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豊臣秀吉の政策(織豊政権3)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説【日本史32】

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権3)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説こんにちは。もちおです。

本記事では、

豊臣秀吉の政策

  • 太閤検地
  • 刀狩
  • 人掃令
  • 朝鮮出兵

について説明をします。

 

この記事の信頼性

僕(もちお)は、元社会科教員。

  • 日本史についてそれなりにくわしい。

僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。

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豊臣秀吉の政策についてわかりやすく

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豊臣秀吉の政策の話をします。

 

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

今回話をする時代は、安土桃山時代です。

 

 

織田信長と、その後の豊臣秀吉が大きな権力を握っていた状態のことを、織豊政権と言います。1573年の室町幕府滅亡から1603年の江戸幕府成立までの約30年間です。

今回は、この織豊政権の後半。

1582年の本能寺の変で織田信長が自害した後の、豊臣秀吉の時代についての話です。

 

 

4つに分けて話をします。

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説
  1. 信長の後継者争いで、秀吉が勝った
  2. 朝廷の権威を利用しつつ、秀吉が天下統一を実現した
  3. 秀吉が近世社会の基礎を作った
  4. 秀吉の外交

※今回は、③④です。

 

 

③秀吉が近世社会の基礎を作った

秀吉は、近世社会の基礎を作ったという話をします。

この後の江戸時代につながる話で、むちゃくちゃ大事です。2つ話をします。

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説
  • (1)全国の土地の価値が米の生産力(石高)で表された社会になった(石高制)
  • (2)武士と農民との身分の区別がはっきりした社会になった(兵農分離)

 

 

(1)全国の土地の価値が米の生産力(石高)で表された社会になった(石高制)

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

秀吉は、全国の土地の調査をしました。

秀吉が行った全国の土地の調査のことを、太閤検地(たいこう けんち)と言います。(秀吉が関白を辞めた後に、太閤と呼ばれたので)

 

土地は富を生み出す基盤なので、その土地についてしっかりとした情報(「この土地からはお米がこれくらい取れる」のような情報)を持っておくことって大事なんです。

 

戦国大名も自分の領国で土地の調査(検地)を行なっていましたが、当然、みんなそれぞれのやり方でやっていたので、測定をする時の基準がバラバラでした。

そこで秀吉は、全国統一の基準を作って、検地を行なったんです。これが太閤検地です。

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

太閤検地では、一人一人が管理している土地の面積を調べました。

土地の面積を調べるときの基準は、「1歩」です。1歩は、だいたい「畳を2枚並べた大きさ」です。(左足、右足、って歩いた時の長さが1歩の由来らしい)

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

で、300歩=1段(たん)としました。1段は、だいたいテニスコート4面分の大きさです。

 

こうやって土地の面積を調べたんですけど、土地の面積だけ調べてもあんまり意味がないですよね。土地によって、どれだけの収穫物をゲットできるのか?は違うので。

 

ってことで、太閤検地では、それぞれの土地の生産力(どれだけの収穫物をゲットできるのか?)も調べました。

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

秀吉は、土地の生産力を「その土地でとれる米の量」で表すことにしました。(その土地で米を生産していなかったとしても、土地の価値を米の量で換算して表した)

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

米の量は体積で測定するんですけど、その体積の表し方は現代でも使われているやつです。

1石=10斗=100升=1000合

(1合は、現代だとお茶碗2杯分くらい)

 

で、秀吉は、1升を測定する基準として、京枡っていう枡を使うことにしました。全国統一の基準ですね。

 

こうして、土地1段あたりの土地の生産力を調べました。この1段あたりの生産力のことを石盛と言います。

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

ここまで来たら、石盛×面積という計算をすれば、ある範囲の土地の生産力を表すことができますよね。

この石盛×面積のことを、石高と言います。

 

この太閤検地によって、各地の大名がそれぞれ支配している土地の石高が明確になりました。全国の土地の価値が米の生産力(石高)で表された社会になったんです。

この仕組みのことを石高制と言います。

 

石高制は、主従関係の基準にもなりました。

大名は、自分が支配している土地の石高に応じた規模の軍隊を準備することになったんです。

 

 

(2)武士と農民との身分の区別がはっきりした社会になった(兵農分離)

 

また、秀吉の政策によって、武士と農民との区別がはっきりした社会になりました。

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

それまでは、農民の中には、自ら武装をして武士と主従関係を結んで侍身分を獲得していた人がいました(地侍)。農民っていう「支配される側」でありつつ、武士という「支配する側」でもあった、っていう人たちです。

そのような人たちが、秀吉の政策によっていなくなるんです。これを兵農分離と言います。

 

この兵農分離が実現するうえで、重要な政策を3つ説明します。

 

1つ目が、太閤検地です。

 

太閤検地では、1区画の土地ごとに、年貢を負担する責任者を1人登録しました。これを、一地一作人の原則と言います。

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説
  • 管理を認められた土地の石高に基づいて年貢を負担するのが農民
  • その年貢を受け取り、石高に応じた軍役を負担するのが武士

という形で、身分の区別がはっきりすることになりました。

 

ちなみに、この一地一作人の原則によって、中世までの荘園制は否定されて、「この土地は一体だれのものなんだ?」っていうことがなくなりました。

 

2つ目が、刀狩です。

 

秀吉は、1588年に刀狩令を出して、百姓が武器を持つことを禁止しました。

(※百姓=農業・林業・漁業をしている人々)

