江戸幕府がいろいろと限界をむかえた文化・文政時代(大御所時代)について説明をします!
本記事の内容
- 内憂外患と文化文政時代
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
内憂外患と文化文政時代
①文化文政時代(大御所時代)とは?
文化・文政時代(大御所時代)は、11代将軍の徳川家斉が将軍在職中に、もしくは将軍を辞めた後に、力を握っていた時代のことを言います。
寛政の改革の後の流れをざっくりまとめます!↓
【文化年間: 1804〜18年】
松平定信を辞めさせた11代将軍徳川家斉が率いる江戸幕府では、実はまだ松平定信派のメンバー(老中)が残っていたので、松平定信が力を失った後も寛政の改革の政策が引き続き行われることにはなりました。
↓
【文政年間: 1818〜30年】
しかし、松平定信の政策を引き継いできたメンバーが1817年に死去したり辞職したりしたので、1818年からは政策の内容がガラッと変わることになって、幕府の政治は乱れていきます。
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【大御所政治:1837〜41年】
1837年には11代将軍徳川家斉が自分の子供の家慶に将軍職を譲りましたが、家斉はその後も大御所(将軍職を退いた前将軍のこと)として、1841年に69歳で死ぬまで幕府の実権を握り続けました。
この約50年間、徳川家斉が権力を握り続けていた時代のことを文化・文政時代と呼びます(もしくは、わずか4年とはいえ大御所として実権を握っていたことから、まとめて大御所時代と呼ぶ)。
1841年に徳川家斉が亡くなったのを機に、その後、12代将軍徳川家慶のもとで幕政改革が行われました。それが老中の水野忠邦による天保の改革です。
②江戸幕府は内憂外患に直面した
江戸幕府はこの時期に「国内の混乱」と「外国からの脅威」という危機に直面しました。
「国内の混乱」と「外国からの脅威」のことをまとめて「内憂外患」と言います。
- 内憂=国内問題
- 外患=対外問題
まず内憂外患の「外患」の方から話をすると、、、
外患
この時期、外国の船が日本に来航するようになりました。
(例)
- 1792年:ロシア使節ラクスマンが根室に来航(漂流民を届ける&通商を求める)
- 1804年:ロシア使節レザノフが長崎に来航(通商を求める)
- 1808年:イギリス軍艦フェートン号が長崎に侵入(オランダ船のフリをして侵入)
- 1837年:アメリカ商船モリソン号が浦賀に接近
★外国の船が日本に来航するようになった理由
欧米の国々が「外国と商売して利益をゲットすることの重要性」や「北太平洋で捕鯨をすることのメリット」、「外国の領土をゲットして自国の領土を拡大することの重要性」を強く認識するようになっていたからです。
★外国の船が日本に来航することの問題
江戸幕府のいわゆる「鎖国」が崩れるかも!という意味で問題でした。
いわゆる「鎖国」っていうのは、江戸幕府が外国とどのように付き合っていくか?に関する方針のことで、江戸幕府は外国との関係を中国・オランダ・朝鮮・琉球に限る方針をとっていました(※外国との関係を完全に絶っていたわけではない)。だから、ロシアやイギリス、アメリカの船が日本に来航するのは都合が悪かったわけです。
あと、文化・文政時代(大御所時代)が終わる直前の話になってしまいますが、1840年からイギリスがお隣の中国(清)に対して戦争(アヘン戦争)を仕掛けました。この大事件に対して、「マジかよやべえ!」って幕府もビビりました。
このように、江戸幕府も「外国からの脅威」をモロに感じることになったわけです。これが「外患」です。
内憂
次は「国内の混乱」に関して、
- 江戸幕府は農民の生活を安定させたい!
- でも農民の階層分化が進んでしまった
- 関東で治安が悪化した
- 天保の飢饉と大塩の乱が起きた
という順番で話をします!
★江戸幕府は農民の生活を安定させたい!
