
今回の話をざっくり言うと、「1858年に日米修好通商条約を結んで、欧米人が日本でビジネスをする=商売をすることになったんだけど、それはそれは大変なことになったよ」っていう内容です。
今回はこの内容を
- 日米修好通商条約の調印
- 日米修好通商条約の内容
- 日米修好通商条約を結んだ結果
の3つに分けて説明します!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
日米修好通商条約の調印
1853年にペリーが来航した後、江戸幕府の中では対立が起こっていました。

今まで幕府の運営に参加できなかった大名が運営に参加するようになったことによる対立と、

将軍の後継ぎを誰にするか?に関する対立です。
ハリスの要求

幕府内で対立が起きていた頃(1856年)、アメリカの外交官ハリスが、日米和親条約にもとづいて初代駐日アメリカ総領事として下田に着任しました。
ハリスは、「中国との貿易がうまくいかないなあ…」って思っていたので(←中国で太平天国の乱(1851〜64)が起きていた)、日本に対して「日本で商売させてよ」って言ってきました。
日米和親条約ではアメリカ人が日本で商売をすること(貿易)は認められていなかったので、さらに一歩踏み込んでこようとしたっていうことです。

そのハリスの要求に対して、幕府の中心にいた堀田正睦(←阿部正弘に老中首座の立場を譲られていた)は、「日本を強くするには欧米諸国との商売が必要だ!」って考えていて、欧米諸国と商売をする(自由貿易をする)ことに積極的でした。

が、日本には「欧米諸国との貿易はダメだ!外国をぶっ飛ばせ!」って感じで反対の立場をとる人もいました。有名なのが一橋派の徳川斉昭です。

このように、アメリカからの「日本で商売させてよ」っていう要求に対して、幕府内でなかなか意見がまとまりませんでした。
堀田正睦は勅許獲得に失敗

そこで、堀田正睦は天皇に「条約を結んでいいよ!」って言ってもらう(=勅許を得る)ことで反対派をおさえようと考えて、天皇がいる京都に行きました。
ところが、当時の天皇だった孝明天皇は「日米和親条約に基づいて食料や燃料を恵んであげるくらいならいいけど、貿易開始には反対!」っていう立場だったので、勅許を拒否します。
井伊直弼が大老に

このようにアメリカとの貿易開始をめぐって日本国内がゴタゴタしていた頃、1858年に(いろんな思惑が絡み合って)南紀派の井伊直弼が大老につくことになりました。井伊直弼が幕府を引っ張っていく立場になったのです。
んで、井伊直弼も天皇に「条約を結んでいいよ!」って言ってもらう(=勅許を得る)ことが必要だと考えていました。
条約の違勅調印
ところが、ハリスは幕府に対して「はよせいっ!」って圧をかけてきました。

ちょうどこの頃、イギリスとフランスが中国(清)を侵略していって(アロー戦争)、中国が天津条約を結ばされたのですが、ハリスはこのことを利用して「イギリスとフランスが今度は日本に来て、もっと強烈なことを要求してくるかもよ?さっさとアメリカと条約を結んでおいた方がイイっすよ」ってグイグイ攻めてきたんです。

それでも井伊直弼は「勅許を得てから条約を結ぶべきだ」って考えていたんですけど、「もうやむをえん…」ってことで、ハリスとの交渉にあたっていた幕府メンバーに対して孝明天皇の勅許がないままアメリカと条約を結ぶことをそれとなく認めました。

そして1858年6月、ハリスとの交渉をしていた幕府メンバーは「勅許がなくてもいいんですね?サインしますよ??」って感じで、天皇の勅許がないまま日米修好通商条約にサイン(調印)をしました。
将軍継嗣問題の決着

ちなみに条約が調印された後、13代将軍家定の後継者争いは南紀派の勝利で決着がついて、幕府は「徳川慶福が次の将軍になるよ!」って発表しました(→慶福は徳川家茂と改名)。
こうして、条約調印でも将軍の後継ぎ争いでも、南紀派の井伊直弼の勝利!って感じになりました。一橋派は井伊直弼に対して「ちくしょう…」っていう感情を抱くわけです。
幕府内での対立がこの後どうなったのか?については、記事の後半で説明します!
次ページでは、日米修好通商条約の内容を説明します!↓↓↓
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