日本史

江戸幕府の滅亡について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説【日本史44】

【日本史44】江戸幕府の滅亡について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

江戸幕府が滅亡するまでの流れ(なぜ江戸幕府は滅亡したのか?)について説明します!

※むっちゃ長文なので、何回かに分けながらじっくり読んでいただけたら、と思います!

※ちゃんと説明しようと思った結果、内容が盛りだくさんになってしまったので、「別に本質なんかどうでもいいし、テストでそこそこの点が取れたらそれでいいし」っていう人にはおすすめできない記事になっています。すみません!

 

この記事の信頼性

僕(もちお)は、元社会科教員。

  • 日本史についてそれなりにくわしい。

僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。

  • 日本史についてそれなりにくわしい。

 

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江戸幕府が滅亡するまでのざっくりとした流れ

江戸幕府滅亡に至るまでの流れは、いろんな人の思惑が絡み合っていることもあってかなり複雑なんですけど、

ポイントは、

  • ペリー来航以降、日本国内が動揺している中で、
  • 「誰がどうやって日本を引っ張っていくか?」でいろんな人たちが揉めた
  • 国の主導権を握ろうとした人々の重大な対立軸が「欧米諸国にどう対応するか?」だった

って大きく捉えることだと思います!

 

とりあえず、江戸幕府滅亡に至るまでのざっくりとした流れを説明します。

【第1段階】

危機にうまく対処できない幕府に対して、人々が「幕府ダメじゃん」っていう感覚を抱くようになった

幕府の弱体化にともなって、朝廷(天皇)の存在感がアップし、「みんなで話し合おう」っていう雰囲気になった

天皇のOKなく日米修好通商条約を結んだ幕府が批判され、権威失墜

 

【第2段階】

幕府主導の改革が失敗した

公武合体派と尊王攘夷派が国の主導権争いをした

尊王攘夷派が国の主導権争いで敗れた

公武合体がうまくいくかと思いきや、意見が合わずに挫折した

 

【第3段階】

薩摩藩と長州藩が「もう幕府はいらない」って考えた

幕府が劣勢に

土佐藩と徳川氏は公武合体でしのぐ(大政奉還)【江戸幕府滅亡】

倒幕派はクーデタを行い新政府を樹立した(王政復古の大号令)

新政府は徳川氏の排除を目指した

旧幕府と新政府が武力衝突した(戊辰戦争)

新政府が勝利して日本は再スタートを切った

 

江戸幕府滅亡に至るまでの流れ(&その後どうなったか?)は、ざっくりこんな感じです。

 

ここからはもっとくわしく説明していきます!

 

 

【第1段階】江戸幕府滅亡までの流れ

内憂外患に直面し幕府権力が弱体化

1800年頃から、江戸幕府は「国内の混乱」と「外国からの脅威」という危機に本格的に直面することになりました(「国内の混乱」と「外国からの脅威」のことをまとめて「内憂外患」と言います)

具体的にはこんな感じです↓

「国内の混乱」=内憂

 

「外国からの脅威」=外患

  • 外国の船が日本に来航するようになって「鎖国」体制が動揺したこと

 

江戸幕府は、「外国からの脅威」に対しては「鎖国」の維持を目指してそれなりに対処をしましたが、「国内の混乱」に対しては根本的な解決をすることができず失敗を重ねてしまうことになりました

 

内憂外患・文化文政時代について

 

 

朝廷と雄藩の存在感がアップ

江戸幕府が失敗を重ねると、「もう幕府ダメじゃね?」っていう雰囲気が強くなります。そして、幕府の弱体化にともなって幕府以外の勢力の地位が浮上してくることになりました。

 

1つ目が朝廷(天皇)です。幕府じゃなくて、やっぱり日本のトップである天皇こそが日本を引っ張っていくべきだよね!」っていう考えを持つ人が増えてきました。

 

2つ目の勢力が雄藩です。雄藩っていうのは、優秀な人材を起用したりしながら藩の改革を行い(財政の再建と藩権力の強化に成功して)幕末に強い発言力を持つようになった藩のことです。具体的には薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩など。この後の倒幕運動の中心になる藩です。

 

天保の改革とは?

