九州地方

大宰府政庁跡を実際に見てきました!【2022年3月】

モチオカ(望岡 慶)

2022年3月に福岡県の大宰府政庁跡を見てきました。

その旅行記をブログ記事として残しておきます!

大宰府政庁跡とは

大宰府

日本古代律令国家の外交・軍事の一端を担い、かつ西海道(九州)全体を統括した、当時としては最大の地方官衙(役所)のこと。

大宰府政庁跡

その中枢施設があった場所。

大宰府が整備された頃の歴史的事項

7世紀半ば、日本は朝鮮半島の中の百済っていう国と仲良くしていたが、その百済が唐と新羅に攻められて660年に滅ぼされてしまった。

百済復興を目指す旧百済勢力を支援するために日本は大軍を派遣。663年に唐と新羅の連合軍と戦った(白村江の戦い)。

この戦争で日本は大敗北(→新羅が朝鮮半島の支配権を確立し、676年に朝鮮半島を統一)。

敗戦を受け、日本は「いつ海の向こうから唐と新羅が攻めてくるかわからない」という緊張感のもと、防衛体制を整えた。

「唐や新羅が上陸するとしたら九州のはず…」

  • 九州に外交・防衛上の拠点として大宰府を整備
  • 大宰府の西北に水城を築造
  • 周囲の山に大野城・基肄城という朝鮮式山城を築造
  • 九州北部の沿岸警備のために防人を配置

太宰府政庁跡の観光をしました!

水城館から歩いて太宰府政庁跡へとやってきました(約25分)。

ここが九州に置かれた外交・防衛上の拠点である大宰府の政庁跡。

こんな感じの施設だったみたいです。

昨日行った太宰府天満宮と比べると、太宰府天満宮には若い女性がたくさんいたのに、こっちには若者が全然いませんでした(笑)明らかに客層が違う感じ。

まあ僕みたいな歴史好きにとっては面白い場所ですけど、ぶっちゃけただの広場で特に何もない場所なので、あんまり面白くないかもです。

奥に見える山が、大野城が築かれた四王寺山(しおうじやま)

大野城も、水城と同じく白村江の戦いの後に造られた防衛施設です。百済の亡命貴族の指揮のもと、朝鮮半島の技術が活かされていることから、朝鮮式山城と呼ばれています。

山を登って大野城にも行ってみたかったのですが、時間的に厳しいので今回の旅ではお預けです。

大宰府展示館

大宰府政庁跡には、大宰府展示館という資料館が併設されています。

太宰府市周辺のジオラマや、発掘されたものなどが展示されていました。(特別面白くはなかった)

太宰府政庁跡に行って考えたこと・疑問に思ったこと

・役所ではどんな仕事が行われていたのだろう…?

・現代の都庁や県庁に比べると、施設は小さい?土地面積は広いけど、建物は低い(高層ビルじゃない)はずなので。今と昔とで作業量(仕事量)が違うってことがなんとなく想像できる。昔から現代まで変わらずにやっている作業が、エッセンシャルな作業なのかも。

・なぜもっと港よりに政庁を造らなかった?港からわりと遠いよね?

→港に近すぎると不都合な点があるのだろうか?港に来た人(海外の人)がすぐに役所に行けちゃうと困る?

→いきなり役所にいる管理職と会えちゃったり…回答に困ることがあった時には時間稼ぎをしたいよね。港に近い鴻臚館で外国の人を接待しておいて、その間に管理職が回答を考える?管理職は窓口から遠いところにいてもらった方がいいのかもしれない(って考えると、いろんな施設で管理職の部屋は奥の方にある気がする)

→じゃあ、京都や江戸はどうだったんだろう?

・ただの広場なので特別面白いわけではないけど、現地に行くと教科書(本)で学んだことをリアルに感じられるし、もっと深く知りたいって思える。

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