関ヶ原の戦いについて教えてほしい
というリクエストをいただいたので、関ヶ原の戦いについてざっくり説明します!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
関ヶ原の戦いとは?
天下統一を成し遂げ、独裁的だった豊臣秀吉が死んだ後、
「誰が権力を握るか?」について、
豊臣秀吉を支えていた中心メンバーである石田三成と徳川家康が対立し、
毛利輝元を盟主とする西軍と徳川家康を盟主とする東軍とが関ヶ原で激突した戦い。
関ヶ原の戦いの背景
豊臣政権の運営方法
関ヶ原の戦いについて理解するためには、豊臣秀吉がどのように政治を行っていたのか?を知る必要があります!
豊臣政権の運営方法
基本的には秀吉の独裁
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秀吉が病気で死にそうになっているなか、やっと仕組みができた
- 秀吉が死んだ後、豊臣家の家督は秀吉の子の秀頼(←5歳くらい)が継ぐ
- 秀頼が成人になるまでは、信頼できる家臣(五奉行)と有力大名(五大老)が話し合って政権運営を行う
※五奉行=浅野長政・増田長盛・石田三成・前田玄以・長束正家
※五大老=徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝
関連:豊臣秀吉の政策について
豊臣秀吉の死後、徳川家康がリードする
むちゃくちゃ権力を握っていた人(=豊臣秀吉)がいなくなった後、その周りにいた人たちで揉め始めるのはよくあることですよね。
秀吉が死んだ後、五大老の中で最も力があった徳川家康が影響力を強め、権力を握ろうとします。
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「別にオマエ後継者じゃないだろ!」って感じで、家康に反発したのが石田三成。
※でも、石田三成も豊臣政権の中心メンバーから嫌われていたりして、大変だったみたい。
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結局、政治の主導権は徳川家康が握ることに。そして…
石田三成らが家康に対して挙兵する
家康は1600年5月、関係が悪化した大老の上杉景勝(@会津)を征伐することを決定。大坂城を出発。
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1600年7月、石田三成は家康によって占拠されていた大坂城を奪い返す。
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石田三成は毛利輝元を総大将にし、西国の諸大名に「家康に対して兵を挙げよ!」と命じる。
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石田三成らは東に軍を進める。
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徳川家康らは西に軍を進める。
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1600年9月、関ヶ原で東西両軍による決戦が繰り広げられた。(=関ヶ原の戦い)
関ヶ原の戦いの結果・影響
関ヶ原の戦いは、徳川家康が率いる東軍の勝利で終わった。
- 石田三成は処刑される(@京都の六条河原)
- 徳川家康の天下人としての立場が確定
- 1603年に徳川家康は征夷大将軍に任命される(→江戸幕府をひらく)
権力を握った徳川家康の悩み
徳川家康は関ヶ原の戦いに勝って絶大な権力を握った。
が、いろんな悩みがあった。
- どうやったら反乱が起こらないようにできるだろう?(←徳川のことをみんなが大好き!って思っていたわけではない)
- 大坂城にいる豊臣秀頼はどうしよう?(←豊臣秀吉の後継者)
反乱が起きないように…
家康は幕府の仕組みを整えた。
- 譜代大名が中心になって幕府の運営をする
- 外様大名は幕府の政治に参加させない
くわしくはこちらの記事で。
※ ペリー来航により、この方針が転換する(=外様大名が幕府の運営に参加するようになった)。で、幕府の内部で対立が激しくなる。
豊臣秀頼がジャマだな…
「将軍職は徳川家が世襲するんだよ」ってことを示す。
1605年、徳川家康は将軍職を息子の秀忠に譲った(→豊臣秀頼は将軍の地位をゲットできないことに気づく)。
豊臣秀頼を討つ
1614年、豊臣氏が建てた寺(京都方広寺)の鐘に刻まれた文章を口実に、徳川家康が豊臣秀頼を討つことを決意。
※鐘に 「国家安康」「君臣豊楽」って刻まれていたのが気に食わなかったみたい。くわしくは「方広寺鐘銘事件」で調べて。
1614〜15年、大坂冬の陣・大坂夏の陣
→秀頼は自害。
こうして、徳川氏の幕府運営が本格的に始まることになった。
動画でも解説
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参考文献
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