日本史

なぜ江戸幕府は滅亡したのか?本質をわかりやすく解説【日本史】

江戸幕府が滅亡するまでの流れ(なぜ江戸幕府は滅亡したのか?)について説明します!

※むっちゃ長文なので、何回かに分けながらじっくり読んでいただけたら、と思います!

※この時期の歴史はものすごく複雑です。それぞれのプレイヤーの思惑が入り乱れ、さらにその思惑の方向性がコロコロ変わったりするので、”簡単に”理解するのは難しい。そういうもの(=複雑なもの)として理解するしかないと思います。

※ちゃんと説明しようと思った結果、内容が盛りだくさんになってしまったので、「別に本質なんかどうでもいいし、テストでそこそこの点が取れたらそれでいいし」っていう人にはおすすめできない記事になっています。すみません!

江戸幕府が滅亡するまでのざっくりとした流れ

江戸幕府滅亡に至るまでの流れは、いろんな人の思惑が絡み合っていることもあってかなり複雑なんですけど、

ポイントは、

  • ペリー来航以降、日本国内が動揺している中で、
  • 「誰がどうやって日本を引っ張っていくか?」でいろんな人たちが揉めた
  • 国の主導権を握ろうとした人々の重大な対立軸が「欧米諸国にどう対応するか?」だった

って大きく捉えることだと思います!

とりあえず、江戸幕府滅亡に至るまでのざっくりとした流れを説明します。

【第1段階】

危機にうまく対処できない幕府に対して、人々が「幕府ダメじゃん」っていう感覚を抱くようになった

幕府の弱体化にともなって、朝廷(天皇)の存在感がアップし、「みんなで話し合おう」っていう雰囲気になった

天皇のOKなく日米修好通商条約を結んだ幕府が批判され、権威失墜

【第2段階】

幕府主導の改革が失敗した

公武合体派と尊王攘夷派が国の主導権争いをした

尊王攘夷派が国の主導権争いで敗れた

公武合体がうまくいくかと思いきや、意見が合わずに挫折した

【第3段階】

薩摩藩と長州藩が「もう幕府はいらない」って考えた

幕府が劣勢に

土佐藩と徳川氏は公武合体でしのぐ(大政奉還)【江戸幕府滅亡】

倒幕派はクーデタを行い新政府を樹立した(王政復古の大号令)

新政府は徳川氏の排除を目指した

旧幕府と新政府が武力衝突した(戊辰戦争

新政府が勝利して日本は再スタートを切った

江戸幕府滅亡に至るまでの流れ(&その後どうなったか?)は、ざっくりこんな感じです。

ここからはもっとくわしく説明していきます!

【第1段階】江戸幕府滅亡までの流れ

内憂外患に直面し幕府権力が弱体化

1800年頃から、江戸幕府は「国内の混乱」と「外国からの脅威」という危機に本格的に直面することになりました(「国内の混乱」と「外国からの脅威」のことをまとめて「内憂外患」と言います)

具体的にはこんな感じです↓

「国内の混乱」=内憂

「外国からの脅威」=外患

  • 外国の船が日本に来航するようになって「鎖国」体制が動揺したこと

江戸幕府は、「外国からの脅威」に対しては「鎖国」の維持を目指してそれなりに対処をしましたが、

「国内の混乱」に対しては根本的な解決をすることができず失敗を重ねてしまうことになりました

関連:内憂外患・文化文政時代について

朝廷と雄藩の存在感がアップ

江戸幕府が失敗を重ねると、「もう幕府ダメじゃね?」っていう雰囲気が強くなります。

そして、幕府の弱体化にともなって幕府以外の勢力の地位が浮上してくることになりました。

1つ目が朝廷(天皇)です。

幕府じゃなくて、やっぱり日本のトップである天皇こそが日本を引っ張っていくべきだよね!」っていう考えを持つ人が増えてきました。

2つ目の勢力が雄藩です。

雄藩っていうのは、優秀な人材を起用したりしながら藩の改革を行い(財政の再建と藩権力の強化に成功して)幕末に強い発言力を持つようになった藩のことです。

具体的には薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩など。この後の倒幕運動の中心になる藩です。

関連:天保の改革とは?

