【日本史】版籍奉還と廃藩置県をわかりやすく:共通点と違い

版籍奉還と廃藩置県について、
- 共通点
- 違い
- 目的
- 内容
- 影響
などを説明します!
版籍奉還と廃藩置県の共通点
版籍奉還(1869)も廃藩置県(1871)も、明治新政府が日本でトップに立ち、地方に強い影響力を及ぼせるようにするための改革です。
硬い言葉で言うと、「政府が地方を直接治める中央集権国家をつくるための改革」です。
※中央集権=土地や人民を治める権利と、そのためのお金が、政府に集中している体制(↔︎地方分権=土地や人民を治める権利と、そのためのお金を、政府から地方に移している体制)

ちゃんと理解するためには、当時の日本の状況をわかっておかないとキツイので、ちょっと過去にさかのぼって説明をします!
江戸幕府が滅亡するあたりから話をします!
版籍奉還・廃藩置県が行われるまでの日本
幕末、江戸幕府は危機的な状況に追い込まれていました。江戸幕府に対する人々からの信頼がなくなり、薩摩藩・長州藩を中心に「幕府を倒すぞ」っていう雰囲気が強くなってきていた。

そのような状況で、1867年10月14日、15代将軍の徳川慶喜は大政奉還を行いました。「朝廷に政権を返して、徳川家を中心に新政府を作って、みんなで話し合って政治をしていこう!」ってことを決意しました。

この大政奉還によって朝廷が政治を行うことになりました。が、何百年も政治から離れていた朝廷に政治を行う力はなかったので、その後も徳川慶喜中心の体制が維持されたままだった…というのが実態だったようです。

そこで「徳川慶喜ってジャマだよな」って思っていた武力倒幕派は武力を背景に朝廷でクーデタを行い、朝廷内の徳川派勢力を排除し、徳川慶喜抜きの新政府樹立を宣言しました(王政復古の大号令)。これが明治新政府です。

明治新政府に反発した徳川慶喜ら旧幕府勢力は、1868年1月から新政府とバトルを始めました。この内戦のことを戊辰戦争と言います。
戊辰戦争の進行とともに、新政府は旧幕府が支配していた土地(幕領)を没収していったわけですが、新政府にとってどうしてもクリアしなければならない課題がありました。
「天皇と各地を支配している大名との関係が不明確で、旧幕府から没収した地域は新政府が支配したけど、それ以外の地域はそれぞれの藩が支配していた(=新政府が影響を及ぼすことができない土地だった)」という課題です。
江戸時代においては、徳川将軍と大名は主従関係を結んでいて、将軍は大名に対して御恩として、土地の管理を任せていました(年貢をゲットする権利を与えていました)。この大名の領地のことを藩と言います。
つまり、日本列島は将軍(幕府)が直接支配していた地域と、将軍が主従関係を結んだ武士(大名・藩)が支配していた地域とに分かれていたってことです(このように幕府と藩が土地と人々を支配する仕組みのことを幕藩体制と言います)。

そんな江戸幕府の仕組みが1867年に崩壊しました。大政奉還・王政復古の大号令によって天皇を中心とする明治新政府が誕生し、徳川将軍が否定されたわけです。
ところが!
だからといって、天皇と大名が新たに主従関係を結んだわけではありません。大名はあくまで徳川将軍と主従関係を結んでいただけです。
1869 版籍奉還とは
版籍奉還前の課題(目的)
なので、徳川将軍が否定された後も、天皇と各地を支配している大名との関係はいまいちはっきりしていない状態でした。
戊辰戦争の進行とともに新政府は旧幕府が支配していた土地(幕領)を没収していきましたが、大名が支配する藩はいまだにそのまま残ったままでした。
これでは、天皇を中心とする明治新政府が日本全国すみずみまで影響力を及ぼすことはできません。
この課題を解決するために行われたのが版籍奉還です。

版籍奉還前の課題(目的)
- 天皇と各地を支配している大名との関係が不明確
- 旧幕府から没収した地域→新政府が支配
- それ以外→諸藩が支配
版籍奉還の内容
版籍奉還は、大名が「土地・人民を治める権利」を天皇に返す政策です。
- 版=版図(はんと)=各藩の領地
- 籍=戸籍(こせき)=領民

版籍奉還の流れはこんな感じです↓
- 1869年1月に、明治新政府の木戸孝允と大久保利通たちが中心となって、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主に「土地と人民を朝廷に返します!」って出願させた。
- →その後、多くの藩がこれにならって版籍奉還を出願した。
- →1869年6月に、明治新政府はまだ版籍奉還をしていない藩に版籍奉還を命じた。

版籍奉還の影響
影響を4つ説明します!
天皇が全国の土地・人民の支配権を持つことになった
この版籍奉還によって、「天皇が全国の土地・人民の支配権を持つ」ということがはっきりしました。

