【日本史】明治初期の外交をわかりやすく(岩倉使節団、国境画定、日清修好条規、日朝修好条規)

明治時代初期の外交について、
- 明治新政府が直面した外交面での課題は何だったのか?
- 明治新政府はどうやって課題を解決しようとしたのか?
がわかるように説明します!
明治時代初期の外交
まず明治時代初期の外交についてざっくり説明すると、こんな感じです。
戊辰戦争で旧幕府に勝利して、正式に今後の日本を引っ張っていく立場になった明治新政府は、外国との関係において次のような課題を抱えていました。
- 欧米諸国と不平等条約を結んでいた
- 欧米流じゃなくてアジア流の国際関係の中にいた
- 自分の国を守りきれるかが危うい
簡単に言うと、「欧米諸国と対等な関係になりたい!」&「強くなって自分の国を守れるようになりたい!」ってことです。



ってことで、これらの課題を解決するために日本は次のような行動を起こしました。
| 不平等条約の改正交渉をする | →岩倉使節団の派遣 |
|---|---|
| 国境をはっきり決める | →樺太・千島交換条約、小笠原諸島の領有 |
| 蝦夷地と琉球を日本に組み込もうとする | →北海道の開拓、琉球処分 |
| 清と対等な関係を結ぶ | →日清修好条規 |
| 朝鮮と不平等な関係を結ぶ | →征韓論、日朝修好条規 |
※北海道と沖縄に関しては「外交政策」に分類するのはちょっと違うかもしれませんが、一緒に説明した方がわかりやすいと思ったのでまとめちゃっています!

では、ここからはそれぞれ具体的に説明していきます!
明治新政府が直面した外交面での課題
欧米諸国と不平等条約を結んでいた
1858年に日本はアメリカと日米修好通商条約を結びました。
この条約は
- アメリカの領事裁判権を認める
- 日本に関税自主権がない
という点で日本にとって不利な条約でした。しかも日本は、同様の条約をオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばされました(安政の五カ国条約)。



具体的に何が問題なのか?
領事裁判権
「外国人が日本で犯罪を犯した時に、日本人じゃなくて外国人の領事が裁判をする」っていうのが「領事裁判権を認めた」の意味ですが、そもそもこんなことを認めていたら独立国家とは言えません。国内のことは基本的に自分の国でなんとかする(他の国に関与させない)っていうのが独立国家だからです。

協定関税制
また、関税っていうのは「輸入品に課される税」のことです。外国商品に税をかけることで、外国商品の値段を上げて自分の国の商品が売れなくなることを防いだり(=国内産業の保護)、税収を増やしたりすることが目的です。
なので、関税の税率の決定権は輸入する国(この場合は日本)が握っている必要があります。ところが、日米修好通商条約によって、関税の税率の決定権を日本が握れなくなってしまったわけです。
これは、これから経済を発展させていこうと考えている日本にとって困ったことですよね。自分の国の産業が外国に負けて発展しなくなるかもしれないし、税収も少なくなるからです。

つまり、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復は、国家の独立と経済発展を目指す政府にとって超重要な課題だったということです。

欧米流じゃなくてアジア流の国際関係の中にいた
日本はアジアに属しているので当然っちゃ当然ですが、明治初期の日本はアジア流の国際関係の中にいました。
アジア流の国際関係の特徴って何なのか?というと、具体的には2つです。
国境線があいまい
現代の感覚で考えると「えーなにそれ!」って感じですが、江戸時代までは「どこまでが”日本”なのか?」が明確には決まっていませんでした。

中国の皇帝を中心とする国際関係
- 中国の周辺の国の王が、中国の皇帝にお土産を渡して「ははぁ〜」と挨拶をして(=朝貢)、
- 中国の皇帝が、「あなたをその地域の支配者として認めますよ」と認める(=冊封)
っていうのがアジアの伝統的な国際関係です。

欧米流の国際関係
一方、欧米流の国際関係はアジア流の国際関係とはかなり特徴が異なっていました。欧米流の国際関係では、
- 国境があいまいなのはダメ!国境ははっきりと引く!
- 国同士は条約を結んで対等(or不平等)な関係を築く!
っていうのがルールでした。
江戸幕府が滅亡して再スタートを切った日本は、欧米諸国のマネをして欧米諸国に追いつこうとしていました。なので、アジア流の国際関係からは抜け出さなければいけません。