ペリー来航→幕府はみんなに意見を聞く

「鎖国」の維持を目指して「外国からの脅威」にそれなりに対処をしていた江戸幕府は、いよいよ本格的な危機に直面することになりました。

1853年6月、アメリカ人のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、日本に開国を要求したんです。

この大事件に対して、江戸幕府の中心メンバーだった阿部正弘は「もっともっとみんなの意見を聞こう!」って考えて、今まで幕府の政治に参加していなかった人にも意見を求めました

もともと江戸幕府は、古くから将軍に従っていた譜代大名が老中や若年寄などの役職に就いて、譜代大名中心に運営がなされていたのですが、

ペリー来航を機に、老中の阿部正弘は今までの幕府運営の方針を変えて

  • 朝廷への報告を行い
  • 親藩や外様大名にも意見を言わせる

ことにしたのです安政の改革。「みんなで力を合わせて危機を乗り越えるぞー!」みたいな感じです。

※親藩=将軍の一族

※外様大名=関ヶ原の戦い以後に徳川家に従った大名

関連:安政の改革と将軍継嗣問題について

幕府内での対立

今まで幕府の運営に参加できなかった大名が運営に参加するようになったわけですが、

こうなると今まで幕府の運営にあたっていた譜代大名たちはどんな気持ちになるでしょうか?

どうしても、「なんか嫌だな」って反発する気持ちが出てくるんですよね。「面白くねえなあ…」って感じになる。

で、そう思っていた譜代大名たちの中心にいたのが、井伊直弼という人です。

幕府の権威が失墜(←違勅調印・安政の大獄・桜田門外の変)

幕府内で対立が起きていた頃(1856年)

アメリカの外交官ハリスが日米和親条約にもとづいて初代駐日アメリカ総領事として下田に着任。日本に対して「日本で商売させてよ」って言ってきました

アメリカからの要求に対して、幕府内でなかなか意見がまとまらず・・・

そこで幕府を引っ張っていく立場にいた老中の堀田正睦は、天皇に「条約を結んでいいよ!」って言ってもらう(=勅許を得る)ことで反対派をおさえようと考えて、天皇がいる京都に行きました。

ところが、当時の天皇だった孝明天皇は「貿易は反対!」っていう立場だったので勅許を拒否します。

その後、いろいろあって井伊直弼が新たに幕府を引っ張っていく立場になり、、、(=大老になりました)

んで、井伊直弼も天皇に「条約を結んでいいよ!」って言ってもらう(=勅許を得る)ことが必要だと考えていたんですけど、

結局、アメリカからのプレッシャーに負けて、天皇の勅許がないまま日米修好通商条約にサイン(調印)をすることになりました(=違勅調印)

これがまずかった。

「天皇のOKが必要だ」って考えていたくせに、結局は天皇のOKをもらわないまま条約を結んでしまったわけです。

当然、孝明天皇の勅許を得ずに条約を結んでしまったことに対して批判が起こりました

特に、ペリー来航をきっかけに新たに幕府の運営に参加するようになって、井伊直弼たちと対立していた大名たち(一橋派)が「ふざけんな!」って感じで幕府の政策を批判したのです。

ところが、そうやって幕府を批判してきた人たち(徳川斉昭・松平慶永・島津斉彬など)を、井伊直弼はぶちのめしてしまいます(1858〜59安政の大獄)

井伊直弼は、新たに幕府運営に参加してきた人たちを排除。

そうすることで、伝統的な幕府運営のやり方に戻ろうとしたわけです。

でもこんなことしたら、ますます幕府に対して「ふざけんじゃねえコンニャロクソヤロー!」ってなりますよね。

こうして、大老の井伊直弼は暗殺されてしまいました(1860桜田門外の変)

江戸幕府の中心人物が暗殺されるという大事件を受けて、「もう幕府ってマジでダメじゃん」っていう雰囲気が強くなります。

関連:日米修好通商条約とは?