そもそも江戸時代の幕藩体制は農業生産の上に成り立っていました。
幕府・藩にとっての重要なミッションは、「村で小規模な農業経営をする農民(百姓)をできるだけ安定させて、彼らから年貢を確実に取る!」です。
だから、村の中で農民同士の間に大きな経済的格差がある必要はないわけです。格差があると、どうしても嫉妬とかが生じて、幕藩体制を支える村の中に対立が生じる可能性が高くなってしまうからです。
支配身分である武士からしてみれば、農民たちは格差なく・こじんまりと農業してくれていればそれで良い!ってことです。
★でも農民の階層分化が進んでしまった
しかし、時が流れるにつれて、だんだんと村の中に(農民同士の間に)経済的な格差が生まれてしまうことになりました。
格差が生まれた大きな理由の一つが、農業が発展して商品作物の栽培が積極的に行われるようになったことです。
というのも、商品作物の栽培を行うためには、農家がお金を出して購入する肥料である金肥(干鰯など)を手に入れるなどの先行投資が必要だったからです。
肥料を買うためのお金を確保するために、土地を担保にしてお金を借りたりすることもあったようです。
このように、商品作物の栽培を行うためには、収穫物をゲットするよりも前にリスクを負う必要があったんです。
でも、リスクを負ったからと言って(土地を担保にしてお金を借りたり、金肥を買ったりしたとしても)、うまく作物が育つかどうかはわかりません。
うまく作物が育ってくれれば先行投資した分を取り戻すことができますが、もしその年の気候が悪かったりして作物が思ったように採れなかった場合は大打撃を受けてしまうわけです。
こうして、商品作物の栽培に成功してウハウハになった農民と、気候が悪かったりそもそも栽培するのが下手だったりして栽培に失敗してしまう農民とに分かれました。失敗してお金を返せなくなってしまった農民は、担保にした土地を手渡さなきゃいけなくなるわけです。
んで、豊かな農民は、失敗した農民の土地をゲットして広い土地を持つ地主になることができました。このような有力な農民のことを豪農と言います。
一方で、事業に失敗して貧しくなった農民は、自分の土地を手放して、
- 小作人(地主から土地の使用権を得て農作業をする→地主に小作料を払う)に転落したり、
- どこかの家で住み込みで働いたり(年季奉公)、
- 日雇いで働いたり(日用稼ぎ)、
- ホームレスになったり(無宿人)、
- ギャンブルで生活費を稼いだり(博徒)
するようになりました。
農業って種を植えてから収穫までの時間がかなり長いので、本当に貧しくなって生活が立ち行かなくなったら農業なんていう悠長なことをやっている余裕は無くなるわけです。
★関東で治安が悪化した
貧しくなった農民は村を離れて都市に移動したりしました。そして彼らが手放した土地の中には、どうやらそのまま放置されてしまう土地もあったようです。
そうするとその土地は荒れ果ててしまいますよね。こうして、日本各地で荒廃地域が生じることになりました。
特に、江戸を取り巻く関東の農村では、ホームレス(無宿人)やギャンブラー(博徒)が増えて治安が悪化していたようです。
★天保の飢饉と大塩の乱が起きた
このような状況で、1833年から大凶作になってしまい、ものすごい食糧不足になるという大事件が起きます(天保の飢饉)。
その結果、貧しい農民を中心に百姓一揆や豪農への打ちこわしが頻発しました。
特に大坂では、1837年に大塩の乱と呼ばれる衝撃的な事件が起きました。大塩平八郎っていう人が中心になって、「貧しい人々を救えコノヤロウ!」って武力で訴えたんです。
大塩の乱の何が衝撃的だったかというと、「幕府への反抗が起きた場所」と「大塩平八郎の過去」が特徴的だったからです。
- 大坂という幕府にとって重要な場所で幕府への反抗が起きた(大坂は直轄都市でした)
- 大塩平八郎はもともと幕府の元役人だった(大坂町奉行所の元与力でした)
③内憂外患への対処
ここまで説明したように、江戸時代末期に、江戸幕府は「外国からの脅威」と「国内の混乱」という危機に直面することになりました。
大事なのは、江戸幕府のシステム(本百姓体制、「鎖国」)がかなり限界を迎えていた、ということです。
※本百姓体制=「村で小規模な農業経営をする農民(百姓)をできるだけ安定させて、彼らから年貢を確実に取る!」というシステム
※鎖国=キリスト教の禁教と貿易の統制を目的に、日本人の海外渡航と帰国を禁止して、外交・貿易を制限した政策
農民の階層分化が起こり、江戸幕府の支配を支える農村がぐちゃぐちゃになってしまっていたし、
すでに世界は「世界中の国々が海でつながる時代だぜ!」っていう雰囲気になってきていたので、「鎖国」は限界に近かったわけです。
では、これらの内憂外患に対して、江戸幕府はどのように対処したのでしょうか?