 

 

ペリー来航→幕府はみんなに意見を聞く

「外国からの脅威」に対して、「鎖国」の維持を目指してそれなりに対処をしていた江戸幕府は、いよいよ本格的な「外国からの脅威」に直面することになりました。

1853年6月、アメリカ人のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、日本に開国を要求したんです。

 

 

この大事件に対して、江戸幕府の中心メンバーだった阿部正弘は「もっともっとみんなの意見を聞こう!」って考えて、今まで幕府の政治に参加していなかった人にも意見を求めました

 

もともと江戸幕府は、古くから将軍に従っていた譜代大名が老中や若年寄などの役職に就いて、譜代大名中心に運営がなされていたのですが、

ペリー来航を機に、老中の阿部正弘は今までの幕府運営の方針を変えて

  • 朝廷への報告を行い
  • 親藩や外様大名にも意見を言わせる

ことにしたのです安政の改革。「みんなで力を合わせて危機を乗り越えるぞー!」みたいな感じです。

親藩=将軍の一族

外様大名=関ヶ原の戦い以後に徳川家に従った大名

 

安政の改革と将軍継嗣問題について

 

 

幕府内での対立

今まで幕府の運営に参加できなかった大名が運営に参加するようになったわけですが、こうなると今まで幕府の運営にあたっていた譜代大名たちはどんな気持ちになるでしょうか?

 

どうしても、「なんか嫌だな」って反発する気持ちが出てくるんですよね。「面白くねえなあ…」って思っていた譜代大名たちの中心にいたのが、井伊直弼という人です。

 

 

幕府の権威が失墜(←違勅調印・安政の大獄・桜田門外の変)

幕府内で対立が起きていた頃(1856年)、アメリカの外交官ハリスが、日米和親条約にもとづいて初代駐日アメリカ総領事として下田に着任し、日本に対して「日本で商売させてよ」って言ってきました

 

アメリカからの要求に対して、幕府内でなかなか意見がまとまりませんでした。

 

そこで幕府を引っ張っていく立場にいた老中の堀田正睦は、天皇に「条約を結んでいいよ!」って言ってもらう(=勅許を得る)ことで反対派をおさえようと考えて、天皇がいる京都に行きました。

ところが、当時の天皇だった孝明天皇は「貿易は反対!」っていう立場だったので勅許を拒否します。

 

 

その後、いろいろあって井伊直弼が新たに幕府を引っ張っていく立場になりました(=大老になりました)

 

んで、井伊直弼も天皇に「条約を結んでいいよ!」って言ってもらう(=勅許を得る)ことが必要だと考えていたんですけど、

結局、アメリカからのプレッシャーに負けて、天皇の勅許がないまま日米修好通商条約にサイン(調印)をすることになりました(=違勅調印)

 

 

これがまずかった。「天皇のOKが必要だ」って考えていたくせに、結局は天皇のOKをもらわないまま条約を結んでしまったわけです。

 

当然、孝明天皇の勅許を得ずに条約を結んでしまったことに対して批判が起こりました。特に、ペリー来航をきっかけに新たに幕府の運営に参加するようになって、井伊直弼たちと対立していた大名たち(一橋派)が、「ふざけんな!」って感じで幕府の政策を批判したのです。

 

 

ところが、そうやって幕府を批判してきた人たち(徳川斉昭・松平慶永・島津斉彬など)を、井伊直弼はぶちのめしてしまいます(1858〜59安政の大獄)

井伊直弼は、新たに幕府運営に参加してきた人たちを排除して、伝統的な幕府運営のやり方に戻ろうとしたわけです。

 

 

でもこんなことしたら、ますます幕府に対して「ふざけんじゃねえコンニャロクソヤロー!」ってなりますよね。こうして、大老の井伊直弼は暗殺されてしまいました(1860桜田門外の変)

江戸幕府の中心人物が暗殺されるという大事件を受けて、「もう幕府ってマジでダメじゃん」っていう雰囲気が強くなります。

 

日米修好通商条約とは?

 

 

貿易開始による人々の生活が混乱

日本を根っこのところで支えている庶民の生活も、混乱に陥っていました。

 

日米修好通商条約(と、それに類する条約=安政の五カ国条約)に基づいて欧米諸国との貿易がスタートしたことによって、国内産業(絹織物業、綿作、綿織物業)が打撃を受けたり、物価が上昇したりしたのです。

 

こうして、条約を結んだ(しかも天皇のOKなく結んだ)幕府に対して、庶民もイライラムッキー!って感じになってきました。

 

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