わって、これが戦国時代の日本にかなりのインパクトを与えました。
鉄砲の伝来
まず1つ目の鉄砲伝来についてです。
ポルトガルは、東南アジアのマラッカに拠点を作って、インド洋から中国あたりで商売をしていました。が、中国は正式にポルトガル人と貿易することを認めなかったので、ポルトガルは中国人の海賊(倭寇)と一緒に密かに貿易をしていました。
こうした中で、1543年にポルトガル人をのせた中国人の倭寇の船が種子島に到着したんです。
で、種子島にいた日本人は、ポルトガル人が持っていた鉄砲を見て「こりゃすごいぞ!」って思って、鉄砲を2つ買うことにしました。
1つは自分用、もう1つは分解して「どうやって作るのか?」を調べる用です。
その後、堺(大阪)や国友(滋賀)などで鉄砲の製造が始まりました。
堺市博物館より
この鉄砲伝来によって、戦国大名の戦い方や城の作り方が変わりました。
戦法は、騎馬戦から足軽鉄砲隊を使った戦い方に変化しました。
築城法は、山城から平城へと変化しました。
築城法の変化について、くわしく説明します。
山城っていうのは、山に作られる城で防御に優れている城です。
その山城を攻めて打ち崩すのは難しいので、鉄壁の山城!って感じだったんですけど、、、1543年に鉄砲が日本に伝わった。鉄砲の攻撃力は半端ないんです。
だから、鉄砲を大量に持っている戦国大名の軍隊に山城が囲まれると、山城から出るに出られなくなってジ・エンドなんですよ。(餓死したりして勝手に死ぬ)
鉄砲が使われるようになると、戦いの結果を左右するのは防御力よりも攻撃力になるから山城にこもるメリットがなくなるわけです。
むしろ平地に城を作って、経済活動をどんどん行って鉄砲を作れるようにしたり、兵隊を常に準備したりする方がメリットが大きくなるんです。
ってのと同じです。
キリスト教の伝来
次に、2つ目のキリスト教伝来についてです。
1549年に、イエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルが鹿児島にやってきました。(宣教師っていうのは、宗教を広めるために遠くに行って活動している人のこと)
で、ザビエルが、キリスト教(カトリック)を日本に伝えました。
ザビエルは京都に行って天皇や将軍から布教の許可をゲットしようとしたみたいですが、さすがにそれは実現しなかったみたいです。
ってことで、ザビエルは戦国大名の保護を受けつつ地域で布教活動をしました。
この結果、日本でキリスト教徒が増えました。なかには、キリスト教徒になった戦国大名もいました。このような戦国大名をキリシタン大名と言います。
1582年頃には、九州や近畿などで10万人以上のキリスト教徒が生まれたらしいです。
南蛮貿易
最後、3つ目として南蛮貿易について説明をします。
日本が、主にポルトガル人と行った貿易のことを南蛮貿易と言います。(ポルトガル人やスペイン人のことを南蛮人って呼んでいました)
1557年にポルトガル人が中国のマカオに住みつくことを認められて以降、ポルトガル人は日本と中国の間に入って中継貿易をしたんです。
日本の銀をポルトガル人が中国に持っていって、中国の生糸と交換する。
で、中国の生糸をポルトガル人が日本に持っていって、日本の銀と交換する。
これがポルトガル人が行った中継貿易です。いわゆる転売です。転売をすることによって転売ヤーが儲かるのは、現代も昔も同じです。
ここで重要なのが、日本で銀がたくさんとれるようになったということです。
灰吹法っていう、鉱石から銀を取り出す方法が朝鮮半島から日本に伝わった結果、石見大森銀山などからの銀の生産量がむちゃくちゃ増えたんです。
で、その銀を狙ってポルトガル人がやってきた。
一方、中国(明)では銀が必要とされていました。税として銀を納めなきゃいけなかったらしく、中国の人々が「銀をゲットしたい!」って思っていたんです。
ただ、戦国時代になって日明貿易がストップしていたので、日本の銀を中国はゲットできないわけです。
ポルトガル人はそこに目をつけたんだと思います。
「銀がとれる日本」と「銀を求めている中国」の間に入って中継貿易をして、がっぽり儲けたんです。
関連記事:南蛮貿易でなぜ中国と日本が直接貿易をしなかったのか?
ちなみに、この南蛮貿易はキリスト教の布教とセットになっていました。
ポルトガル人は、「キリスト教を広めていいよ」って言ってくれた戦国大名の港にだけ入るようしたんです。
こうして、ポルトガル人はキリスト教を広めつつ、がっぽり儲けることに成功しました。
これが南蛮貿易です。
まとめ
ルネサンスの時期に、羅針盤・航海術・世界地図が発達した結果、ヨーロッパ人は積極的に海に出られるようになった。
目的は、香辛料を直接ゲットすることと、プロテスタントの宗教改革に対抗して、キリスト教をアジアなどにも広めること。
こうして大航海時代が訪れた。
そんな中で、日本にもヨーロッパ人がやってきて、鉄砲とキリスト教が伝わった。
鉄砲伝来によって、戦国大名の戦い方や城の作り方が変わった。
キリスト教伝来によって、日本でキリスト教徒が増えた。
南蛮人は、日本の銀と中国の生糸を仕入れて転売を行う、中継貿易を行った。
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