日本史

冷戦の展開(緊張緩和と日本外交)【日本の歴史】

 

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望岡 慶
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冷戦の展開

冷戦体制の形成

第二次世界対戦後、資本主義の西側陣営と、社会主義の東側陣営との間で、冷戦が激化した。核兵器にもとづく恐怖の均衡から、米ソの全面戦争は回避された。冷戦は、朝鮮戦争のように「熱戦」もまじえつつ、激しくなった。

 

 

緊張緩和・多極化

1953年にソ連のスターリンが死去すると、ソ連は平和共存路線へと転換し、1950年代半ばから東西の緊張が緩和していった。東側では、1956年頃から中ソ対立が表面化した。また、この時期から第三勢力が形成され始めた(多極化)。1955年のアジア・アフリカ会議は、その象徴的な出来事である。

 

 

そうしたなかで、鳩山一郎内閣はアメリカから自立した外交を展開しようとした。その結果、1956年に日ソ共同宣言が調印された。これをうけて、日本の加盟に対して拒否権を発動してきたソ連も加盟賛成にまわり、1956年に国連加盟が実現した。岸信介内閣はアメリカ重視の姿勢を復活させ、その上で日米関係をより対等なものに変えていこうとして、1960年に日米安全保障条約を改定した。

 

 

米ソ核戦争の一歩手前までいった1962年のキューバ危機後、緊張緩和と多極化が本格化した。1960~70年代はアメリカとソ連に陰りが見えてきた時期だった。アメリカは、ベトナム戦争での巨額の戦費や、日本・西ドイツの成長により、国際的地位を低下させた。貿易赤字や財政赤字も深刻化した。一方、ソ連は計画経済のもとで、経済が停滞していた。このような中で起きた1973年の石油危機後の世界同時不況は、主要国同士の協力の必要性を高め、1975年から先進国首脳会議(サミット)が開催されることになった。第三勢力として、イスラム原理主義も力を伸ばした。1979年にはイラン革命が起こり、イランは反米となった。

 

 

新冷戦

緊張緩和は、1979年にソ連のアフガニスタン侵攻により終わり、「新冷戦」の時代になった。新冷戦による軍事費の増大はアメリカとソ連の経済に危機をもたらした。

 

 

冷戦の終結

ソ連では1985年にゴルバチョフがトップになると、米ソ関係の改善とソ連の立て直しを進めた。しかし、ソ連の立て直しは成功しなかった。

このような中で、1989年に東ヨーロッパで次々と社会主義政権が倒れ、1990年に東西ドイツが統一された。この勢いはソ連にも及び、1991年、ソ連が解体した。こうして冷戦は終結したものの、かえって世界各地で地域紛争が深刻となった。

 

望岡 慶
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