貿易開始による人々の生活が混乱

日本を根っこのところで支えている庶民の生活も混乱に陥っていました

日米修好通商条約(と、それに類する条約=安政の五カ国条約)に基づいて欧米諸国との貿易がスタートしたことによって、

国内産業(絹織物業、綿作、綿織物業)が打撃を受けたり、物価が上昇したりしたのです。

こうして、条約を結んだ(しかも天皇のOKなく結んだ)幕府に対して、庶民もイライラムッキー!って感じになってきました。

【第2段階】江戸幕府滅亡までの流れ

ここからいよいよ、国の主導権をめぐるバトルが激しくなっていきます。

「幕府だけに任せていたらマズイ」と認識

様々な問題にうまく対処することができない幕府を見て、「幕府だけに任せていたらマズイ」という雰囲気が強くなってきました。

で、「誰がどうやって日本を引っ張っていくか?」に関して、いくつかの路線が模索されることになります。

1つ目が「譜代大名中心の伝統的な幕府の運営をしていこう」という路線です。「幕閣独裁」と表現します。

井伊直弼が行った安政の大獄は、この「幕閣独裁」を復活させようとしたものでした。

ですが周りの人からしたら当然「ふざけんな」って感じで、その後の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことにより、この路線は非現実的なものとなってしまいました

2つ目が「みんなで話し合って国のことを決めよう」という路線です。「公議政体論」とか「雄藩連合」とか表現されたりします。

この「みんなで話し合って国のことを決めよう」という路線は、

  • 朝廷と幕府が協調して国政運営をしよう
  • いっそのこと幕府をぶっつぶして天皇のもとで新政府を作ろう

っていう路線にさらに分けることができます。

そして、徳川氏のことを認めている度合いに応じて、

  • 公武合体の立場=公(朝廷)と武(幕府)が提携しよう!という立場
  • 尊王の立場=幕府よりも天皇の方が上だ!という立場

に分かれます。

「尊王の立場=反幕府」っていうわけではなく、このあたりは完璧に分類するのが難しい(←グラデーションになっている)ので、「こんなイメージなのか」くらいの感覚で捉えてください。

僕も完璧にはわかっていません。

以上のように、「誰がどうやって日本を引っ張っていくか?」に関して、たくさんの人が頭を悩ませました。

欧米諸国にどう対応するか?

また、日本を混乱におとしめた欧米諸国にどのように対応するか?も、大きなテーマとなりました。

「日米修好通商条約を結んで貿易がスタートしたけど、やっぱり欧米諸国と付き合うのはやめた方がいいんじゃないの?」って疑問に思う人がたくさんいたんです。

「欧米諸国にどう対応するか?」に関しては、3つの方向性があります。

  • うまく付き合う(開国和親)
  • 港を閉鎖して貿易をやめる(攘夷)
  • 武力でぶっとばす(攘夷)

幕府・朝廷・雄藩は一枚岩ではない

「誰がどうやって日本を引っ張っていくか?」「欧米諸国にどう対応するか?」をめぐってバトルを繰り広げた代表的な人物(プレイヤー)が、

  • 江戸幕府
  • 朝廷(天皇)
  • 雄藩(薩摩藩、長州藩、土佐藩)

です。

※ 雄藩の1つである肥前藩は、方針を明確には示さず「ただ見守るぞ」っていう態度でした。

んで、ここが超重要なポイントなんですけど、それぞれの組織は全体でまとまっていたか?(組織に属する人全員が同じ考えだったか?)というと、決してそういうわけではありません。

朝廷に関して言うと、朝廷の中には公武合体派の公家もいれば、尊王攘夷派の公家もいるという状態でした。

ちなみに、孝明天皇は「幕府をつぶすつもりはない(公武合体)けど、欧米諸国はホント嫌!攘夷攘夷!」って感じでした

また、雄藩も同じです。藩の中には、

  • 【high class】藩の中で身分が高く、藩の中で発言力がある人(大名など)
  • 【low class】藩の中で身分が低く、藩の中で発言力がない人(下級武士)

