弥生時代について説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
弥生時代
※社会科チャンネルをやっています。チャンネル登録お願いします(クリック)。
弥生時代について説明します。
弥生時代がスタートしたきっかけ
縄文時代から弥生時代って呼び方を変えているくらいですから、何か大きな変化が起きたっていうことです。
何が変わったかっていうと、人々の生活の様子が変わったんです。
で、そのきっかけとなったのが、コメと鉄。
中国や朝鮮半島から九州に移り住んだ人々が、稲作と金属器を伝えました。
縄文時代の終わりの頃はまた地球が結構寒くなったみたいで、朝鮮半島と日本列島が陸続きになったらしいんですよね。
で、朝鮮半島からテクテクと歩いて九州の方に移り住んだ人が現れたっていうことです。(そういう人を渡来人って呼びます)
つまり、中国や朝鮮半島から日本にやってきた人が伝えた稲作と金属器によって、人々の生活の様子が大きく変わり、弥生時代がスタートしたっていうことです。
弥生時代はいつから始まった?
ただ、この弥生時代がいつスタートしたのか?何年前から始まったのか?っていうのは、実のところよくわかっていません。
大きく2つの考えがあって、
- 約2500年前(紀元前5世紀ごろ)じゃないか?って思っている学者さん達と、
- 約3000年前(紀元前10世紀ごろ)じゃないか?って思っている学者さん達
とで結構対立しているらしいんですよね。
で、ちょっと話がそれる感じがするかもしれませんが、学校の歴史の教科書を見ると、なぜか弥生時代あたりの歴史のところで急に「発掘されたモノがいつの年代のモノなのか?を調べる方法」についての話が出てくるんです。
「放射性炭素年代測定法」とか、「炭素14」とか。
ほんと急に出てくるんです。
で、なんで急に「発掘されたモノがいつの年代のモノなのか?を調べる方法」についての話が出てくるかっていうと、弥生時代がいつ始まったのか?で学者さん達が争っているからなんです。
学者さん達が対立しているので、教科書には「約2500年前っていう考えと、約3000年前っていう考えがある」って書かなきゃいけない。
その時に、
「なんでいろんな考えがあるかっていうと、
発掘されたモノがいつの年代のモノなのか?を調べる方法が発達して、
前はこうだと思っていたけど今はこういう考えも出てきてる、
っていう事情があるからなんだよ」
ってことを言いたくなるわけです。
そういうわけで、弥生時代の話のところで急に「放射性炭素年代測定法」とか、「炭素14」とかの話が出てくるっていうことです。
ぶっちゃけ細かい話でどうでもいいんですけど、このあたりについてわかっておくと、日本の歴史について調べている学者さん達の頑張りが少し想像できるかなと思って、あえて話をしました。
とにかく、朝鮮半島から日本にやってきた人が伝えた稲作と金属器によって、人々の生活の様子が大きく変わり、弥生時代がスタートしました。
弥生時代の生活
※社会科チャンネルをやっています。チャンネル登録お願いします(クリック)。
じゃあ、生活はどう変わったの?っていう話です。
稲作の影響力はものすごいものでした。
コメって2つの意味ですごいんですよ。
1つ目は、富を拡大できるという意味。
コメって、1粒の種から何十倍何百倍の実がなるんですよね。
食糧っていう富を一気に拡大させることができる、すごいものだったんです。
縄文時代にゲットしていた食糧とは、そのあたりが違ったわけです。
2つ目は、富を貯蔵できるという意味。
コメって、腐りにくいので長期間保存ができるんですよね。
1粒の種から一気にたくさんのコメを作ることができても、すぐ腐ってしまうならあんまり意味がないわけですが、なんとコメは保存までできちゃうわけです。
動物の肉や魚や貝は、そんなに長く保存することはできません。
こういう意味で、コメってすごかったんです。
だから、稲作は生活の様子を大きく変えるパワーを持っていました。
朝鮮半島の人々が伝えた稲作を見て、「なんだこれ、すごいぞ」って思ったんですね。
で、その稲作を自分たちもやるようになった。
どうせなら失敗したくない。
っていうことで、稲作を成功させるために人々はいろいろ工夫をしました。
まず、集団で生活をするようにしました。
縄文時代も集団で生活をしてはいましたが、稲作が伝わった後はより集団が大きくなったんですね。
