第一次護憲運動
時期
1912〜13年
運動の目的(要求)
第3次桂太郎内閣を倒す!
スローガン(主張)
- 閥族打破=藩閥が政治支配するな!
- 憲政擁護=憲法にもとづく政治をしろ!
運動の主体(中心人物)
- 野党勢力(立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅が中心)
- ジャーナリスト
- 商工業者
- 都市民衆
尾崎行雄や犬養毅らが各地で演説会を開き、多数の都市民衆が演説会に集まった。
たくさんの民衆が運動に参加し、数万の民衆が国会議事堂を取り囲んだ!というのがポイント。
きっかけ・背景
①第2次西園寺公望内閣が2個師団増設問題で総辞職に追い込まれた
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②内大臣兼侍従長に就任していた桂太郎が首相となり第3次桂太郎内閣が成立した
①第2次西園寺公望内閣が2個師団増設問題で総辞職に追い込まれた
「中国で起きた革命(辛亥革命)が朝鮮に悪影響を及ぼすのでは?」と不安に思った陸軍が、西園寺内閣に対して「朝鮮に置く師団をとりあえず2個増やしてくれ!」って要求した。
※師団=陸軍の部隊での一つで、独立した作戦行動をとれる戦略単位
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西園寺内閣は財政難を理由に拒否。
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陸軍大臣の上原勇作は単独で天皇に辞表を提出するという行動に出る。
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陸軍は次の陸軍大臣を推薦せず。
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「陸軍大臣がいない」という状況になり、第2次西園寺内閣は総辞職せざるを得なくなった。
※上原勇作の行動の背景には、軍部大臣現役武官制という規定があった(軍部大臣現役武官制=陸軍大臣と海軍大臣を現役の大将・中将から任用する制度)。
②内大臣兼侍従長に就任していた桂太郎が首相となり第3次桂太郎内閣が成立した
第2次西園寺内閣が倒れた後、陸軍・山県有朋グループの桂太郎が内閣を組織した。
→「西園寺内閣の総辞職と桂太郎内閣の成立は、山県ら陸軍が師団増設を実現するための策略だな!」と民衆は判断した。
また、桂太郎は約1年前に、宮中に入って天皇をサポートする役職(内大臣兼侍従長)に就いていた。
※当時は「宮中・府中の別」という原則があって、宮中に入った人は「国政運営の第一線からは引いた」とみなされていた。
→「桂太郎の首相復帰は『宮中・府中の別』という原則を乱すものだ!許せん!」と民衆は判断した。
- 二個師団増設問題にともなう西園寺内閣の総辞職
- 内大臣兼侍従長に就任していた桂太郎の政界復帰
は、憲法にもとづく政治に反し、藩閥の政治支配の象徴だとみなされた。
→閥族打破・憲政擁護
結果
桂太郎は新しい政党を結成して対抗しようとしたが、数万の民衆が国会議事堂を取り囲んだり、政府系の新聞社などを襲撃したりした。
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第3次桂太郎内閣は総辞職(内閣発足から約50日)。
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薩摩出身の海軍大将である山本権兵衛が内閣を組織。
民衆の直接行動が内閣を総辞職に追い込んだ初の出来事!
第二次護憲運動
時期
1924年
運動の目的(要求)
清浦奎吾内閣を倒す!
政党内閣を実現する!
運動の主体(中心人物)
3つの政党が主導(憲政会・立憲政友会、革新倶楽部)
憲政会 | 総裁:加藤高明 |
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立憲政友会 | 総裁:高橋是清 |
革新倶楽部 | 総裁:犬養毅 |
たくさんの民衆が運動に参加したわけではなく、政党が運動の主体のメインだった。
きっかけ・背景
- 2年間にわたって非政党内閣が3代続いた
- 社会運動が活発化していた
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憲政会・立憲政友会、革新倶楽部は「このままだと憲政が破滅する」「このままだと民衆が暴動を起こすかもしれない」と考えた
2年間にわたって非政党内閣が3代続いた
民衆のエネルギーの高まりを背景に、1918年、民衆をまとめうる政党内閣(原敬内閣)が誕生した。
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それなのに、原敬は暗殺され、原内閣を引き継いだ高橋是清内閣も倒れる。
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その後、2年間にわたって非政党内閣が3代続く(=民意を反映していない内閣)。
加藤友三郎内閣 | 海軍大将の加藤友三郎が首相に(←ワシントン会議後の海軍軍縮を実行する必要があった)。1922年6月~1923年9月。首相は病死。 |
第2次山本権兵衛内閣 | 海軍大将の山本権兵衛が首相に(←ワシントン会議後の海軍軍縮を実行する必要があった)。1923年9月~1924年1月。虎ノ門事件の責任をとって総辞職。 |
清浦奎吾内閣 | 枢密院議長の清浦奎吾が首相に。約4ヶ月後の総選挙のための選挙管理内閣(選挙における公平性を担保するために政党員を排除し、貴族院議員を中心に組閣した)。1924年1月~1924年6月。「特権内閣」との強い批判を受け、総選挙の結果を受けて総辞職。 |
社会運動が活発化していた
- 普通選挙を要求する運動
- 労働争議(1921:日本労働総同盟)
- 小作争議(1922:日本農民組合)
- 社会主義者による運動(1922:日本共産党)
- 女性解放運動(1920:新婦人協会)
- 部落解放運動(1922:全国水平社)
「このままだと憲政が破滅する」「このままだと民衆が暴動を起こすかもしれない」
憲政会・立憲政友会、革新倶楽部の3党(護憲三派)は次のように考えた。
- 「このままだと憲政が破滅する」
- 「このままだと民衆が暴動を起こすかもしれない」
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「民衆の意見を吸収できる(=ガス抜きできる)システムにしないとマズイ!」
=政党内閣、普通選挙
結果
護憲三派の動きに対して、清浦奎吾内閣は議会を解散して総選挙に臨んだ。
※立憲政友会の高橋是清総裁を批判する勢力によって組織された政友本党を味方につけて。
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総選挙の結果、護憲三派が圧勝した。
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護憲三派の中で最も議席を獲得した憲政会の総裁である加藤高明が内閣を組織した。
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民衆を政党のもとに統合し、社会を安定させるための政策を実施。
- 普通選挙法
- 治安維持法
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1932年の犬養毅内閣まで、憲政の常道が実現。
第一次護憲運動と第二次護憲運動の違い
運動の目的(要求)
第一次護憲運動は桂太郎内閣を倒して一部の人によって政治が支配される状態を打破し、民意を尊重した政治を実現させることを目指したのに対し、
第二次護憲運動は清浦奎吾内閣を倒して政党内閣を実現させることを目指した。
運動の主体
第一次護憲運動は多数の民衆が運動の主体であったのに対し、
第二次護憲運動は政党が運動の主体だった。
意義・結果
第一次護憲運動は「市民的自由(言論・出版・集会)の拡大」「民衆の政治参加(政党政治・普選)」を求める大正デモクラシーの出発点となったが、一方で政党内閣の出現を招かなかったのに対し、
第二次護憲運動は憲政の常道(政党内閣)の実現を招いた。
動画でも解説
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