律令国家の成立(大化の改新・白村江の戦い・壬申の乱)について説明をします!
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僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
律令国家の成立(大化の改新・白村江の戦い・壬申の乱)
今回話をする時代は、飛鳥時代です。
飛鳥時代のキーワードは「国際的緊張のなか、天皇中心の国づくりを目指した」です。
で、今回の話のゴールは「天皇中心の国ができたよ」っていうところなんですけど、
天皇中心の国ができる前と、天皇中心の国ができた後で、どんな違いがあるのか?についてざっくり説明します。
天皇中心の国ができる前は、豪族っていう各地のリーダーたちが、自分の国(その中にいる人々)を支配していました。
そういう国が日本各地にたくさんある状況です。
で、これらの国が手をつなぎあって連合体を作っていました。
この連合体がヤマト政権です。
国っていう言葉がたくさん出てきて混乱しがちですが、「国がまとまって、1つの大きな国になっている」っていうことです。
で、大王(のちに天皇って呼ばれるようになる)っていう、ヤマト政権の中のボス的な存在はいたんですけど、あくまで各地の豪族が自分の国を支配している状況だったわけです。
これが天皇中心の国ができる前の状況。
一方、天皇中心の国ができた後はこんな感じです。
天皇がいる都から役人を地方に派遣して、その役人が各地のリーダーである豪族を指揮することで、日本全体を支配していました。
日本各地に国があるにはあるんですけど、その中にいる人々を支配しているのは天皇ってことです。
これが、天皇中心の国ができる前と、天皇中心の国ができた後のざっくりとした違いです。
じゃあ、この変化がどうやって起きたのか?っていうのが気になりますよね。
っていうことで、今回は天皇中心の国がどうやってできたのか?っていう話をします。
「3段階のステップを踏んで変化した」って捉えればOKです。
- 唐が成立して、緊張感が高まった
- 戦争に負けて、緊張感が高まった
- 壬申の乱で、天武天皇が権力をにぎった
それぞれ説明します。
唐が成立して、緊張感が高まった(→大化の改新)
中国で隋っていう国が滅んで、新たに唐っていう国が誕生しました。
で、その唐はすばらしい支配システムを持っていて、さらに高句麗に軍隊を送ったりしていたんです。
日本(ヤマト政権)からすると「唐っていう国はやばい強いぞ」って感じだったんですね。
というわけで、緊張感が高まって、日本は強い国を作る必要にせまられたんですよね。
ただ、2つの問題点がありました。
- 1つ目が、蘇我氏っていう豪族が独裁的に政治を行なっていたっていうこと。
- 2つ目が、各地の豪族が自分の国(その中にいる人々)を支配していて、大王の権力がそんなに強くなかったっていうこと。
いざ「他の国と戦争だ」ってなった場合、ボスである大王の権力がそんなに強くない状態のままだとマズいんですよね。
ってことで、まず1つ目の問題を解決するために、中大兄皇子っていう人と中臣鎌足っていう人が一緒になって、独裁をしている蘇我氏をぶっ倒しました。
で、再スタート。
2つ目の問題を解決するために、「公地公民」っていう方針を示したらしいです。
(らしい、っていう表現を使っているのは、この時に本当に方針が示されたのかが怪しいから)
「公地公民」っていうのは、「それまで豪族が支配していた土地と人々を、国家(ボス)が直接支配するよ」っていうことです。
ちなみに、これらの改革を大化の改新っていいます。
ただ、この改革って各地のリーダーである豪族からすると、「オレたちのものを奪わないでくれよ」って感じなので、この第1段階目ですぐにうまくいったわけじゃないです。
ということで、次は第2段階目です。
戦争に負けて、緊張感が高まった(白村江の戦い)
当時、日本は朝鮮半島の中の百済っていう国と仲良くしていたんですけど、その百済が唐と新羅に攻められて滅ぼされてしまいました。
で、百済は「助けてくれ」って日本に助けを求めてきたので、日本は助けに行くわけです。
663年に唐と新羅の連合軍と戦うんです。
この戦いを白村江の戦いといいます。
が、この戦争で日本は大敗北をしました。
で、日本に帰ってくるわけですけど、いつ海の向こうから唐と新羅が攻めてくるかわかんないっていう緊張感を抱くことになったんです。
そこで、日本は強い国家を作る必要にせまられました。
