源氏の進出と平氏政権について説明をします!
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僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
源氏の進出と平氏政権
源氏の進出と平氏政権について話をします。
今回話をする時代は、平安時代です。
源氏と平氏のもとで武士団が成長して、東日本で源氏が、西日本で平氏が、東北地方で奥州藤原氏が勢力を伸ばした、っていうところまで話をします。
まず、源氏と平氏のもとで武士団が成長したっていうことについてです。
①武士団はどのように作られるのか?
武士っていうのは、正式に(公的に)武装を認められた存在のことです。
朝廷や国府(国の役所)から、警察みたいな役目を任された人々のことを武士と言います。
なので、「武装をしたから武士になる」っていうわけじゃありません。
「ピストルを持ったら警察になる」っていうわけじゃないのと同じです。
ピストルを持っていても、正式に(公的に)認められていなければ、それはヤクザですよね。
というわけで、正式に(公的に)武装を認められた存在が武士です。
じゃあなんで正式に、つまり朝廷や国(地方)の役所から武装を認められる存在が出てくるのか?です。
それは、各地で争いが起きるようになったからです。
なんで争いが起きるようになったのか?は、「武士の成長」のところで説明をしたので、今回は省略します。
とにかく、各地で争いが起きるようになった結果、「争いを取り締まってこい!」って任される人が登場したっていうことです。
それが武士なわけですが、武士のあり方は2パターンありました。
1つ目が、朝廷を守る武士です。
彼らは中下級貴族(貴族の中で上の方のランクではない貴族)で、天皇や上級貴族を守る仕事をしました。
地方で反乱が起きた時は、「争いを取り締まってこい!」っていう朝廷の命令を受けて地方に出動したりします。
このような武士のことを武家(軍事貴族)と言います。
2つ目のパターンが、地方を守る武士です。
彼らは地方にとどまって地方の警察みたいな仕事をしました。
このような武士のことを地方武士と言います。
地方武士は、地方にいる戦闘が得意な人や武装をしている人をまとめて、グループ(武士団)を作っていきます。
こうして、各地にたくさんの武士団ができました。
それらの武士団は、貴族の地位を持っている武家(軍事貴族)のもとに集まって、さらに大きな武士団になっていきます。
貴族っていうのは、「朝廷(天皇)が認めた人」っていう感じのオーラを持っているので、そういうスター的な存在を中心に、武士たちがまとまっていくっていうことです。
そして最終的には、中央貴族の血筋を引き、天皇の子孫でもある源氏と平氏を中心に、武士たちがまとまることになりました。
こんな感じで、武士団が作られていきました。
血筋的にオーラのあるスター的な存在を中心に武士団が成長したっていうことです。
このようなスター的な存在、大武士団のリーダーのことを、「武家の棟梁」といいます。
②源氏の進出
では、源氏についてです。
1028年に関東地方で反乱が起きました。(平忠常の乱)
このことを聞いた朝廷は、源氏(源頼信)に対して「争いを取り締まってこい!」と任命して、任命された源氏は関東地方に行って、この乱をおさめました。
その結果、関東地方にいた平氏が源氏に支配されることになって、源氏が東国(東日本)に進出することになりました。
さらに、1051年から東北地方でも争いが起きました。
東北地方の陸奥の方には安倍氏っていうのがいて、出羽の方には清原氏っていうのがいたんですけど、このうちの安倍氏が反乱を起こした。
そこで、源氏がその反乱を潰しに行きました。(1051〜1062 前九年合戦)
その後、清原氏が陸奥の方にも勢力を広げることになりましたが、今度はその清原氏が自分の家の中で争い始めちゃったんです。
そこで、またまた源氏が出てきて、今度は清原氏を潰しました。(1083〜87 後三年合戦)
その結果、奥羽地方(陸奥と出羽を合わせた地方。東北地方のこと)は奥州藤原氏っていうのが支配することになりました。
奥州藤原氏は平泉(今でいう岩手県の、とある場所)を拠点にして、金ピカの建物を作ったりして、良い感じに勢力を伸ばしました。
源氏は、この東北地方の戦いの中で、東国(東日本)の武士団と絆を深めていって、スター的な存在(武家の棟梁)としての地位を固めていくことになりました。
これが、鎌倉幕府につながってくるんですよ。
(ただ、源氏が全国を支配しようと思ったら、奥州藤原氏っていう存在はちょっと邪魔ですよね。だから、この後で潰すことになります)
③平氏政権
源氏は反乱をおさえながら東国(東日本)で勢力を伸ばしましたが、平氏は違った形で勢力を伸ばしていきました。
平氏は、当時行われていた院政(天皇の位を譲った上皇が、リーダーシップをとって行う政治)の特質を利用して、中央政府に近づいて勢力を伸ばしていくんです。
(もちろん反乱をおさえたりもしているけど)
院政では、上皇が法や慣例にこだわらずに専制的に(思うままに)政治を行なったので、周りの人からすると、上皇に気に入られること、上皇とお近づきになることが、勢力を伸ばすために必要なことでした。
で、そこでうまいことやったのが平氏、特に平清盛だったんです。
1156年に天皇家や貴族の対立が激しくなって京都で争い(内部対立)が起きました。(保元の乱)
この京都、日本の中心で起きた争いは武士の力を使うことでおさまって、武士として活躍した平清盛は勢力を伸ばすことになりました。
さらに、今度は1159年に後白河上皇の近くにいる人(側近)同士で権力争いが起きました。(平治の乱)
この争いをおさめた平清盛は、ますます勢力を伸ばすことに。
で、「いやー、本当に助かったよ」ってことで、平清盛は太政大臣っていう役職につきました。
太政大臣っていう役職は、役人の中でトップの役職です。
このトップの役職に、なんと武士がつくことになったんです。
平清盛は、娘を天皇の后にして、その子供を天皇にするっていう摂関政治の時の藤原氏と同じ戦略(外戚政策)を使って、ますます権力を強めていきました。
武士である平氏が国の権力を握ったんです。(平氏政権)
この平氏政権は、経済的にもすごく豊かでした。
神戸の港を整備して、中国の宋っていう国と貿易をしまくったりしたんです。
海を渡るときの安全を祈って、平氏は厳島神社にお参りに行ったりもしたようです。
厳島神社って、あの日本三景の一つに数えられているやつですね。
ちなみに、平氏関連でもう一つ有名な建物に、蓮華王院っていうのがあります。
三十三間堂っていう仏像が1001体並んでる、あれです。
修学旅行で行った人も多いんじゃないでしょうか。
あれ、後白河上皇に命じられた平清盛が作った建物です。
こうやって、平氏は勢力を伸ばしました。
「平家じゃない人は、人間じゃないよね」みたいなことを言われちゃうくらいでした。
が、平氏は思うままに政治を行おうとしすぎたので、「平氏ってムカつくよな」って思う反対派勢力を増やしてしまったんです。
で、平氏はぶっ倒されることになるわけです。
そのことについては、また今度。
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