なんでかというと、稲作っていう大仕事をする時には大人数での共同作業が必要だからです。
また、稲作の成功のために、人々は祈りました。
銅鐸っていう鐘みたいな道具などの青銅器を、祭りのための道具として使って、稲作の成功を祈ったんです。
青銅器っていうのは、稲作と一緒に伝わった金属器の中の1つです。
(青銅=銅と錫っていうのを合わせて作った金属)
他にも、土を耕したりするために鉄器を使いました。
最初は木製の農具を使っていたみたいなんですけど、やがて土を耕したりするのに鉄を使うようになったらしいです。
木製の農具から鉄製の農具に切り替えた時は、人々は「なんだこれすげえええ」って思ったはずですよね。
つまり、雑にまとめると、鉄などの金属器は稲作による富の拡大を後押ししたっていうことです。
(ちなみに、鉄は日本列島内で生産することはできなかったので、主に朝鮮半島から入手をしました。このことは、日本がこのあと朝鮮半島の国との結びつきを求めるようになる、っていうことと関係しています。また今度説明します。)
とにかく、稲作を成功させるために人々はいろいろ工夫をしました。
(できた稲は石包丁を使って収穫。)
ただ、稲作が成功したとしても、安心はできません。
コメは、できたらすぐ口に入れて消化しなきゃいけないわけではなくて、保存できるんです。
保存できるからといって、安心できるわけじゃないんです。
そこらへんに適当に置いて保存をすると、コメがねずみに食われたり腐ったりしてしまうことがわかったんですね。
そこで、ねずみや湿気を防いでコメを安全に保存するために、人々は高床倉庫っていうものを発明しました。
ただ、これでもまだ安心ではありません。
保存したコメを奪われる可能性があるわけです。
人々は集団生活をしていて、日本中にたくさんの集団があったはず。
で、なかには稲作に失敗して食糧に困ることになった集団もあったはずです。
そんな時、隣の村では高床倉庫にたくさんのコメが保存されている…ってなった場合、生きるために奪い取りたくなるヤツラもいるわけです。
安全に生きていくためには、そういうヤツラから食糧を奪われないようにしなくちゃいけない。
そこで、武器を作ったり、集落の周りに濠(地面を深く掘って敵の侵入を防ぐための防御施設)を作ったりしたんです。
そういう集落のことを、環濠集落って言います。
このように、稲作(と金属器)は人々の生活を大きく変えました。
稲作の結果、縄文時代の狩猟採集社会から、農耕社会に変化していったのです。
(九州に稲作が伝わった関係で、農耕社会は西日本で主に定着した。日本全国で農耕社会が一気に広まったわけではないです。)
縄文時代と比べて明らかに生活の様子が変わったので、この時代を縄文時代と区別して弥生時代って呼ぶことにしたんです。
そもそも弥生って何?
で、ここで疑問です。
そもそも弥生時代の弥生って何なの?って感じですよね。
っていうことで最後に、なんで弥生なの?っていう話をします。
この時代も煮たきをしたり保存をしたりするために土器を使っていたらしいです。
で、この時代の土器が、東京の弥生っていう場所の土の中から発見されたんです。
っていうことで、この時代の土器を弥生土器って名付けた。
それで、この時代のことを弥生時代って呼ぶことにしたみたいです。
ちなみに弥生っていうのは、今ちょうど東京大学があるところです。
(東京大学には弥生キャンパスっていう名前のキャンパスがある。発見されたのは、いま弥生キャンパスがあるところじゃなくて弥生キャンパスに限りなく近い本郷キャンパスらしいけど)
まとめ
- 朝鮮半島から九州に移り住んだ人々が、稲作と金属器を伝えた
- その結果、人々の生活の様子が大きく変わり、弥生時代がスタートした
- 稲作は、富を拡大でき、貯蔵もできるという意味ですごいものだった
- 人々は、稲作を成功させるため、作ったコメを失わないようにするために、いろんな工夫をした
動画でも解説
※社会科チャンネルをやっています。チャンネル登録お願いします(クリック)。
日本史の記事・動画一覧はこちら
参考文献
関連:高校日本史Bの参考書・問題集を東大卒元教員が紹介【大学受験にもおすすめ】
通信教育
学習漫画・参考書
社会科チャンネル
社会科(歴史・地理・公民・政治経済)の内容について、本質的な部分をわかりやすく解説するチャンネルです。