の両者がいるので、藩全体でまとまっていたわけではありません。ここ、超重要なポイントなのでもう少し突っ込んで話をします。

下級武士の立場

藩の中で発言力がないlow classの人たち(下級武士)は、幕府の仕組みには希望が見出せません。

大名なら「○○藩の藩主」として幕府の政治に参加したり口を出したりできる可能性がありますが、

下級武士たちは下級武士である以上、どれだけ真剣に日本の未来について考えても、「藩の代表」のような立場で国の政治に口を出すことができないんです。

そこでlow classの下級武士たちは、天皇の権威を利用して、「藩として」ではなく独自のルートで国の政治に(幕府の政治に)口を出そうとしました

彼らは、欧米諸国のせいで今までの生活が混乱して攘夷(「外国をブットバセ!」)の雰囲気が高まってきている中で、

自分たちの発言力をアップさせるために天皇の権威をより重視するようになり、「尊王攘夷だ!」って主張するようになっていきます。

天皇がいるのは京都なので、京都は尊王攘夷派の志士がウジャウジャと集まる場所になっていました。

こんな感じで、幕府が弱体化する中で、様々なプレイヤーが自分が考える「より良い日本」に向けてそれぞれ動きを見せていきます。

朝廷と協調して権威を回復したい幕府が公武合体策を実行(→失敗)

幕府は天皇の許しをもらわずに条約を結んだ

→幕府を批判してきたヤツらをブチのめした(1858〜59年:安政の大獄)

→幕府の中心人物である井伊直弼が暗殺された(1860年:桜田門外の変)

という流れを経験して「朝廷を怒らせたらマズイ!朝廷とうまくやっていかなきゃダメだ!」って思った幕府は、朝廷との関係を改善しようとしました

老中の安藤信正は、孝明天皇の妹である和宮を将軍徳川家茂と結婚させて、「朝廷と幕府はうまくやってるんだよ!」っていうアピールをしようとしたんです(公武合体策と言います)

※和宮がすでに別の人と婚約していたり、和宮が「結婚は無理ですっ」って言ったりして、実現にこぎつけるまで結構大変だったようです。

ただ、公武合体を快く思わない人(尊王攘夷派)からしたら、この幕府の行動は面白くありません。

結局、「そんな浅はかなことしてんじゃねえ!」って怒った人々(尊王攘夷派)によって、老中の安藤信正は襲われてしまい(1862年:坂下門外の変)、改革はうまくいきませんでした。

朝廷が国政の中心に

幕府がリードする公武合体が失敗して「幕府ってほんとダメだよな」ってのが決定的になったのにともなって、

いよいよ「京都にある朝廷こそが、国の政治の中心だよな」ってみんなが考えるようになりました。

こうして、公武合体派や尊王攘夷派が京都に集結します。

薩摩藩は朝廷を経由して幕府に口を出す(文久の改革)

雄藩の一つである薩摩藩は、公武合体の立場であるhigh classの人たちによる動きがメインでした。薩摩藩主の父である島津久光が朝廷を利用して幕政改革をしようとしたんです。

※藩主の父である島津久光は、実際にはただ「藩主の父」っていうだけで特別な位があるわけではなかったけど、薩摩藩の事実上の最高権力者でした。

1862年、島津久光は「朝廷と幕府で協力していきましょう!」っていう改革を実現するために、たくさんの兵を連れてまず京都に行きました。

ところが、薩摩藩の中の尊王攘夷派は「いよいよ幕府を倒すのか!」って思っていたようです。島津的には「俺は公武合体をしようとしているのに…過激な尊王攘夷派は邪魔だわ!」って感じですよね。

そこで1862年4月、薩摩藩の中の過激な尊王攘夷派をぶちのめしました。この事件のことを寺田屋事件(寺田屋騒動)と言います。

この事件によって、京都でウジャウジャしている過激な尊王攘夷派の存在に困っていた天皇は島津久光への信頼を高めたらしいです。

で、島津が「幕府に対して、こんな改革を提案しようと思います!」って提案してきたのを「オッケー!」って受け入れました。

で、島津久光は天皇の命令(「幕府は改革せよ!」)を伝える使者と一緒に江戸に行き、幕府に「朝廷が改革をしろって言ってますよ」って伝えました

こうして行われた幕政改革を文久の改革と言います。

文久の改革では、

  • もと一橋派が幕府の役職に就いたり(政事総裁職、将軍後見職)、
  • 京都の治安の取り締まりを行う役職を新たに作ったり(京都守護職)

といった改革が行われました。

井伊直弼と対立して安政の大獄で弾圧された松平慶永や徳川慶喜が幕府の政治に復帰したり、幕府が朝廷の治安の取り締まりを行うことで幕府と朝廷との協調を目指したりしたわけです。

