占領下の日本について、
- 敗戦後の日本はどうなったのか?
- 戦後の生活(暮らし)
- 戦争犯罪人をどうしたのか?
- なぜ昭和天皇は処刑されなかったのか?
というテーマで話をします!
占領下の日本
敗戦後の日本はどうなったのか?
敗戦後の日本は、ポツダム宣言に基づいて連合国に占領されることになりました。
※連合国=第二次世界大戦で、日本・ドイツ・イタリアに対して連合して戦ったアメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国などの国々。
ポツダム宣言
1. 我々合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
3. 世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツとドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
4. 日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選択すべき時が到来したのだ。
5. 我々の条件は以下の条文で示す通りであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅延は認めない。
6. 日本国民を欺いて、世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。
7. 第6条の新秩序が確立され、日本国の戦争遂行能力が破砕されたことの確証があるに至るまで、連合国は日本国領域内の諸地点を占領するであろう。
8. カイロ宣言の条項は履行されなければならず、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国並びに我々の決定する諸小島に限定されることになる。
9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
10. 我々の意志は日本人を民族として奴隷化し、また日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるであろう。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるし、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるであろう。
11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争と再軍備に関わらないものが保有出来る。また、将来的には国際貿易に復帰が許可される。
12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に、占領軍は撤退するであろう。
13. 我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。右以外の日本国の選択肢は、迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。
※日本はポツダム宣言を受託する際に、天皇の地位・国体の保証が条件だよ!(=「天皇の国家統治の体験を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに」)と言った。
領土はどうなったのか?
日本の権力が及ぶ地域は、北海道・本州・四国・九州とその周辺の島々に限定されました(領土の約4割を失う)。
日本の権力が及ばなくなった地域
地域 | 獲得の歴史 | 戦後の動向 |
---|---|---|
台湾 | 日清戦争で獲得 | →中国に返還 |
朝鮮 | 韓国併合条約で獲得 | →北をソ連が占領し、南をアメリカが占領 |
南樺太 | 日露戦争で獲得 | →ソ連が占領 |
千島列島 | 樺太・千島交換条約で獲得 | →ソ連が占領 |
沖縄 | 琉球処分・日清戦争で獲得 | →アメリカが占領 |
小笠原諸島 | 領有を宣言 | →アメリカが占領 |
この結果、これらの地域にいた日本人が日本列島に戻ってくることになりました(約630万人もいたらしいです)。
日本人が日本列島に戻ってきたことを復員・引揚げと言います。
- 復員=軍人が戻ってくること
- 引揚げ=民間人が戻ってくること
ただ、日本列島に戻ってくることができなかった人もいました(→シベリア抑留、中国残留日本孤児)。
どうやって統治されたか?
日本の権力が及ぶ範囲は狭くなりましたが、
北海道・本州・四国・九州とその周辺の島々(日本の本土)に関しては日本政府が自由に何でもできたのか?というと、そういうわけではありません。
「日本をどうするか?」(=対日占領政策)は連合国みんなで決めようねってことになっていました。
ただ実際には、
(おそらく日本を敗北に追い込んだ国はアメリカだったので、)
日本の占領政策に関してアメリカは特別の地位を与えられて、事実上、アメリカ軍が日本本土を単独占領する
ことになっていました。
実際に日本で占領政策を実施した組織のことを連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)と言います。
その組織のトップ(最高司令官)がアメリカ人のマッカーサーという人です。
- 連合国軍最高司令官:Supreme Commander of the Allied Powers
- 総司令部:General Headquarters
ちなみに、なんで軍隊が来るのか?というと、
ぐちゃぐちゃになってルールが曖昧になった国で人々を動かすためには武力(暴力)をちらつかせることが有効だし、国民が反乱を起こした時に鎮圧する必要があるからです。
日本の統治の仕方はこんな感じです。
対日占領政策の最高機関である極東委員会(←11カ国で構成 @ワシントン)がいろいろ考えて決める
→それを踏まえて、アメリカ政府がいろいろ考えて決める
→それを踏まえて、GHQが占領政策を実行する
