日本における社会主義勢力(左翼)の歴史をざっくりまとめます。
日本における社会主義勢力(左翼)の歴史
①日清戦争後、社会主義政党が誕生
日清戦争後、日本で資本主義が成立する中で、労働運動が活発化。
(理由)
- 劣悪な労働環境
- 低賃金&長時間労働
政府は1900年に治安警察法を制定
→労働者の団結権・ストライキ権を制限して労働運動を取り締まる。
このような中で、非合法的・合法的な社会主義政党が結成される。
・1901年:社会民主党(by安部磯雄・片山潜・幸徳秋水・木下尚江)
→治安警察法によって結成直後に解散を命じられる。
・1906年:日本社会党(by堺利彦ら)
→1907年に党内で直接行動派が優位を占めるようになった結果、解散させられた。
②大逆事件後、「冬の時代」に
1910年、社会主義運動家が明治天皇暗殺を計画して爆弾を製造する、という出来事が起こる。
→その社会主義運動家が逮捕された後、社会主義者に対する大弾圧が行われた(大逆事件)。
・幸徳秋水ら26名を大逆罪で起訴→26名全員が有罪判決(12名が死刑執行された)
→警視庁内に特別高等課(特高)という思想警察が置かれる
この結果、社会主義者が身動きをとれない「冬の時代」に。
③第一次世界大戦後、社会主義者が活動を再開
・大戦中に急速に産業が発達し、労働者の数が大幅に増加
・大戦景気により労働者の賃金は上昇したが、物価がそれ以上に上がって実質賃金が低下
→労働運動が全国的に増加
そのような中で、社会主義者が活動を再開した。
・1920年:日本社会主義同盟(→政府に解散を命じられる)
ロシア革命の影響で共産主義の影響力がアップし、1922年に日本共産党が非合法のうちに結成された(by堺利彦・山川均ら)。
④普通選挙法成立後、社会主義への弾圧が続く
1925年以降、社会主義勢力は苦しい立場に置かれる。
普通選挙法成立(1925年)・日ソ国交樹立(1925年)をきっかけに共産主義運動が広まることを阻止するために、1925年に治安維持法が成立。
- 天皇中心の国体の変革、私有財産(資本主義経済)の否認を目的とする結社を禁止
- 10年以下の懲役・禁錮の罰則
ただ、1928年、普通選挙制による最初の総選挙で無産政党勢力が8名当選。
※無産政党=戦前の日本における合法的な社会主義政党のこと。
この選挙のなかで、日本共産党が君主制打倒を掲げて活動した。
→田中内閣は社会主義勢力を弾圧する政策を行う
- 1928年:治安維持法を適用して共産党員を一斉検挙(三・一五事件)
- 1928年:治安維持法を改正(最高刑に死刑を導入&支持者・賛同者にも適用できるようにした)
- 1928年:特別高等警察を東京だけでなく各道府県にも設置
- 1929年:共産党員や支持者を逮捕(四・十六事件)
→これらの結果、日本共産党は壊滅的な打撃を受けた。
⑤満州事変後、社会主義勢力が衰退
満州事変をきっかけに、国内でナショナリズムが高揚。国家による弾圧とあいまって、社会主義勢力は衰退した(←党内部でのスパイ狩りにともなう疑心暗鬼も影響)。
- 社会主義から転向する人が続出
- 国家社会主義への転換(1932年:日本国家社会党 by赤松克麿)
※転向=社会主義・共産主義思想の放棄
※国家社会主義=国家の社会政策などによって、全体主義的に平等な国民生活の実現を目指す。
⑥戦時中、社会主義への弾圧が強化
戦時中は、国家主義の高まりの中で、政府による社会主義への弾圧が強化された。
・1937〜38年:人民戦線事件(治安維持法にもとづく左翼弾圧事件)
⑦戦後、社会主義勢力の活動が合法化&再開
アメリカによる占領下、民主化政策が実施される。
・1945年:治安維持法・治安警察法を廃止
・1945年:政治犯釈放を要求するGHQ指令によって、約200名の共産党員が出獄
このような中で、1945年に日本共産党が合法政党として活動を開始(by 徳田球一)。
敗戦直後は食糧危機が深刻で、失業者が激増。
→民衆運動が高まる
- 1946年:メーデーが復活
- 1946年:食糧メーデー
- 1946年:生産管理闘争
- 1947年:二・一ゼネスト計画(by 官公庁労働者)→前日にGHQの指令で禁止
これらの民衆運動の高揚を背景に、1947年4月の衆議院議員選挙・参議院議員選挙で日本社会党が衆議院第一党に。
→日本社会党委員長の片山哲が首相になり、日本社会党・民主党・国民協同党の3党連立内閣が成立。
保守勢力でも急進勢力(共産党勢力)でもない「中道」内閣の誕生を、GHQは評価した。
⑧冷戦勃発後、社会主義勢力が弾圧される
しかし、再び社会主義勢力は苦しい立場に置かれる。
中国内戦で共産党の優勢が明らかになり、冷戦体制が形成された1948年以降、アメリカの対日占領政策は転換。
- 「日本を東アジアにおける共産主義の防壁にする」ことを目指す政策が行われる
- 労働運動を抑圧(1948年:政令201号で国家公務員法が改正され、国家公務員は団体交渉権とストライキ権を失う)
1948年10月に中道連立内閣の芦田均内閣が倒れ、民主自由党の第2次吉田茂内閣が成立。
・インフレを抑えるために赤字を許さない予算を編成(ドッジ=ライン)
→深刻なデフレとなり失業者が増加
→国鉄関連の国鉄3大ミステリー事件が起きる(下山事件・三鷹事件・松川事件)
1950年6月に朝鮮戦争が勃発。
→その前後に、日本国内でGHQによる共産主義者への弾圧が始まる(レッドパージ)
- 共産党幹部の公職追放
- マスコミ・民間企業・官公庁などから共産党員と支持者が追放された
⑨独立回復後、革新勢力が台頭
1952年4月、サンフランシスコ平和条約が発効して日本の占領は終わり、日本は独立国として主権を回復。
吉田茂内閣は労働運動や社会運動を抑えるための法整備を進める。
・1952年:血のメーデー事件
→破壊活動防止法
・警察組織の中央集権化(自治体警察を廃止し、警察庁指揮下の都道府県警察に一本化)
このような中で、革新勢力が台頭。
- アメリカ軍基地反対闘争
- 原水爆禁止運動(←第五福竜丸事件)
- 1955年の総選挙で社会党が議席を伸ばし、社会党の左右両派合わせて改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保(→55年体制)
- 1960年:安保闘争
⑩高度経済成長により、革新勢力は衰退&急進化
高度経済成長や農業政策によって国民の生活が豊かになり、技術革新によって労働が効率化・単純化する中で、労働運動などの社会運動は衰退。
政治の季節から経済の季節へと転換。
一方で、直接行動を目指す急進的な学生らが新しい政治組織を結成し、それらの組織は新左翼と呼ばれた。
- ベトナム戦争や大学のあり方などに異議を唱える運動を展開
- 1968〜69年:全学共闘会議(全共闘)
- 1970年:よど号ハイジャック事件
- 1971〜72年:山岳ベース事件
- 1972年:あさま山荘事件
- 1974年:三菱重工爆破事件
急進的すぎる行動ゆえに、新左翼から民心が離れる。
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