以上が薩摩藩の動きです。high classの人が、朝廷を経由して公武合体を実現しようとしたのです。

薩摩藩が「攘夷は無理」と悟った

この薩摩藩の江戸への遠征をきっかけに、とんでもない事件が起きました。

幕府に改革を要求した後の江戸からの帰り道で、島津久光の行列を横切ったイギリス人を薩摩藩の武士が殺してしまうという事件が起きたのです(1862年:生麦事件)

この結果、事件の解決をめぐってイギリスと対立し、薩摩藩はイギリスと鹿児島湾でバトルすることになってしまいました(1863年:薩英戦争)。薩摩藩はイギリスにボコボコにされます。

イギリスの強さをリアルに感じた薩摩藩は、「欧米諸国を武力でぶっとばすのは(=攘夷は)無理だな」って強く感じるようになりました。

長州藩も朝廷を経由して幕府に口を出す(攘夷決行の約束)

一方、薩摩と並ぶ雄藩の一つである長州藩はどうだったのか?というと、長州藩も朝廷を経由して幕府を動かそうとしました

ただ薩摩藩と違ったのが、長州藩は下級武士が主張していた尊王攘夷を「藩全体の考え」(藩論)としていたところです。

長州藩は尊王攘夷派の公家(三条実美)とタッグを組んで朝廷を動かし、将軍を京都に来させて、「1863年5月10日に攘夷を実行せよ!」と多くの藩に命令させました

そして「1863年5月10日に攘夷を実行する」という約束通り、長州藩は下関の海峡を通る外国船を砲撃しました。

ただ、実際に攘夷を実行したのは長州藩だけだったようです。他の藩も幕府も攘夷は実行しなかった。

その結果、長州藩は「幕府ってマジでダメだわ!」っていう考えを強く持つようになります。

尊王攘夷派の退場(八月十八日の政変)

でも、その考えがあまりにも強烈だったようで、

「欧米諸国はイヤだけど、幕府を潰すつもりはない。公武合体だ!」って考えていた孝明天皇は長州藩を「うざいなあ」って思うようになります

島津久光が率いる薩摩藩が去った後の朝廷は、尊王攘夷派の長州藩と尊王攘夷派の公家が発言力を持っている状況になってしまっていたので、

「過激な尊王攘夷派ってホント邪魔だわ」って考えていた孝明天皇は、会津藩と薩摩藩に「長州藩と尊王攘夷派の公家を排除せよ!」って命令をします。

こうして、長州藩と尊王攘夷派の公家は京都から追放されることになりました(八月十八日の政変)

※なんで会津藩が出てきたのか?というと、薩摩藩の島津久光による文久の改革の時に、会津藩の藩主である松平容保が京都守護職(京都の治安の取り締まりを行う役職)に就いて、会津藩が京都の治安の取り締まりを担当していたからです。

公武合体の挫折

八月十八日の政変で尊王攘夷派が退場した結果、「朝廷と幕府が協調して国の政治を行おう!」っていう公武合体派が主導権を握り、天皇のもとで、彼らによる話し合いで国の運営がなされることになりました

参加したメンバーは、

  • 徳川慶喜
  • 松平慶永
  • 山内容堂
  • 伊達宗成
  • 松平容保
  • 島津久光

ところが、もう邪魔者はいない!ってことで公武合体派の人たちによる話し合いで国の運営が順調になされるかと思いきや、

「欧米諸国にどう対応するか?」をめぐって、メンバー同士の意見が大きく食い違ってしまうことになりました。

特に、薩摩藩の島津久光と徳川慶喜の対立が激しかったようです。

結局、せっかく実現した公武合体路線は数ヶ月で崩壊

公武合体の立場だった薩摩藩は、だんだんと「もう幕府をぶっつぶして、徳川氏を排除した新政府を作るしかないのでは?」って考えるようになっていきます。

【第3段階】江戸幕府滅亡までの流れ

いよいよ幕府が滅亡します。

長州藩がズタボロになる

八月十八日の政変で京都から追放された長州藩は、勢力を挽回しようとして京都に乗り込んだんですけど、返り討ちにあってしまいます(1863年:禁門の変)

そして、お仕置きを受けます(1864年:第一次長州征討)