※GHQにアドバイスをする諮問機関として対日理事会という組織(←4カ国で構成)が東京に設置された。
※連合国同士で意見がまとまらない時は、アメリカ政府は極東委員会の決定がなくてもGHQに指令を出すことができた(中間指令)。
このように、日本はアメリカによって事実上、単独占領されました。
とはいえ、日本政府(日本でリーダーシップを取る人)が存在していなかったわけではありません。
日本の統治は「GHQの指令にもとづいて、日本政府が政策を実行する」という形で行われました。
このやり方のことを間接統治と言います。
ちなみに、GHQは皇居の目の前にある第一生命館を接収して、ここに本部を起きました。
あと、いま代々木公園がある場所は、アメリカ軍とその家族のための在日米軍施設として使われていました(ワシントンハイツと言います)。
1964年の東京オリンピックに際して、選手村・競技場エリアとしてワシントンハイツを使うことが決まって、このエリアが日本に返還されたらしいです。
※このワシントンハイツは近所の少年が野球を楽しむ場所としても使われたらしく、その中から少年野球チーム「ジャニーズ少年野球団」ができて、そのコーチだったジャニー喜多川さんは野球チームの少年を集めてジャニーズを結成したとのこと。
戦後の生活(暮らし)
戦後の日本人の生活についてです。
- 空襲でいろいろと破壊されてしまった(工場とか交通網・流通網とか)
- 復員・引揚げで人口が急増した
- 1945年に記録的な凶作に見舞われて食糧不足になった
という理由から、日本人の生活はかなり苦しい状況に陥りました(戦争中から苦しかったけど)。
モノ不足が深刻で、食料などは戦争中から引き続き配給で入手するしかなかったのにもかかわらず(←食糧管理法)、配給が遅れたり配給自体ができなかったりすることがあったみたいです。
そのため、人々は満員列車に乗って農村に買い出しに行ったり、闇市で買ったりして、なんとか生活しようとしました。
※当初は、モノが全くなかったわけではありませんでした。日本の軍部は本土決戦をするつもりだったので十分な備蓄をしていたし、人々も戦時中に物資や食糧をうまいこと隠していた(→戦後それが放出された)。
※しかし、それらが少なくなってくると、闇市などを通してモノを手に入れざるを得なくなった。
闇市は強制疎開や空襲でできた空き地で始まりました。
配給以外で食料を入手することは違法行為だったので、闇市でモノを買うのは違法行為でしたが、
そんなこと言ってられないくらい、配給だけじゃモノが手に入らない状態だったわけです。
今でも闇市の面影が残っている地域の例↓
- 新宿思い出横丁
- 新宿ゴールデン街
- 上野アメヤ横丁
戦争犯罪人をどうしたのか?
連合国は、日本の戦争犯罪人たちを次々と逮捕し、世界各地で裁判をして処罰しました。
- 通例の戦争犯罪(捕虜虐待などの命令)→B級戦犯
- 平和に対する罪(侵略戦争の計画・実行)→A級戦犯
- 人道に対する罪(捕虜虐待などの実行)→C級戦犯
日本国内でも戦争犯罪人たちの逮捕が行われたわけですが、戦争指導者(戦争のリーダー)は「日本の戦争責任を当時の政府・軍のトップに負わせる方針だったGHQ」により次々と逮捕されました。
で、そのうち28人がA級戦犯容疑者として起訴されて、1946年5月から東京裁判(極東国際軍事裁判)が行われます。
※『昭和史 戦後篇』で解説されている東京裁判のある種の茶番っぷりがすごく面白いので、ぜひ読んでいただけたらと思います。
あと、戦争犯罪人は巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に収容されて、ここで東條英機らの死刑が執行されました。
その後、跡地はサンシャインシティや東池袋中央公園として再開発されました。
処刑場跡地に作られた東池袋中央公園には石碑が立てられています。
なぜ昭和天皇は処刑されなかったのか?
最後に、なぜ昭和天皇は処刑されなかったのか?についてです。
大日本帝国憲法の下では天皇が日本の統治者で、戦争を開始する権限も陸海軍を動かす権限も天皇大権の一つとして天皇が握っていることになっています。
なので、
天皇(裕仁)は最大の戦争指導者ってことで処刑されてもおかしくありません。
実際、天皇の戦争責任を追及すべきだという意見が連合国やアメリカ国務省内にあった
※日本政府は天皇が処刑される(=天皇の戦争責任が追及される)なんてことはあってはならない!なんとしても防がねば!!!って考えていた
でも、昭和という元号は1989年まで続いたわけで、、、
つまり第二次世界大戦の時の天皇(裕仁)は戦後もずっと生き続けたわけです。
じゃあなぜ昭和天皇は処刑されなかったのか?
これは、
マッカーサーらが昭和天皇を占領統治のために利用しようと考えた
から、というのが有力な説の一つです。
当時の日本人は天皇万歳!って感じでした。
なので、もし天皇が戦争犯罪人として裁判にかけられたら(そして、そうなればおそらく死刑判決が下されたはずで、そうなったら)、日本人が反乱を起こすかもしれない。
そんなことになったらアメリカだって大変です。
だったらむしろ、「天皇万歳!」って感じの状況(天皇のもとで日本人がまとまっている状況)を占領支配に利用した方が良いんじゃない?ってアメリカは考えました。
ということで、天皇個人に戦争責任を追及したり、天皇制を廃止したりすることはやめて、「天皇とアメリカは良い関係を築いていますよ」って打ち出す戦略をとったわけです。
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こうして1946年1月、昭和天皇は「天皇を現御神(アキツミカミ)とするのは架空の観念である」と述べて、「天皇は神なんだよ」ってことをみずから否定しました。
これを天皇の人間宣言と言います。
※このあたりのくわしい事情については『昭和史 戦後篇』を読んでいただけたら、と思います。すごく面白いです。
以上が、戦争で負けて占領された日本の導入部分の話でした!
次の記事では、占領政策についてもっと具体的な話をします!
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