具体的に言うと、以下の通りです。
- 北(→樺太・千島・北海道)・南(→小笠原諸島)・南西(→沖縄)の国境問題を解決して、「どこまでが”日本”なのか?」をはっきりさせる必要があった
- お隣の国である中国(清)と朝鮮との関係を欧米流のやり方にアップデートする必要があった

これが明治新政府が直面した外交面での課題の2つ目です。
自分の国を守りきれるかが危うい
そして3つ目の課題は、日本の独立を守りきれるか(=何かがあっても領土を奪われないようにできるか)が微妙だったということです。
明治新政府は、国境を防衛して独立を守ろうとしていました。もうちょっと雑な言い方をすると、日本という国の内部にまで外国が(いろんな意味で)侵入してこないようにしよう!って考えていたってことです。
じゃあ国境を防衛して独立を守るために具体的にどんな方針を持っていたのか?
明治新政府は「国境の外側に勢力圏を確保することが必要だ!」という方針を持っていました。

というのも、国境の外側に日本が勢力を持っている地域があれば安全だからです。
外国との間で何かヤバいことがあった時に、まずはその勢力圏を差し出して「これで許してください!日本の内部には入ってこないでください!」って感じの対処をすることができます。
いわゆる植民地みたいなもの。この時代、欧米諸国はいろんな地域を自分の国の植民地にしていました。
でも日本は、国境の外に勢力圏を持っているとは言えない状況でした。
※強いて言うなら琉球王国がそれに近かったと思うんですけど、明治新政府は結局のところ琉球王国を日本に組み込もうとしたので、「琉球王国=国境の外の勢力圏」とは捉えていなかった感じがします
というわけで、日本も「国境の外に勢力圏を持ちたい!」って考えたようです。

簡単に言うと、「欧米諸国と対等な関係になりたい!」&「強くなって自分の国を守れるようになりたい!」ってことです。
明治新政府の外交政策
ここまでの話をまとめます!
- 欧米諸国と不平等条約を結んでいた
- 欧米流じゃなくてアジア流の国際関係の中にいた
- 自分の国を守りきれるかが危うい
簡単に言うと、「欧米諸国と対等な関係になりたい!」&「強くなって自分の国を守れるようになりたい!」ってことです。
ってことで、これらの課題を解決するために日本は行動を起こしました。
不平等条約の改正交渉をする【岩倉使節団の派遣】
廃藩置県っていう一大事業を終えた明治新政府は、
- 安政の五カ国条約(日米修好通商条約とか)の改定交渉が1872年からできることになっていた
- このままだともっと不利な条約に改定されちゃうかも→改正交渉を延期してもらおう!
- 将来の改正に向けて予備交渉をしよう!
ってことで、1871年末に岩倉使節団をアメリカやイギリスなどに派遣しました。
岩倉使節団は岩倉具視を大使とする外交使節団。主なメンバーは
- 岩倉具視(右大臣)
- 木戸孝允
- 大久保利通
- 伊藤博文
- 山口尚芳
で、他にも留学生や記録係などが一緒についていって、合計100人くらいの使節団になりました。
※大使=海外に派遣していろんな交渉をしたり情報収集をしたりする外交使節団のトップの人

①条約改正の予備交渉
- 安政の五カ国条約(日米修好通商条約とか)の改定時期が1872年だった
- このままだともっと不利な条約に改定されちゃうかも→改正交渉を延期してもらおう!
- 将来の改正に向けて予備交渉をしよう!
②欧米諸国の見学
結局、条約改正の予備交渉はうまくいかなかったようですが、
ただ、岩倉使節団のメンバーは、欧米諸国がどんな国なのか?を実際に目にして、「欧米諸国スゴすぎる!!!こりゃ日本国内の制度とかを整える方を優先しないとマズイわ!!!!(=内治優先)」って気づくことになりました。具体的に言うと、議会や様々な法制度を整備する必要性を痛感した、ということです。
そして1873年の秋頃に帰国しました。
国境をはっきり決める【樺太・千島交換条約、小笠原諸島の領有】
1875年にロシアと樺太・千島交換条約を結んで、樺太はロシア領に、千島列島は日本領にすることを約束しました。
また、どこの国のものなのかがはっきりしていなかった小笠原諸島の領有を1875年に宣言しました。アメリカやイギリスが「ダメだ!」って言ってこなかったので、1876年に小笠原諸島は日本に組み込まれることになりました。


