本記事では、安政の改革と将軍継嗣問題について説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
安政の改革と将軍継嗣問題
ペリーが来航した後に行われた幕府の改革と、将軍の後継ぎ争いについて話をします。
まず最初に流れをざっくり説明すると、こんな感じです↓
1853年にペリーが来航して日本に開国を要求してきたのに対して、江戸幕府は「回答は1年待ってくれ」ってお願いをしてひとまずペリーにお帰りいただきました。
↓
「やべー、アメリカ人に開国しろって言われちゃったよ」ってことで、江戸幕府の中心メンバーだった阿部正弘はいろんな人に意見を聞く方針をとります。
↓
その結果、幕府内での対立が激しくなって、将軍の後継ぎ争いが起きました。
こんな感じです。
ではまず、ペリー来航後の改革(安政の改革)について説明します。
もっとみんなの意見を聞こう!【安政の改革】
「回答は1年待ってくれ」ってことでペリーにお帰りいただいた後、1年間しか時間がない中で、幕府として何らかの結論を出さなきゃいけなくなりました。
ところが、ペリーにお帰りいただいてから10日後、なんと12代将軍の徳川家慶が亡くなってしまいます。
また、次の将軍である徳川家定も病弱で幕府を引っ張っていける人物ではなかったようです。
そこで江戸幕府の中心メンバーだった阿部正弘は「もっともっとみんなの意見を聞こう!」って考えて、今まで幕府の政治に参加していなかった人にも意見を求めました。
で、もともと江戸幕府はどうやって政治運営をしていたのか?について確認しておいた方がわかりやすいので、説明します!
江戸幕府の政治の仕組み
江戸幕府の頂点にいるのは、将軍です。
将軍1人でいろんな仕事をするのは無理なので、幕府は老中や若年寄と呼ばれる役職の人々がいろんな政策を考えて実行する、という形で運営がなされていました。
老中や若年寄などの幕府の役職につけるのは原則、譜代大名や旗本です。
- 譜代大名=はじめから徳川氏の家臣だった大名
- 旗本=徳川氏直属の家臣
つまり、古くから将軍に従っていた人(譜代大名や旗本)が幕府の運営にあたっていて、
- 親藩=将軍の一族
- 外様大名=関ヶ原の戦い以後に徳川家に従った大名
は幕府の役職にはつけず、幕府の政治からは排除されていたわけです。
ところが「アメリカ人が開国を求めてきた」という超ビッグなイベントを受けて、老中の阿部正弘は今までの幕府運営の方針を変えて
- 朝廷への報告を行い
- 親藩や外様大名にも意見を言わせる
ことにしました。
老中などの幕閣に就任した譜代大名・旗本だけによる運営(幕閣独裁)をやめて、今まで幕府の運営に参加できなかった大名を運営に参加させるようにしたのです(公儀の尊重)。「みんなで力を合わせて危機を乗り越えるぞー!」みたいな感じです。
んで、新たに幕府の運営に参加するようになった有名な人物が、
- 水戸藩主(親藩)の徳川斉昭
- 越前藩主(親藩)の松平慶永
- 薩摩藩主(外様大名)の島津斉彬
です。
もっと戦争に備えよう!【安政の改革】
また、老中の阿部正弘は「アメリカと戦うことになった場合に備えて、防衛体制を強化せねば!」って考えました。
大船建造の解禁
そこで、今まで武家諸法度で禁止されていた「大きな船を造ること」を認めて、幕府と藩で協力して海軍を作ろうとしました。
台場の築造
あと、江戸湾に砲台(台場)を作りました。品川台場と呼ばれる砲台で、今でもフジテレビがあるお台場に跡が残っています。
以上が安政の改革です。
幕府内での対立
ここから、幕府内での対立・将軍の後継ぎ争いの話に入っていきます。
安政の改革により、老中などの幕閣に就任した譜代大名・旗本だけによる運営(幕閣独裁)をやめて、今まで幕府の運営に参加できなかった大名が運営に参加するようになったわけですが、こうなると今まで幕府の運営にあたっていた譜代大名たちはどんな気持ちになるでしょうか?
どうしても、「なんか嫌だな」って反発する気持ちが出てくるんですよね。「俺たちのグループ」に自分たち以外の人も参加するようになると、「誰だよお前」って感じになりますよね。しかも、自分たちの意見は通りにくくなります。
例えば、体育祭についての話し合いを3学年主任と3年生の各クラスの学級委員でやっていたのに、急に1・2年生の各クラスの学級委員も呼んで一緒に話し合うことになった…って時の3年生の学級委員の気持ちをイメージするとわかりやすいかもしれません。
仕組みが変わって自分たちの意見が通りにくくなると、反発したくなるのが人間です。
「面白くねえなあ…」って思っていた譜代大名たちの中心にいたのが、井伊直弼という人です。
将軍継嗣問題
で、譜代大名など幕閣たちと親藩・外様大名たちの両者の派閥争いが、13代将軍家定の後継者争いとして表面化することになりました。
13代将軍の家定は病弱で幕府を引っ張っていける人物ではなく、しかも子供がいなかったので、「次の将軍を誰にするか?」を考えなきゃいけなくなったんです。
井伊直弼を中心とする譜代大名たちは「能力の高さも大事だけど、将軍は血縁を重視して選ぶべきだ!」ってことで、「徳川慶福が次の将軍としてふさわしい!」って考えました。
この派閥のことを南紀派と言います。
一方、新たに幕府の運営に参加するようになった徳川斉昭や松平慶永や島津斉彬は「将軍はその人の能力を重視して選ぼう!だって能力の高さが重要だから!」ってことで、「徳川慶喜が次の将軍としてふさわしい!」って考えました。
この派閥のことを一橋派と言います。
※徳川斉昭・松平慶永・島津斉彬は能力が優れているってことで幕府から呼ばれた人たちだったので、「能力の高さが重要!」って考えそうですよね。
このような対立が起きていた頃(1856年)、アメリカの外交官ハリスが、日米和親条約にもとづいて初代駐日アメリカ総領事として下田に着任しました。
そして幕府は、アメリカから日米修好通商条約の調印を迫られることになります。
続きは次の記事で!
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