大名は明治新政府から知藩事っていう役職に任命されて、地方の支配を任された
存在の根拠が失われた大名は、明治新政府から知藩事っていう役職に任命されて、地方の支配を任されました。
※「結局のところ旧大名が地方を支配しているのには変わりないんじゃん!」って思うかもしれませんが、まったくもってその通りで、このことが後で問題になります。

藩の財政がクリアになった
藩の財政がクリアになりました。
江戸時代は、藩の財政などを幕府に報告する必要がなかったので、大名のプライベートな支出と藩のための支出がごっちゃになっていたみたいです。
が、版籍奉還後は藩の財政を報告することが義務付けられて、旧大名には地方支配の給料として、今までの年貢収入の10分の1に当たる家禄(かろく)が与えられることになりました。
こうして、地方支配の役人(知藩事)のための支出と、地方支配のための支出がはっきりと分離されました。

藩主と藩士の主従関係が解消された
大名の存在の根拠が失われたので、藩主と藩士の主従関係が解消されました。そこで明治新政府は、武士などに対して新しい呼び名を導入しました。
- 藩主・公家→華族
- 藩士・旧幕臣→士族

1871 廃藩置県とは
廃藩置県前の課題(目的)
版籍奉還によって日本は中央集権国家に一歩近づきましたが、まだ課題は残っていました。
それが、「徴税と軍事の権限は、これまで通り各藩が握っていた」という課題です。結局、大名が知藩事っていう名前に変わっただけで、根本的な部分は江戸時代の頃とほとんど同じだった。
藩内で徴収される年貢は、新政府には納められなかった
藩内で徴収される年貢は、新政府には納められませんでした。
一方、明治新政府が直接支配した土地(直轄地=府県)は全国の4分の1くらいで、明治新政府はその限られた地域から年貢を集めるしかありませんでした。しかも新政府の支配地の人々は、「年貢を厳しく取り立てるんじゃねえ!」って一揆を起こしたりしました。
こうして、明治新政府は財源確保に苦しむことになりました。

藩は常備軍を持っていた
藩は、旧藩士を担い手とする常備軍(藩兵)を持っていました。
一方、明治新政府直属の軍隊は存在していませんでした。日本のトップに立った明治新政府が軍事力を持っていない、というのは大問題です。
廃藩置県の内容
これらの課題を解決するために、廃藩置県という政策が実行されました。
廃藩置県は「全ての藩を廃止して、代わりに県を設置し、全国を政府の直轄地とする」政策です。
- 旧大名である知藩事を罷免して、東京に住むことを命じる(←たぶん彼らが地方に残っていたら、影響力を及ぼすことができてしまうから)
- 地方支配は中央政府が派遣する官僚(府知事・県令)に行わせる
※府=東京・大阪・京都


これは明治新政府にとって、とてつもなく大きな仕事です。藩をつぶして旧大名の既得権益を否定するわけですから、元藩主(知藩事)の大反発が予想されます。下手したら、内戦が起きる可能性だってあります。
そこで明治新政府は、軍事力を固めた上で(=薩摩・長州・土佐の3つの藩から藩兵を集めて親兵(しんぺい)を組織してから)一挙に廃藩置県を実行しました。
ところが実際には、藩からの抵抗はほとんどなかったようです。戊辰戦争ですでに藩はボロボロの状態だったからです。



廃藩置県の影響
廃藩置県の結果、税金を集める権利は政府に集中し、藩兵は解体されました。
版籍奉還・廃藩置県の目的である「明治新政府が日本でトップに立ち、地方に強い影響力を及ぼせるようになる」ことが達成され、中央集権国家の体制が整いました。

版籍奉還と廃藩置県の違い
版籍奉還(1869)も廃藩置県(1871)も、明治新政府が日本でトップに立ち、地方に強い影響力を及ぼせるようにするための改革ですが、具体的な内容や実行の仕方などなどに違いがありました。
違いをまとめるとこんな感じかな↓
| 版籍奉還 | 廃藩置県 | |
| 内容 | 大名が「土地・人民を治める権利」を天皇に返す政策 | 「全ての藩を廃止して、代わりに県を設置し、全国を政府の直轄地とする」政策 |
| 実行の仕方 | 事前に薩長土肥の4藩主に出願させて、他の藩を誘導した | 軍事力を固めてから、一挙に実行した |
| 旧大名の扱い | 旧大名は知藩事に任命されて、地方の支配を任された | 旧大名は知藩事を罷免されて、東京居住を命じられた |
| 地方支配のやり方 | もともとの支配者である旧大名に地方支配を任せた【地方分権的】 | 中央政府が派遣する官僚(府知事・県令)に地方支配を任せた【中央集権的】 |
| 地方の軍事力 | 藩兵は解体されず | 藩兵は解体された |
| 明治新政府の財政 | 直接支配した土地(直轄地=府県)から年貢を集めるしかなかった | 全国から年貢を集めることができるようになった |