蝦夷地と琉球を日本に組み込もうとする
北海道の開拓
江戸時代には、北海道の南西部の松前は和人が住む地域になっていましたが、それ以外の地域では先住民族のアイヌが住んでいて、このアイヌが住む地域のことは蝦夷地と呼ばれていたんです。
※和人=蝦夷地に移住した、本州系日本人。
そんな蝦夷地を明治新政府は”日本”に組み込もうとします。
北海道の開拓:1869年に蝦夷地を北海道という名前に変えて、開拓使という役所を設置し、北海道の開拓を進めた。
- 畑作と酪農を組み合わせたアメリカ式の大規模農法を導入
- 生活が苦しくなった士族(元武士)を中心とする屯田兵を使って開拓(屯田兵制度、士族授産)

沖縄県の設置(琉球処分)
沖縄には1400年頃から琉球王国という国があって、江戸時代の琉球王国は薩摩藩と中国の両方に従っているという複雑な状態にありました(日中両属状態)。
そんな琉球王国を明治新政府は”日本”に組み込もうとします。
- 1872年、琉球王国を琉球藩という名前に変えさせて、国王の尚泰っていう人を琉球藩王とした。
- 1879年、軍事力を背景に無理やり琉球藩の廃止・沖縄県の設置を実行した(琉球処分)。
この日本の行動に対して、中国(清)は「俺が支配している琉球になんてことしやがる!」って抗議してきて、揉めに揉めることになりました(→結局、日清戦争まで決着がつかず)。

清と対等な関係を結ぶ【日清修好条規】
お隣の国である中国(清)とは、1871年に日清修好条規を結んで対等な関係を築きました。
欧米流の国際関係を結んだ、っていうことです。

ただ、日清修好条規を結んで日本と清が対等な関係を結ぶに至るまでに結構苦労したらしいです。
朝鮮と不平等な関係を結ぶ【征韓論、日朝修好条規】
朝鮮は、「自分の国を守りきれるかが危うい」っていう日本が直面した課題を解決するための場所だ!って見なされました。
どういうことかというと、、、
明治新政府は朝鮮半島を勢力圏(利益線)にしようと考えました。地図を見てみるとイメージしやすいと思います。
- 東は太平洋だからムリ
- 北はロシアだからムリ
- 南は東南アジアだけど欧米諸国が勢力を持っていたからムリ
- 西は中国だからキツい
- じゃあ朝鮮半島かな
みたいな感じです。勢力圏になりうる場所は朝鮮半島しかない、という状況。

ってことで、明治新政府はまず朝鮮に対して「国交を結びましょうよ」っていう交渉をしました。
ところが、当時の朝鮮で権力を握っていた人が「外国ぶっとばせ!」っていう攘夷の方針だったので、なかなか明治新政府の思い通りにはいきませんでした。

その後、岩倉使節団が海外に行っている間に、日本に残っていた政府のメンバーは「朝鮮がまた拒否しやがったら、もう武力を使っちゃおうぜ」っていう考え(征韓論)を持つようになりました。

で、この方針でいくことが一度決定されたのですが、岩倉使節団が帰国して、彼らが「征韓論なんて絶対ダメ!」って猛反対したので、征韓論は挫折しました。

ところが、1876年に日本は朝鮮に不平等条約を押し付けることに成功しました。
1875年、日本は朝鮮の江華島っていう島の近くに軍艦を送って、空砲をバンバン鳴らしたり測量をしたりするなどの威圧行為を行い、朝鮮を挑発するというトンデモないことをしました。
んで、この挑発により朝鮮が砲撃をしてきたので、「砲撃しやがったな!復讐だ!」ってことでバトルに発展しました(江華島事件)。

この事件をきっかけに、1876年、日本は軍事力を背景に交渉を進めて朝鮮と日朝修好条規を結びました。朝鮮にとって不平等な条約です。


こうして明治新政府は朝鮮を自分の勢力圏にするための第一歩を踏み出すことができたわけですが、当時の朝鮮はアジア流の国際関係の中にいて、まだ中国の影響のもとにある状態でした。
朝鮮を完全に日本の勢力圏にするためには、親分的存在である中国をなんとかしなきゃいけないわけです。
なので、このあと日本は中国とバトルすることになるわけです(→日清戦争)。