さらに大変なことに、長州征討が始まった直後、長州藩は、1853年5月10日に下関の海峡を通る外国船を砲撃したことに対する復讐を受けることになってしまいました。

「攘夷派のヤツらって貿易の邪魔だよな。だって攘夷派の長州藩のせいで下関海峡を安全に通れなくなって、長崎での貿易が麻痺してるんだもん!」ってことでイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊に攻撃されたんです(1864年:四国艦隊下関砲撃事件)

欧米諸国の強さをリアルに感じた長州藩は、「欧米諸国を武力でぶっとばすのは(=攘夷は)無理だな」って強く感じるようになりました。

こうして長州征討と四国艦隊下関砲撃事件のダブルパンチを受けた長州藩は、幕府に従う方針に転換します。

薩摩藩と長州藩が倒幕を決意する

ところが、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らの尊王攘夷派が兵をあげて長州藩の主導権を握ります

そして、幕府に従う方針から幕府を倒す方針へと転換し、志願兵による軍隊(奇兵隊など)を整えて、幕府に対抗できる準備に力を入れました。

※農民や商人なども志願しました。幕府の支配に不満を抱く人がたくさんいたっていうことの表れだと思います。

こうして、薩摩藩と長州藩はともに

幕府をぶっつぶして天皇のもとで新政府を作ろう

攘夷は不可能だ

って考えるようになったのです。

薩長同盟

徳川慶喜を中心に動いていた幕府は、幕府への対抗意識を強めて軍事力を強化していた長州藩に対して、「てめえ調子乗ってんじゃねえぞ!」って感じで、1865年に2回目の長州征討の実施を決定しました。

ところが、薩摩藩が幕府に反発する動きを見せます。

「薩摩藩と意見が合わないヤツ」である徳川慶喜が率いる幕府に対して、「自分たちだけで決めるんじゃねえ!みんなで話し合って決めるべきだろ!」って反発したんです。

そして1866年、薩摩藩と長州藩は土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介によって、密かに軍事同盟を結びました(薩長連合or薩長同盟or薩長盟約)。

もともと薩摩藩と長州藩は

  • 薩摩藩→公武合体の立場から幕政改革を求める
  • 長州藩→尊王攘夷の立場から幕府に反対する姿勢をとる

など、お互いに相容れない関係だったわけですが、ここにきて手を組むようになったわけです。

※ただ、あくまで第二次長州征討に関して「薩摩藩は長州藩を支援するよ」っていうのを約束しただけです。「一緒に倒幕しようぜ!」って約束したわけではありません。

幕府は劣勢に

この薩摩藩の動きの結果、長州征討に向かった幕府は不利な戦いを強いられることになり、途中で将軍徳川家茂が急に亡くなったことを理由に戦闘を中止しました。

さらに1866年12月には、倒幕を望まず公武合体の立場をとっていた孝明天皇が亡くなってしまいました

こうして幕府は、かなり不利な状況に陥ってしまうことに・・・

庶民も社会への不満を抱いていた

ここまで朝廷や幕府や薩摩藩や長州藩など、世の中の一部(上層部?)だけで動きが起こっているかのような説明をしてきましたが、庶民の動き・気持ちも大事です。

貿易開始にともなう物価の上昇で生活が苦しくなったり、政治的なバトルが行われたりしている状況で、庶民は「この世の中、なんとかならんもんかねえ」っていう不満をますます募らせるようになっていました。

で、その不満が表面化したのが「世直し」を求める運動です。貧しい人たちが「年貢を下げろ!」って要求したり、地主などの豊かな人たちを攻撃したりする民衆運動が、江戸や大坂を中心にたくさん起こりました。

また、1867年の秋から冬にかけて、東海地方・近畿地方・四国地方あたりで民衆が「ええじゃないか」って連呼して踊り狂うワケワカンナイ騒動も起きました。

この民衆運動にともなう混乱によって、幕府の支配が行き届かなくなり、その間に倒幕運動が進んだようです。

※ちなみに、長州藩が攘夷を実行して四国艦隊下関砲撃事件で欧米諸国から復讐されたっていう話をしましたが、欧米諸国は事件の賠償金を長州藩ではなく幕府に請求していました。