外患への対処
一言でいうと、江戸幕府は「鎖国」の維持を目指しました。
(具体的な政策)
・1792年:ロシア使節ラクスマンが根室に来航(漂流民を届ける&通商を求める)
→幕府は江戸湾と蝦夷地の海防の強化を諸藩に命じた
・1804年:ロシア使節レザノフが長崎に来航(通商を求める)
→幕府は「鎖国」を守るために通商要求を拒否した
→ロシア軍艦が蝦夷地を襲撃
→幕府は松前藩と蝦夷地のすべてを直轄にして松前奉行に管理させ、東北諸藩に沿岸警備をさせた
・1808年:イギリス軍艦フェートン号が長崎に侵入(オランダ船のフリをして侵入)
→その後もイギリス船・アメリカ船が日本近海に出没
→幕府は1825年に異国船打払令を出した(「オランダ船・中国船以外の船は撃退せよ!」)
・1837年:アメリカ商船モリソン号が浦賀に接近
→異国船打払令にしたがって砲撃
→幕府の対外政策を批判した人(高野長英・渡辺崋山)を処罰した(1839蛮社の獄)
このように、江戸幕府は「鎖国」の維持を目指しました。
内憂への対処
江戸幕府は国内問題に対して対処はしましたが、根本的に解決するところまではできませんでした。
(関東での治安悪化に対する具体的な政策)
・1805年:関東取締出役という組織を新しく作って、関東地域にいる無宿人や博徒の逮捕・取り締まりを行った。
※関東では幕府が管轄している地域とそうでない地域がバラバラに入り組んだ状態で存在していたので、警察活動をするのが大変だった(千葉県警が東京都で活動しにくいのをイメージすればOK)。そこで、幕領・私領の区別なく巡回できる組織を作った。
・1827年:関東取締出役の補助組織として寄場組合を作った。
※領主の違いを超えて近隣の村々がまとまって地域の治安維持や風俗の取り締まりを行う。
これらの政策によって関東の治安は回復したようですが、、、これってそもそもの根本的な原因である「農民の間に大きな経済的格差が生じていた」「貧しくなった農民が土地を手放したことで、荒れた地域が増えた」ことを解決してはいないですよね。
治安が悪くなるのにはなにか根本的な原因があるはずで、その原因にアプローチしない限り根本解決はしないわけです。
江戸幕府は国内問題の根本的な解決はできなかった…!、と言えると思います。
まとめ
以上です!まとめると、
寛政の改革が挫折した後、11代将軍の徳川家斉が力を握っていた時代に、江戸幕府は「国内の混乱」と「外国からの脅威」という危機に直面しました。
「国内の混乱」に対して、江戸幕府は対処をしたけど根本的な解決はできず、
「外国からの脅威」に対して、江戸幕府は「鎖国」の維持を目指しました。
そして1841年に徳川家斉が亡くなった後、いよいよ天保の改革が行われることになります。天保の改革については次の記事で説明しています!
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