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田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説【日本史39】

 

本記事では、田沼意次の政治(田沼政治)について説明をします!

 

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望岡 慶
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田沼意次の政治(田沼政治)についてわかりやすく

 

田沼意次って聞くと、ワイロっていうイメージが強くて「悪いことをした人だ」って思うかもしれませんが(僕も中学生の時はそう思っていましたが)実はかなりすごい人だったんだよっていう話をしたいと思います。

 

4つに分けて話をします。

  1. 田沼政治とは?
  2. なぜ田沼政治が行われたのか?
  3. 田沼政治の内容
  4. 田沼政治の終わり

 

では、まず①田沼政治とは?からです。

 

 

田沼政治(田沼時代)とは?

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

10代将軍徳川家治(いえはる)のもとで側用人(将軍と老中の間を取り次ぐ役職)を務め、のちに老中にも就いた田沼意次が幕府の政治をリードした時期のことを田沼時代と呼びます(その政治を田沼政治と言う)

 

 

この時期、幕府財政が再び行き詰まり始めていたのですが、

 

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

田沼意次は、単に「支出を減らして収入を増やす」のではなく、経済を発展させることによって財政再建をしようとしました。このような方法(重商主義政策)は当時はあまり行われていなかったので、周りからはなかなか理解してもらえなかったっぽいです。

 

 

なぜ田沼政治が行われたのか?

じゃあ、なぜ田沼意次は経済を発展させることによって財政再建をしようと考えたのでしょうか?(=重商主義政策を取ろうと思ったのか?)

 

理由は大きく2つ。

  • (1)百姓一揆が増加して、年貢を増やす政策が限界に達していた
  • (2)地域市場が成長し、流通も発達していた

 

(1)百姓一揆が増加して、年貢を増やす政策が限界に達していた

 

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説 【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

享保の改革で年貢を増やす政策を行なった結果、村の百姓への負担は増えたので、その地域のリーダー(領主)に対して百姓がみんなで「年貢を減らしてくれ!」などと訴えることが増えました。これを百姓一揆と言います。

そうなると、もうこれ以上村に負担をかけて年貢を増やすことは難しくなりますよね。これ以上負担をかけてしまうと、江戸幕府にとって超重要な存在である農民が生活できなくなってしまうかもしれません本百姓体制が崩壊するかもしれません)

 

※このあたりの「江戸幕府と農民の関係」については、農民統制のところで説明しました。

 

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

そこで、田沼意次は年貢だけに頼らない幕府財政のしくみを作ろうとしたのです。

 

(2)地域市場が成長し、流通も発達していた

 

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

享保の改革の頃から、村で商品作物の生産が活発になって、地域経済(地域市場)が成長していました。

また、百姓身分だけど商業を積極的に行う人(在郷商人)が現れたり、新しい廻船業者(北前船、内海船)が現れたりして、地域市場どうしを結ぶ流通も発達していました。

 

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

このように、「成長した地域市場と、発達した流通」という土壌があったので、田沼意次は経済をさらに発展させることによって財政再建をしようとしたのです。

 

 

田沼政治の内容

では、田沼意次は具体的にどんな政策を行なったのでしょうか?

3つに分けて説明します。

 

 

(1)民間の経済活動をさらに活発化させる政策

 

民間の経済活動をさらに活発化させる政策として、南鐐二朱銀という新たな貨幣を発行しました

 

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

江戸時代の貨幣制度は、金貨・銀貨・銭貨という3種類の貨幣で構成されていました(三貨制度)

んで、それぞれ特徴がありました。

金貨
  • 計数貨幣
  • 高額の取引に用いられる
  • 江戸などの東国で流通(江戸の金遣い)
銀貨
  • 秤量貨幣
  • 高額の取引に用いられる
  • 大坂など西国と北陸で流通(上方の銀遣い)
銭貨
  • 計数貨幣
  • 少額の取引に用いられる
  • 全国で流通

※計数貨幣=貨幣の個数(枚数)で価値を表す貨幣。今の日本の貨幣はこれ。

※秤量貨幣=貨幣の重量で価値を表す貨幣。

 

このように、地域によって流通している貨幣が違ったわけです(江戸の金遣い・上方の銀遣い)

 

なので、貨幣の交換を行う両替商という職業が発達しました。

 

