日露戦争後、いよいよ日本の政治のあり方が変わっていくことになりました。
江戸幕府が滅亡して明治新政府ができる
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政府は「強い国家を作るために、明治維新を成し遂げた人々を中心に日本を動かしていくんだ!」っていうやり方で突き進む
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が、日清戦争・日露戦争を経て、
- 「明治維新を成し遂げた一握りの特権的な人々だけで日本を動かす時代は終わった」
- 「民衆が考えていることを汲み取ろうとしないと、うまくやっていくことはできない…!」
っていう雰囲気になってきた
今回は、この変化について話をします。
本記事の内容
- 日露戦争後、国家財政が悪化した
- 限られた国家予算をどのように配分するか?で内閣が苦しむ
- そんな中、2つの出来事が起こる
- 「明治維新を成し遂げた人々だけが日本を動かす時代は終わったんだ」と考えた人々が運動を起こした
- 民衆に人気のある大隈重信が首相になった
日露戦争後、国家財政が悪化した
まず、国家財政の話です。この話が後で出てくる問題につながってきます。
日露戦争後、日本の国家財政は危機的な状況に陥りました。
わざわざ言うまでもない当たり前のことですが、
「お金がない」ってのは重大な問題です。
やれることが限られてしまう(=何かを諦めなければいけない)からです。
例えば、三つ子の子供がいたとして、仮に一人は「大学に行きたい!」って言い、一人は「料理の専門学校に行きたい!」って言い、最後の一人は「海外に留学に行きたい!」って言った場合、お金を出す保護者はとても大変ですよね。
もちろんその家が20億くらい持っているのであれば問題ないかもしれませんが、もし貯金が100万円しかなかった場合は、3人の要求にすべて応えるのは難しくなるわけです。
このように、「お金がない」っていうのは「やれることが限られてしまう」という意味で重大な問題です。
そして日露戦争後の日本はこの「お金がない」という問題に直面することになってしまったのです。
財政危機の理由
じゃあ、なんで日露戦争後に国家財政の危機に陥ったのでしょうか?
この理由について、3つの観点から説明します。
(1)産業革命の影響
1つ目の理由は産業革命です。
日清戦争前後の時期に紡績業が発展し、日露戦争前後の時期に重工業が発展しました。
このこと自体は悪いことではありませんが、問題は「紡績業の原料となる綿花」や「重工業で必要な機械や鉄」は外国からの輸入に依存していた、ということでした。
産業革命にともなって経済が発展していけばいくほど貿易赤字が拡大していく…という状態だったわけです。
関連:日本の産業革命について
(2)植民地への進出の影響
2つ目の理由は植民地への進出です。
日本は日清戦争で台湾を獲得し、日露戦争後は南満州に進出し、さらに韓国を植民地化しました。
今まで「日本」ではなかったところに進出するわけなので、当然、たくさんのお金がかかります。
植民地への進出が国家財政を圧迫することになりました。
(3)日露戦争の影響
3つ目の理由は日露戦争です。
日露戦争は新しい兵器が使われる大規模な戦争で、巨額の軍事費が必要な戦争でした。
この軍事費をなんとかして確保しなければいけません。
日本は増税をしたり(非常特別税:約3億)、イギリスやアメリカからお金をたくさん借りたり(外債募集:約7億)しました。
が、日露戦争では(日清戦争の時とは違って)賠償金を獲得できなかったんです。
この結果、日本は借金の返済にかなり苦しむことになりました。
これら3つの理由から、日本は国家財政の危機に直面することになり、このことが国内政治にかなりのインパクトをもたらすことになります。
※結果的には、1914年から始まった第一次世界大戦による好景気(大戦景気)によって日本は国家財政の危機から抜け出すことができました。
限られた国家予算をどのように配分するか?で内閣が苦しむ
先ほど三つ子の子供の例を出しましたが、それと同じような状況を内閣が経験することになりました。
1911年に成立した第2次西園寺公望内閣は、いろんな方面から様々な要求をされます。
与党の立憲政友会:積極的な財政政策を求める
立憲政友会は、自分たちへの支持をより強くするために、「自分たちを支持してくれている人に利益をばらまきたい」って考えていました。
なので、「(自分たちを支持してくれている人たちに関係する)産業を発展させる政策をしてくれ!」って政府に要求しました。
商工業者:減税を求める
商工業者は「もっとお金が欲しい!って思っていたので、政府に「減税してくれ!」って要求しました。
海軍:もっと船艦をつくらせてくれ!と求める