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

これは「あなたは百姓として生きていくことを選んだんだから、武器はいらないでしょ」ってことで、一揆を防止して、農民を農業に専念させるための政策です。

 

と同時に、刀狩には、武士と農民を見た目ではっきり区別しようっていう狙いがあったらしいです。

武士って、刃物を腰に2本指していますよね。長いやつと短いやつを1本ずつ(長いやつを刀、短いやつを脇指と言います)

この、刀と脇指の二本を腰に指して持ち運ぶことを帯刀と言いますが、刀狩によって、農民は帯刀の権利を原則禁止されたんです。

 

この結果、見た目で武士か農民かがはっきりわかるようになりました。

 

3つ目が、人掃令です。(高校レベル)

 

これは、豊臣秀吉が行なった朝鮮出兵のための政策なんですけど、武士と農民の身分をはっきり分けることにつながったので、「身分統制令」って呼ばれることもあります。

 

武士には、自分の召使い的な存在がいました。戦いの時には一緒に参加して、戦いがない時には雑用的な仕事をする人です。このような人のことを武家奉公人と言います。

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

また、戦いをする時には、戦場に食糧や武器などを運ぶ人が必要です。この役割を果たした人のことを陣夫(じんぷ)って言うんですけど、陣夫は百姓が担っていました。

 

で、(このあと説明しますが)豊臣秀吉は1592年から朝鮮出兵を行います。

 

戦いなので、武家奉公人や陣夫が必要なんです。

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

そこで、人掃令というものを出しました。

これは、武家奉公人が町人や百姓になったり、百姓が商売を行なったりすることを禁止したルールです。

 

朝鮮出兵の際に、武家奉公人や百姓がいなくなると困るから、こういうルールを出したわけです。

1592年には、武家奉公人・町人・百姓の職業別にそれぞれの人数などを調査する政策を全国の村で行ったようです。

 

この結果、武士と農民の身分がはっきりと分かれることになって、兵農分離が実現しました。

 

まとめると、

  • 太閤検地の一地一作人の原則
  • 刀狩
  • 人掃令

によって、武士と農民との区別がはっきりした社会になったということです。(兵農分離)

 

 

④秀吉の外交

秀吉が行った外交について話をします。

ポイントは2つです。

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説
  • (1)南蛮貿易を積極的に行いたかったので、キリスト教の取り締まりは中途半端になった
  • (2)「日本を東アジアの中心にするぞ!」ってことで朝鮮出兵を行なった

 

 

(1)南蛮貿易とバテレン追放令

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

ポルトガル人やスペイン人との貿易である南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動とくっついて行われていました。

そんな中で日本でも当然のようにキリスト教徒が増えていったわけですが、なんと、ある事件が発覚します。

 

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

肥前の大村純忠っていう人が、「イエズス会に長崎を差し上げます!」ってことをしちゃっていたんです。秀吉からしたらビックリですよね。「おいおい、それはさすがにやりすぎだろ」と。

 

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

ということで、秀吉はキリスト教の取り締まりを行いました。

  • 一般人がキリスト教を信仰するのは、「その者の心次第」
  • 大名がキリスト教を信仰するのは、秀吉の許可が必要

としたうえで、宣教師に国外追放を命じたんです。(バテレン追放令)

 

 

ただ、一方で、秀吉は南蛮貿易で得られる利益はゲットしたかったわけです。

そこで、1588年に海賊取締令っていうのを出して倭寇などの海賊行為を禁止して海の平和を実現しようとします。そして、南蛮貿易は積極的に行おうとしたんです。

 

南蛮貿易自体が宣教師の布教活動とくっついて行われていたので、宣教師を国外追放しつつ南蛮貿易を積極的に行うのって矛盾していますよね。

 

ってことで、結局、キリスト教の取り締まりは中途半端になりました。(これが、後々の「鎖国」につながります)

 

 

(2)朝鮮出兵

 

また、東アジアの中心とされていた中国(明)が衰えている中で、秀吉は「日本を東アジアの中心にするぞ!」ってことで、明を征服しようとしました。

で、明に攻め入ることを目指して朝鮮へと出兵することになりました。

 

 

【日本の歴史32】豊臣秀吉の政策(織豊政権2)について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

1回目の文禄の役(1592年)では李舜臣っていう人が率いた朝鮮水軍っていうのがむちゃくちゃ強くて、日本は苦戦。

で、日本は仲直りをしようとしたんですけど、そこでまたトラブルが起きて、結局、2回目の出兵をすることになりました。(1597年:慶長の役)

 

結局、途中で秀吉が死んで、「戦いは終わりだー!」ってことになって、朝鮮出兵は終了しました。

 

秀吉が死んだ後、いよいよ徳川家康が力を伸ばします。

 

 

まとめ

  • 秀吉は、太閤検地と石高制により、全国の土地の価値が米の生産力(石高)で表された社会を作った。
  • 秀吉は、太閤検地と刀狩と人掃令により、武士と農民との身分の区別がはっきりした社会を作った。(兵農分離)
  • 石高制と兵農分離は、近世社会の基礎となった。
  • 秀吉は、キリスト教を取り締まろうとしたが、一方で南蛮貿易を積極的に行おうとしたため、キリスト教の取り締まりは中途半端になった。
  • 秀吉は、「日本を東アジアの中心にするぞ!」ってことで、明を征服しようとした。

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 

 

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