この賠償金がかなりの額で、幕府は支払いに困ることになったようです。

そこで、欧米諸国は「賠償金を減らしてあげるから、関税をもっと下げろ!」って交換条件を持ちかけて、1866年、関税率を下げることなどを日本に約束させることに成功しました(改税約書)。この結果、貿易の不平等が拡大して、人々の生活はもっと混乱することになりました。

庶民も社会への不満を抱いていて、江戸幕府はかなり危機的な状況に追い込まれていたわけです。

土佐藩と徳川氏は公武合体でしのぐ(大政奉還)

このように幕府が危機的な状況に追い込まれていて、薩摩藩・長州藩を中心に「幕府を倒すぞ」っていう雰囲気が強くなってきている状況で、土佐藩が動きました

土佐藩は「朝廷と幕府が協調して国の政治を行おう!」っていう公武合体の立場で、幕府が武力で倒されることは望んでいなかったので、

先手を打って、幕府に「朝廷に政権を返して、徳川家を中心に新政府を作って、雄藩・公家と話し合って政治をしていきましょうよ」と言いました。

この提案を徳川慶喜は受け入れて、1867年10月14日に「朝廷に政権を返します!」って宣言しました(大政奉還)。

ところが一方で、薩摩藩の大久保利通や長州藩の木戸孝允は、倒幕派の公家の岩倉具視の協力を得つつ、実は1867年10月14日に「江戸幕府を倒せ!」っていう天皇の命令討幕の密勅をゲットしていました。

大政奉還も討幕の密勅も同じ1867年10月14日です

武力倒幕派がせっかく「江戸幕府を倒せ!」っていう天皇のお言葉をゲットしたのに、その日に大政奉還されて江戸幕府がなくなってしまったので、「もう江戸幕府なくなっちゃってるじゃん」ってことになってしまったのです。

旧幕府側が、ある意味”勝利した”って感じです。

※ちなみに、大政奉還によって江戸幕府はなくなったので、ここから「旧幕府」と呼ぶことになります。

倒幕派はクーデタを行い新政府を樹立した(王政復古の大号令)

こうして朝廷が政治を行うことになったのですが、鎌倉時代からこれまで何百年もずっと武士が政治を行なっていたわけで、朝廷がいきなり「日本をバリバリ引っ張っていきまっせ!」ってなれるわけはありません。

結局、徳川慶喜中心の政権が維持されたままだった…というのが実態のようです。

で、昔とちっとも変わらない状況を見た武力倒幕派は、1867年12月9日、土佐藩などの協力を得つつ、王政復古の大号令を発して天皇を中心とする新しい政府をつくったのです。

いわゆるクーデターです。

王政復古の大号令

=薩長の武力倒幕派が、天皇中心の新政府を樹立することを目指して出した宣言。

クーデター

=暴力的な手段を使って政権を奪い取ること。

こうして江戸幕府は滅亡しました。

武力倒幕をしようとしていた人々が1867年12月9日に王政復古の大号令を発することで作られた政府のことを、明治新政府と言います。

実は、明治新政府も旧幕府も目指しているものはほぼ同じでした。

ただ、徳川氏をどうするか?の部分で違いがあって、

  • 旧幕府は「徳川氏を中心に新しい日本を作っていこう!」という立場をとったのに対して、
  • 明治新政府は「徳川氏を排除して新しい日本を作っていこう!」という立場をとったのです。

明治新政府のメンバーは12月9日の夜に会議(小御所会議)を行い、

  • 徳川慶喜が役職から外れること(内大臣の辞職)
  • 徳川慶喜が自分の領地を手放すこと

を求めました(辞官納地といいます)

「徳川氏なんかこれからの日本に必要ねえんだよ」って挑発して、

バトルに持ち込もうとしたわけです。

旧幕府と新政府が武力衝突した(戊辰戦争)

この挑発に反発した徳川慶喜ら旧幕府勢力は、1868年1月から新政府とバトルを始めます。これが戊辰戦争です。

戊辰戦争について

動画でも確認

※後日公開

日本史の記事・動画一覧はこちら

日本史まとめ記事【日本史サイト】

日本史を解説したYouTube動画まとめ

参考文献

関連:高校日本史Bの参考書・問題集を東大卒元教員が紹介【大学受験にもおすすめ】

関連:日本の歴史の漫画を東大卒元教員が比較して紹介

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