海軍は「今後アメリカと戦争することになったら今の海軍力じゃ足りない!」って考えていました。
なので、「もっと船艦をつくらせてくれ!海軍に予算をつけてくれ!」って政府に要求しました。
陸軍:師団を増設させてくれ!と求める
陸軍は「今の陸軍力じゃ足りない!」って考えていました。
なので、「軍隊を増やしてくれ!陸軍に予算をつけてくれ!」って政府に要求しました。
このように、第2次西園寺内閣はいろんな方面から様々な要求をされたのです。
が、さっき言ったように、日本は国家財政の危機に直面していました。要求をすべてを実現するのは難しいですよね。
つまり、「実施する政策」と「実施しない政策」を分けなければいけないっていうことです。
これこそが内閣がやるべき「政治判断」
そんな中で、2つの出来事が起こります。
財政危機の中、2つの出来事が起こる
辛亥革命(1911年)
1つ目が、中国で起きた辛亥革命です。
日清戦争で敗北した後、欧米の国々に進出されてボロボロになっていた清(中国)の国内では、「もう清を倒して新しい国を作るしかない!革命だ!」って考えていた人たちがたくさんいました。
その中の一人が孫文。
彼は日露戦争での日本の戦いぶりを見て「俺たちも頑張るぞ!」って刺激を受け、1905年に東京で中国同盟会というグループを作り、清を倒すための準備を着々と進めました。
そんな中で1911年に武昌という場所で軍隊が反乱を起こしました。軍隊が反乱を起こしてしまうくらい、国内では清のリーダー達への不満が高まっていたっていうことです。
この軍隊の反乱がきっかけとなって、革命運動が全国に広がり、1912年に孫文が臨時大統領として中華民国の建国を宣言しました。
明治維新みたいですね
もちろん清も対策をします。清の皇帝は清の中で力を持っていた袁世凱っていう人に「孫文らの革命運動を潰せ!」って命令をしたんです。
ところが、袁世凱は「これはオレが権力を握るチャンスだな!」って思いました。
袁世凱は孫文らの革命派と取引をして、「清の皇帝が退位して清が滅んだら、中華民国の大統領は孫文から袁世凱にチェンジ」っていうことに決まりました。
この結果、袁世凱は清の皇帝を退位させて、孫文に代わって中華民国大統領に就任することになりました。これが辛亥革命です。
この辛亥革命を、中国に権益を持っている国々は観察していました。
「自分の国にとってプラスになればそれでいいや」って感じです。
で、朝鮮を併合した日本の陸軍は
「おいおい中国で革命が起きたけど、大丈夫かよ」って
焦るわけです。
明治天皇の死去→大正天皇の即位(1912年)
2つ目の出来事が、明治天皇の死去です。
1912年7月に明治天皇が亡くなり、新しく大正天皇が即位しました。
ここでの重要人物が桂太郎と山県有朋です。
ざっくり言うと、山県有朋はこれまで日本を引っ張ってきた超重鎮(元老)の一人で、桂太郎は山県有朋に可愛がられていた人です。
元老=明治維新を成し遂げ、明治以降の日本を引っ張ってきた人々。首相の推薦や重要な政策に関わった。黒田清隆、伊藤博文、山県有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌に、桂太郎と西園寺公望が加わった。
ただ山県有朋に可愛がられていた桂太郎は、「もう元老が日本を動かす時代じゃない!」って思っていたようで、元老の山県から自立し、自分で政党を作って、政党の支持にもとづく内閣を作ろうとしていたみたいです。
いつしか桂と山県との間には亀裂が生じていたわけです。
そこで山県は、明治天皇の死去にともなって、桂太郎を内大臣兼侍従長に就任させることにしました。
内大臣=宮中で天皇を常時輔弼し、宮廷の文書事務などを所管した大臣
侍従長=天皇に側近奉仕する役職
これが内大臣と侍従長の定義ですが、まあ「宮中に入って天皇の側にいることになった」って理解すればOKです。
で、なんで山県が桂太郎を内大臣兼侍従長に就任させたのか?というと、桂太郎を宮中に押し込めて政治的に引退させようとしたからです。
当時は「宮中・府中の別」という原則があって、宮中に入った人は「国政運営の第一線からは引いた」とみなされていたんです。
この山県の決断が、このあと大変なことを引き起こすことになってしまいます。
人々が運動を起こした
2個師団増設問題
辛亥革命を見て「おいおい中国で革命が起きたけど、大丈夫かよ。併合した朝鮮に影響が及ぶんじゃないのか?」って焦った陸軍は、
西園寺内閣に対して「朝鮮に置く師団をとりあえず2個増やしてくれ!」って要求しました(2個師団増設問題)。
師団=陸軍の部隊での一つで、独立した作戦行動をとれる戦略単位
ところが、西園寺内閣はこの要求を「お金がないから無理!」と断ってしまいます。日本は国家財政の危機に直面していたからです。
すると、陸軍大臣の上原勇作は単独で天皇に辞表を提出するという行動に出て、陸軍は次の陸軍大臣を推薦しませんでした。