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

例えば江戸の人が大坂の人からたこ焼きを大量に買うとします。江戸では金貨が流通しているので、金貨で買いたいんですけど、大坂では銀貨が流通しているので、大坂のたこ焼き屋さんは銀貨で払ってほしい

 

そこで、金貨を銀貨に交換する必要が生じるわけですが、簡単には交換できないんです。交換比率は時々の相場に応じて常に変動していましたし、金貨は枚数を数えればいいのに対して銀貨は重さを計らなきゃいけないので。

 

ってことで、両替商の出番です。両替商は天秤を使ったりしながら、その時の相場に応じて金貨と銀貨を交換するんです。

 

まあ現代で日本円をアメリカドルに交換する時も、両替をしますよね。それと同じです(現代は計数貨幣が使われているので、重さまでは計りませんが)

 

でも、この両替って結構面倒ですよね。

実際、地域市場どうしの流通が広がるなかで、「地域によって流通している貨幣が違う」ということが経済発展の障害となってしまったみたいなんです。

地域ごとに使っているお金が違っても、そんなに取引が行われないなら気にならないかもしれませんが、経済が発展してたくさん取引が行われるようになったら「面倒だなあ」って感じるようになりますもんね。

 

そこで、田沼意次は民間の経済活動をさらに活発化させる政策として、南鐐二朱銀という新たな貨幣を発行したんです。

 

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

この南鐐二朱銀は、8枚で金貨の小判1枚(1両)と交換できたんです。

つまり、南鐐二朱銀は金貨の単位で通用する銀貨でした(初めての「計数貨幣である銀貨」)

このようにして、貨幣制度を統合して市場を統一しようとしたのが田沼意次でした。すごい!

 

 

(2)年貢だけに頼らない幕府財政のしくみを作ろうとした

 

年貢を増やす政策が限界に達していたので、年貢だけに頼らない幕府財政のしくみを作るためにいくつかの政策を行いました。

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

1つ目が、「株仲間を広く公認し、営業の独占を認める代わりに税金(営業税:運上、冥加)を納めさせる」という政策です。

 

株仲間とは?

 

株仲間っていうのは、「商人や職人(商工業者)が同業者で作ったグループで、幕府から公認されたもの」を言います。

 

【日本史39】田沼意次の政治について東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

例えば下駄を作って売っている職人が何人かいたとします。彼らが一人一人自由に商売をすると(自分で販売戦略を考えて下駄を売ろうとすると)、お客さんを奪い合ったり値段を下げたりしなきゃいけなくて消耗する可能性がありますよね。

 

そこで、下駄を作っている職人たちは「同じ商売をしている人たちでグループを作ろう!」って考えました。「みんなで集まって下駄の価格や一人一人の販売地域などを約束しあえば、お互いに競争しなくて済むから楽だよね!安定するよね!」って考えたわけです。こうしてできたグループのことを仲間と言います。

 

どうやら、この下駄グループに入っていない人は「下駄の商売をしたい!」って思っても下駄の商売ができなかったようです(このグループが営業の独占をしているってことです)

 

ちなみに戦国時代で出てくる楽市・楽座っていう制度は、このような同業者のグループを作ってルールを約束し合うことを禁止した制度です。「みんな一人一人自由に商売してくれ!」ってことです。

豊臣秀吉の政策について

 

んで、江戸幕府も楽市・楽座を引き継いで、商人や職人たちに自由な商売をするように求めていたんですけど、彼らはひそかに同業者のグループを作っていたみたいです。

 

江戸幕府はそれを黙認していたのですが、ある時に「あれ?これって『仲間を公認してあげるからその代わりに税金を納めろや!』って言えば、幕府の収入が増えるんじゃね?」って気づいたんです。こうしてできたのが株仲間です。

※株仲間が納めた税金のことを運上(うんじょう)と冥加(みょうが)と言います。

 

民間の経済活動からお金を引っ張ってこようとした…ってのが、田沼意次のもとで行われた株仲間の公認です。

 

2つ目が、「銅の専売制の実施」という政策です。銅の生産・流通・販売を幕府が管理して、そこから発生する利益を独占するという制度を作ったんです。銅の専売制には、輸出用の銅を安定的に確保するという目的もあったようです。

 

3つ目が、「長崎貿易を積極的に推進して、銅や俵物を輸出し、中国やオランダから銀を輸入する」という政策です。

 

6代・7代将軍の時代に発言力をもった新井白石っていう人は、銀の国外流出を防ぐために長崎貿易を制限しようとしていたんですけど、田沼意次はむしろ長崎貿易を積極的に推進しようとしたわけです。

