この記事では55年体制について説明します!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
55年体制とは
=1955〜93年まで続いた、自由民主党と社会党の二大政党制
自由民主党
- 安定政権を維持できる3分の2弱の議席を確保
- 保守で右翼っぽい
社会党
- 社会党は憲法改正阻止に必要な3分の1強の議席を確保
- 革新で左翼っぽい
「保守・革新」「右翼・左翼」とは?
保守:権力を握っているもの
革新:それを変えようとするもの
右翼:国家主義勢力
左翼:社会主義を正しいとする勢力
保守=右翼っていうわけではない!(革新=左翼っていうわけでもない!)
ただし戦後の場合は、保守が右翼と、革新が左翼にある程度対応していた!
55年体制が成立するまでの流れ
政党の復活・結成
敗戦後、政党が次々と活動を再開した。
日本共産党(1945.10〜)
- GHQの指令で出獄した徳田球一らが中心
日本社会党(1945.11〜)
- 旧無産政党を結合
日本自由党(1945.11〜)
- 旧立憲政友会系
- 翼賛選挙次の被推薦議員が中心
日本進歩党(1945.11〜)
- 旧立憲民政党系
- 翼賛体制期に大日本政治会に属していた議員が中心
日本協同党(1945.12〜)
- 労使協調を掲げる
公職追放指令(1946.1)
GHQは翼賛選挙の推薦議員をすべて失格に
(理由)次の総選挙にかつての戦争協力者が立候補するのを嫌った
※官僚に対する追放は不徹底
- 裁判官:保守人脈が温存された
- 特高警察:公安警察として復帰
戦後初の総選挙(1946.4)
日本自由党が第一党に
→第一次吉田茂内閣
※39名の女性議員が誕生
日本社会党が衆議院第一党に
国民生活の危機により大衆運動が高揚した。
これらの民衆運動の高揚を背景に、1947年4月の衆議院議員選挙・参議院議員選挙で日本社会党が衆議院第一党に。
→日本社会党委員長の片山哲が首相になり、日本社会党・民主党・国民協同党の3党連立内閣が成立。
保守勢力でも急進勢力(共産党勢力)でもない「中道」内閣の誕生を、GHQは評価した。
冷戦が始まる→占領政策を転換
第二次世界対戦後、アメリカを中心とする資本主義の西側陣営と、ソ連を中心とする社会主義の東側陣営との間で、冷戦が激化した。
冷戦はアジアにも及んだ。1948年には北緯38度線で分断された南北朝鮮が成立し、1949年には毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立して、蔣介石は台湾にのがれた。
冷戦が激化すると、アメリカは占領政策を転換し、日本の経済復興を重視するようになった。
(理由)日本を「共産主義の防壁」とし、そのためには資本主義国として成功させることが必要だと考えた。
※GHQも一枚岩ではない
- GHQ民政局「保守政権の復活は嫌!」
- GHQ参謀第2部「左翼系の政権はマズイ!保守政権の復活を!」
占領政策の転換と同時に、1948年10月に芦田均内閣が倒れる(←昭和電工事件)
→第2次吉田茂内閣が成立(民主自由党)
※日本自由党は、民主党の脱党者を吸収して民主自由党になっていた
※なぜ吉田茂内閣が誕生したのか?(山崎首班工作事件)についてはWikipedia参照
※昭和電工事件による収賄疑惑は民政局の中心人物(ケーディス)にも及ぶ
→ケーディスはマッカーサーの命でアメリカ本国に帰国
右翼の復権(左翼への攻撃)
総選挙で民主自由党が絶対多数に(1949.1)
1949年1月の総選挙で民主党が絶対多数の議席を獲得
→保守政権が安定
公職追放の解除(1949〜)
※1952年のサンフランシスコ平和条約発効により、すべての公職追放が解除された(岸信介など)
警察予備隊を新設
南北分裂状態となった朝鮮半島で、1950年6月、北朝鮮が北緯38度線をこえて韓国に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。日本は、国連軍(在日アメリカ軍)の出撃・補給基地となった。
↓
在日アメリカ軍の朝鮮への出動による軍事的空白をうめるために、1950年7月、マッカーサーの指令によって警察予備隊が新設された(「再軍備」)。
共産主義者への弾圧(レッドパージ)
朝鮮戦争の前後に、日本国内でGHQによる共産主義者への弾圧が始まる(レッドパージ)
- 共産党幹部の公職追放
- マスコミ・民間企業・官公庁などから共産党員と支持者が追放された
講和と日米安全保障条約
朝鮮戦争によって、アメリカにとっての日本の戦略的な重要性が高まると、アメリカは、占領への反発をさけつつ、日本を西側陣営の友好国とするために、「寛大な講和」の方針を決意した。
こうして、吉田茂内閣は1951年9月から開催されたサンフランシスコ講和会議に参加し、48カ国とサンフランシスコ平和条約を結んだ。1952年4月28日に条約が発効し、日本は独立を回復、約7年の連合国による日本占領は終了した。
平和条約とともに、日米安全保障条約も結ばれた。これによって、日本にアメリカ軍が残ることが決まった。
独立回復後の国内再編
1952年の独立回復後、GHQという強烈な存在がいなくなった日本国内では、米ソ冷戦を反映して、「保守」対「革新」という対立の構図になっていった。
吉田茂内閣は労働運動や社会運動を抑えるための法整備を進める。
・1952年:血のメーデー事件
→破壊活動防止法(公安調査庁を設置)
・警察組織の中央集権化(自治体警察を廃止し、警察庁指揮下の都道府県警察に一本化)
さらに、1954年にはMSA競艇にもとづき保安隊を自衛隊に改組
吉田内閣に反発する動き
革新勢力は吉田内閣の動きを「逆コース」ととらえ、反対運動を展開(=占領改革の成果の逆を行っている!許せん!)
公職追放にともない、自由党内でも吉田首相に反発する勢力が拡大
造船疑獄事件(1954)
吉田茂内閣批判が強まる
→鳩山一郎ら自由党反吉田派が離党(日本民主党)
→吉田内閣退陣
→鳩山内閣成立(憲法改正と再軍備を主張)
総選挙(1955)→55年体制の成立
1955年2月に総選挙が行われた結果、
社会党は憲法改正阻止に必要な3分の1強の議席を確保し、分裂していた社会党は再統一した。
↓
社会党再統一に危機感をもった保守勢力は、合同して自由民主党を結成した(保守合同)。自由民主党は安定政権を維持できる約3分の2弱の議席を占めていた。
※自由民主党初代総裁:鳩山一郎
こうしてできた自由民主党と社会党の二大政党制を55年体制という。
動画でも解説
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