これによって、「陸軍大臣がいない」という状況になってしまったので、第2次西園寺内閣は総辞職せざるを得なくなってしまいました。
この行動の背景には、山県有朋内閣の時(1900年)にできた軍部大臣現役武官制という規定がありました。
軍部大臣現役武官制=陸軍大臣と海軍大臣を現役の大将・中将から任用する制度。
陸軍や海軍が自分の軍から次の大臣を出さなければ、軍部大臣が欠けることになって内閣が成立しなくなるということです。
軍部大臣現役武官制は、陸軍や海軍が内閣を自由に倒すことができる制度として機能し、実際に第2次西園寺内閣はこの制度を利用した陸軍によって総辞職に追い込まれたわけです。
この事件に対して、民衆は「陸軍ふざけるな!この事件の背後には元老の山県がいるんだろ!山県ふざけるな!」と批判します。
元老の山県は次の首相を誰にするかで悩み、何人かに「次の首相をやってくれ」と頼んだようですが、誰もやってくれなかったようです。
結局、山県は関係に溝が生まれていた桂太郎に首相になってもらうしかないと判断し、第3次桂太郎内閣が成立することになりました。
ところが、これが民衆のさらなる怒りを買うことになってしまいました。
第1次護憲運動
桂太郎は内大臣兼侍従長に就任して「国政運営の第一線からは引いた」とみなされていた人です。
桂太郎が再び首相になるのは「宮中・府中の別」という原則を乱すものだと批判されました。
また、民衆からしたら、桂太郎の首相復帰は「また山県がかわいがっている桂が首相になるのかよ!山県め、好き勝手やってるんじゃねえ!」って感じでした。
実際には当時の桂太郎と山県有朋の関係には溝が生まれていて、桂太郎は山県から距離を取って新しい政党を自分で立ち上げようと思っていたみたいですが、そんなこと民衆は知りません。
「軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を倒したこと」や「桂太郎内閣が成立したこと」は、民衆の目には「一握りの特権的な人々が好き勝手やっている」と映ったわけです。
結局、
・「宮中・府中の別」を乱した
・一握りの特権的な人々が好き勝手やっている
という理由から、「桂太郎内閣を倒すぞ!」という運動が起こりました。
最初は政治家やジャーナリストが中心となって起こった運動でしたが、各地での演説会や新聞などにより、たくさんの民衆が桂太郎内閣打倒の運動に参加するようになりました。
これが第1次護憲運動です。
「明治維新を成し遂げた人々だけが日本を動かす時代は終わったんだ」という時代の空気感の表れです。
第1次護憲運動
スローガン
- 「閥族打破」(藩閥が政治支配するな!)
- 「憲政擁護」(憲法にもとづく政治をしろ!)
中心人物
- 尾崎行雄(立憲政友会)
- 犬養毅(立憲国民党)
大正政変
この護憲運動に対して、桂太郎は新しい政党である立憲同志会を結成して対抗しようとしました。
が、民衆は帝国議会議事堂を取り囲んだり、政府系の新聞社などを襲撃したりしました。
これを見た桂太郎は辞任を決意して、内閣発足からわずか53日で総辞職することになりました。
これが大正政変です。
民衆の直接行動が内閣を総辞職に追い込んだ出来事が初めて起きた
という意味で超重要な事件です。
藩閥の勢力後退
日露戦争後の日比谷焼打事件、そして今回の護憲運動と、民衆のエネルギーが高まってきていたわけですが、
それでも山県は「民衆の意見を吸収して行う政治(=政党内閣)」に否定的でした。
そこで、山県ら元老は薩摩出身の海軍大将である山本権兵衛を次の首相にすることにしました。
とはいえ民衆のエネルギーの高まりを完全に無視するわけにはいかなかったので、第1次山本権兵衛内閣では過去に山県有朋内閣のもとで行われた政策を修正する政策が行われました。
軍部大臣現役武官制の改正(1913)
陸軍大臣と海軍大臣の任用資格を「現役」だけでなく「予備役・後備役」まで拡大
→軍部の意向により内閣が総辞職に追い込まれにくくなった
文官任用令の再改正(1913)
高級官僚を内閣が自由任用できる範囲を拡大
→政党員が官僚に進出できるようになった
ところが、1914年に海軍と企業の汚職事件(ジーメンス事件)が発覚し、またもや民衆が抗議運動をすることになりました。
結局、山本権兵衛内閣は総辞職します。
民衆に人気のある大隈重信が首相になった
山県有朋ら元老は「民衆に人気のある大隈重信を首相にすることによって、混乱を抑えよう」と考えて、大隈重信を首相にすることにしました。
「民衆が考えていることを汲み取ろうとしないと、うまくやっていくことはできない…!」っていう雰囲気が強くなってきたわけです。
そして、第一次世界大戦が起きます。
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