本記事では、天保の改革について説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
天保の改革についてわかりやすく
天保の改革とは?
まず天保の改革って何なのか?というと、
天保の改革
=将軍を退いた後も大御所として権力を握っていた徳川家斉が1841年に亡くなったのを機に、老中の水野忠邦が12代将軍徳川家慶のもとで行った改革
です。1841年から1843年にかけて行われました。
天保の改革の背景
この天保の改革は、日本が直面していた「国内の混乱」と「外国からの脅威」という危機に対応するために行われました。
具体的に言うと、
「国内の混乱」は、
- (江戸幕府は農民の生活を安定させたいけど、)農民が豊かな農民と貧しい農民とに階層分化してしまって、江戸幕府の支配を支えている農村がぐちゃぐちゃになりかけていたこと
- 貧しい農民が村を離れて都市に流入し、都市の治安が悪くなってしまったこと
- 1833年頃から天保の飢饉が起こって農村や都市で餓死者がたくさん生じて、百姓一揆や打ちこわしが頻発したこと
- 1837年に大塩の乱が起こったこと
などなどです。
「外国からの脅威」は、
- ロシアの船やイギリスの船、アメリカの船が日本に来航して「鎖国」体制が崩れそうなっていたこと
- イギリスがお隣の中国(清)に対して1840年から戦争(アヘン戦争)を仕掛けたこと
です。
これらの「国内の混乱」と「外国からの脅威」のことをまとめて「内憂外患」と言います。
くわしくはこちらの記事で説明したので、よければチェックお願いします!
このような本格的な内憂外患に対応するために、老中の水野忠邦のもとで天保の改革が行われました。
天保の改革の内容
ここからは天保の改革の具体的な内容について話をします!
先に「外国からの脅威」への対処についてです!
外患への対処
清がアヘン戦争でイギリスに負けて、香港を割譲し、開国させられたというニュースを聞いて、江戸幕府は
- 戦争が起きるリスクを下げる
- 防衛体制を強化する
という2つの方向性で政策を実施しました。
(1)戦争が起きるリスクを下げる
1842年:異国船打払令を緩和して、漂着した外国船に燃料・食糧を与えることにした(天保の薪水給与令)。
外国船を攻撃して追い払うんじゃなくて、与えるものは与えてムダに刺激せずにお帰りいただこう!っていう政策です。
(2)防衛体制を強化する
印旛沼掘割工事(実現せず)
※欧米船によって江戸湾が封鎖された場合に備えて、太平洋と連結するルート(緊急補給路)を確保しようとした。
内憂への対処
次に「国内の混乱」への対処についてです!
- 秩序の回復
- 貧民対策
の2つに分けて話をします。
(1)秩序の回復
- ぜいたくな生活や派手な生活を取り締まった。
- 歌舞伎に対して締め付けを行ったり、ミダラナコトを禁止したりした(※くわしくは自分でWikipediaを見て調べてください!)。
人々の気持ちに働きかけることで、雰囲気をピリッとさせようとした感じでしょうか。
(2)貧民対策
- 江戸に移動してきた貧しい人々を農村に帰そうとした(人返しの法)。
- 物価上昇を抑えるために、株仲間の解散をして自由に商売をさせようとした(株仲間解散令)。
2つ目の株仲間解散についてくわしく説明をします!
株仲間とは?