当時、日本では天皇が死んじゃっていて天皇がいなかったので、中大兄皇子っていう人がリーダーシップをとって、強い国を作るための改革を行うことになりました。
日本が行った改革で大事なのは2つです。
1つ目の改革が、防衛体制の整備です。
いつ海の向こうから攻められるかわからないわけですから、防衛体制を整えるんです。
唐や新羅が上陸するとしたら九州のはずなので、九州に大宰府っていう防衛拠点を作りました。
九州っていう防衛の最前線で働いた人たちを防人(さきもり)って言うんですけど、マジでお疲れ様って感じですよね。僕は絶対イヤです。
あと、西日本のいろんなところに山城を作りました。
山の上に城を作ると、ディフェンスしやすいんですよね。
こんな感じで、防衛体制を整備しました。
ちなみに、中大兄皇子は都(自分たちの居場所)をディフェンスに有利な琵琶湖に面した場所(滋賀県)に移して、そこで天智天皇になりました。
ただ、実際には唐の勢力拡大は終わりを迎えていて、日本にとって緊張感は弱まっていたみたいです。
(唐と新羅が高句麗を滅したんだけど、今度は唐と新羅が対立して、新羅が朝鮮半島を統一するようになった)
で、唐と新羅が対立しているから、新羅は倭(日本)と仲良くなったらしい。
2つ目の改革が、「国民一人一人の情報をつかむ」っていうことです。
戸籍っていうのを作ったんです。
戸籍っていうのは、国民の名簿ですね。
学校でも一人一人の情報を管理するために名簿を作るじゃないですか。
あれの国バージョンが戸籍です。
国民一人一人の情報をつかんでおくと、軍隊を作る時に直接作れるので便利なんですよ。
このように、白村江の戦いで負けて緊張感が高まった後、日本では強い国を作るための改革が行われました。
戸籍を作って天皇が国民一人一人の情報をつかめるようになったので、「天皇中心の国」まであともう少しですね。
ただ、やっぱり豪族の存在をなんとかしないことには「天皇中心の国」は完成しません。
ということで、次は第3段階目です。
壬申の乱で、天武天皇が権力をにぎった
671年に天智天皇が死んだことにともなって、次の天皇に誰がなるか?っていう争いが起きました。
天智天皇の子供の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子で対立したんですよね。
この争いを壬申の乱と言います。
で、大海人皇子が勝って、天武天皇が誕生しました。
ここで大事なのは、ゲームチェンジが起きたっていうことです。
大友皇子の周りには、今まで権力を握っていた有力な豪族たちがいたんですけど、
大海人皇子が勝った結果、今まで権力を握っていた有力な豪族たちに気を遣う必要がなくなったんですよね。
一気にガラッと改革ができる状況が整ったんです。
で、天武天皇は一気に「天皇中心の国」を作っていきました。
(1)豪族が人々を管理するの(私民)をやめたり、豪族のランク付けシステムを変えたりして、天皇の権力を強めました。
(2)歴史書をまとめました。
「天皇ってすごいんだぜ」っていうストーリーになるように、まとめたっぽいです。
ちなみに、この頃に「大王」から「天皇」っていう呼び方が使われるようになったようです。
(3)中国の方式をマネした都(藤原京)を作りました。
中国の方式っていうのは、碁盤の目みたいに区画された方式っていうことです。
途中で天武天皇は死んじゃうんですけど、皇后(天皇の妻)が後をついで持統天皇となって、政策を引き継ぎました。
そして持統天皇は新たな戸籍を作って、694年には藤原京に都を移動させました。
こうして、ひとまず「天皇中心の国」ができました。(この後もうちょっと整えることになるけど)
長い長い道のりでした。
「3段階のステップを踏んで変化した」んです。
聖徳太子のころの改革を加えると4段階とも言えますね。
各地のリーダーである豪族が自分の国(その中にいる人々)を支配している状況を変えるのには、100年くらいの時間が必要だったっていうことです。
まとめ
天皇中心の国ができる前は、豪族っていう各地のリーダーたちが、自分の国(その中にいる人々)を支配していた
このあと、3段階のステップを踏んで、日本は天皇中心の国へと変化していった
- 1つ目=「唐が誕生して緊張感が高まった結果、大化の改新が起きた」
- 2つ目=「白村江の戦いに負けた結果、防衛体制を整備し、戸籍をつくった」
- 3つ目=「壬申の乱の結果、天皇の権力が強まった」
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