 

ただ、普通に推進するだけだと支払いに使っていた銀が流出してしまいますよね。そこで、銀の代わりに、銅や俵物(干しアワビ・フカヒレなどの海産物)を輸出しようとしたのです。

 

※俵者=中国料理の材料であるいりこ・ほしあわび・ふかのひれを俵に詰めたもの(←俵に詰めて輸出したので)。

 

で、それを実現するために、銅を専売制にして輸出用の銅を安定的に確保することを目指し、俵物の生産を推進して独占的に集める仕組みを整えました。

 

田沼意次、やっぱりすごいですよね。

 

 

(3)その他の政策

 

田沼意次が行おうとしたその他の政策について軽く説明します。

1つ目が、蝦夷地探検です。

 

工藤平助って人がロシアとの貿易や蝦夷地(今でいう北海道)の開発について書いた『赤蝦夷風説考』っていう本をきっかけに、田沼意次は「ロシアと貿易できないかな?」とか「蝦夷地を開発できないかな?」って妄想しました。

で、最上徳内っていう人を蝦夷地に派遣して、蝦夷地の探検をさせたんです。

 

ですが、実現性が乏しいってことと、田沼意次が失脚した(権力を失った)ことによって、中止になりました。

 

2つ目が、印旛沼と手賀沼の干拓です。

 

今でいう千葉県に印旛沼と手賀沼(どちらも利根川水系)っていう大きな湖があるんですけど、これを干拓(水を抜き取って陸地にすること)して、新田開発をしようとしたんです。そうすれば農業に使える土地が拡大しますからね。

 

でも、この印旛沼と手賀沼の干拓工事はすごく難しかったようで、うまくいきませんでした。(っていうか、うまくいってたら印旛沼と手賀沼は今なくなっているはず)

 

 

 

田沼政治の終わり

最後に、ここまで説明した田沼意次の政治がどのように終わったのか?について説明します。

 

まず、よく言われる賄賂(ワイロ)について。

 

田沼意次が株仲間を積極的に公認し営業の独占を認める政策を行なったことにより、賄賂がより行われるようになったのは間違いないようです。

業者が「お金を払ったりしますから、株仲間として公認してくださいよ〜」って感じで幕府の役人に近づいたり、幕府の役人が「株仲間として公認してあげるから、、、わかってるよね?」って感じで業者と近づいたりして、業者と幕府の役人がより癒着することになったみたいです。

このことは、幕府への批判を高めることになりました。

 

 

また、経済がますます発展したことによって、農民の中で階層分化がより起こるようになりました。うまくいってものすごく豊かになる人と、失敗して貧しくなる人とに分かれていったということです。

 

そんな中で、1780年代、冷害に浅間山の噴火などが重なって農作物が十分に取れなくなる飢饉が起こってしまいました(天明の飢饉)

その結果、食糧危機・米価の急上昇が起きて、百姓一揆や打ちこわしが全国でたくさん起こるようになって、田沼政治への不満がますます高まることになりました。1784年に田沼意次の子が殺害されたんですけど、殺害した佐野政言って人が「世直し大明神」ってもてはやされたくらいです。

※1787年には江戸で大規模な打ちこわしが起きた(天明の打ちこわし)

 

こうして、田沼意次は完全に失脚することになってしまいました。

農民の階層分化が大きな問題となってきていた…ということで、このあとの寛政の改革へとつながっていきます。

 

 

まとめ

・10代将軍徳川家治(いえはる)のもとで側用人を務め、のちに老中にも就いた田沼意次が幕府の政治をリードした時期のことを田沼時代と呼ぶ。

 

(1)百姓一揆が増加して、年貢を増やす政策が限界に達していた

(2)地域市場が成長し、流通も発達していた

ので、田沼意次は、単に「支出を減らして収入を増やす」のではなく、経済を発展させることによって財政再建をしようとした。

 

・民間の経済活動をさらに活発化させる政策として、南暸二朱銀という新たな貨幣を発行した。

・年貢だけに頼らない幕府財政のしくみを作る政策として、株仲間の公認、銅の専売制の実施、長崎貿易の推進などの政策を行なった。

・賄賂がより行われるようになったことで幕府の政策への批判が高まったり、天明の飢饉が起きたりしたことによって、田沼意次は失脚することになった。

 

望岡 慶
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