株仲間っていうのは、「商人や職人(商工業者)が同業者で作ったグループで、幕府から公認されたもの」を言います。
例えば下駄を作って売っている職人が何人かいたとします。彼らが一人一人自由に商売をすると(自分で販売戦略を考えて下駄を売ろうとすると)、お客さんを奪い合ったり値段を下げたりしなきゃいけなくて消耗する可能性がありますよね。
そこで、下駄を作っている職人たちは「同じ商売をしている人たちでグループを作ろう!」って考えました。「みんなで集まって下駄の価格や一人一人の販売地域などを約束しあえば、お互いに競争しなくて済むから楽だよね!安定するよね!」って考えたわけです。こうしてできたグループのことを仲間と言います。
どうやら、この下駄グループに入っていない人は「下駄の商売をしたい!」って思っても下駄の商売ができなかったようです(このグループが営業の独占をしているってことです)。
ちなみに戦国時代で出てくる楽市・楽座っていう制度は、このような同業者のグループを作ってルールを約束し合うことを禁止した制度です。「みんな一人一人自由に商売してくれ!」ってことです。
んで、江戸幕府も楽市・楽座を引き継いで、商人や職人たちに自由な商売をするように求めていたんですけど、彼らはひそかに同業者のグループを作っていたみたいです。
江戸幕府はそれを黙認していたのですが、やがて「仲間を公認してあげるからその代わりに税金を納めてね」ってことで、独占的に営業を行うグループを作ることを公認するようになりました。
これが株仲間です。
水野忠邦は「江戸でモノの値段が上がると、貧しい人々が暴動を起こしやすくなるかも…それは困る!」って考えたんだと思います。
で、江戸で物価が上昇していることの理由を、「株仲間が商品の流通を独占しているからだ!」って判断しました。ってことで、株仲間の解散を命じたわけです。
ところが、実際には各地の地域市場が成長して、江戸や大坂に届く商品の量が減っていたことが物価上昇の原因だったみたいです。別に株仲間が商品の流通を独占していたことが物価上昇の原因じゃなかったっぽいってことです。
なので、結局のところ水野忠邦が行なった株仲間の解散は大混乱を招くだけで、逆効果になってしまったようです。
内憂外患への対処
あと、「国内の混乱」と「外国からの脅威」の両方に対応するための政策について話をします!
大名領や旗本領が入り混じって存在する江戸・大坂周辺の土地を整理して直轄地にしようとした(1843年:上知令)。
※複数の目的があって行われた政策です。
- (a)領地替えの強行によって幕府の権力を立て直そうとした
- (b)生産力の高い地域を直轄地にすることで幕府財政を強化しようとした
- (c)江戸・大坂の防衛体制を強化しようとした
※上知令に対して大名たちが猛反対したので、実施できなかった。
幕府権力の弱体化
以上のように、江戸幕府は天保の改革を行なって危機的な状況に対応しようとしたのですが、なかなか効果はあがらなかったようです。
こうして江戸幕府に対して「もう幕府ダメじゃね?」っていう雰囲気が強くなり、幕府の弱体化にともなって幕府以外の勢力の地位が浮上してくることになりました。
1つ目が朝廷(天皇)です。「幕府じゃなくて、やっぱり日本のトップである天皇こそが日本を引っ張っていくべきだよね!」っていう考えを持つ人が増えてきました。このことが、後々の尊王攘夷運動、倒幕運動につながっていくわけです。
2つ目の勢力が雄藩です。雄藩っていうのは、優秀な人材を起用したりしながら藩の改革を行い(財政の再建と藩権力の強化に成功して)幕末に強い発言力を持つようになった藩のことです。具体的には薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩など。この後の倒幕運動の中心になる藩です。
これらの藩がすごかったのは、江戸時代の社会の変化にうまく対応した動きをとったことです。
幕藩体制のベースにあるのは確かにお米の生産ですが、農業の生産性が向上した結果、お米がたくさんとれるようになってお米の値段が下がってしまったので、稲作はそこまで儲からない産業になっていたわけです。
一方で、モノの売買に関する仕事(商業)の重要性が大きくなってきていました。つまり、産業ごとの重みがすでに江戸時代初期とは大きく違っていたんです。
で、先見の明がある藩は「モノの売買(商業)に焦点を当てた政策をすればいいのでは?」ってことに気づきました。そこで行ったのが専売制などの政策です。
お米をたくさん作る!という形で財政を豊かにするのではなく(←っていうかお米をたくさん作っても財政は豊かにならない)、モノの売買(商業)を独占することで利益を得ようとしたわけです。
こうして、先見の明があった藩の財政は強化されていって「雄藩」になり、倒幕運動を行う体力をつけることができたのです。
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