商場知行制と場所請負制について説明します!
松前藩の事情
商場知行制と場所請負制ってのは、どちらも江戸時代の松前藩で実施された制度です。
これらの制度の内容についてしっかりと理解するためには、松前藩の事情についてわかっておかないといけないので、まずは松前藩の事情についてざっくり説明をします!
松前藩は、蝦夷地(今で言う北海道)の南部にあった藩で、松前氏っていう人が勢力を持っている地域でした。
この松前藩、寒くて米の収穫が期待できない地域です。
ってことで、将軍の徳川家康は松前氏に対して「キミの土地はお米が取れないから、代わりにアイヌと交易する権利を認めてあげるよ!これが御恩ね!」って言うんです。
(→こうして将軍と松前氏との間で主従関係が成立して、松前藩が誕生)
んで、アイヌって何なのか?というと、今で言う北海道にもともと住んでいた先住民族のことです。
当時の北海道はまだ”日本”ってわけではなくて、和人(本州系日本人)が住む北海道の南西部(松前)以外の地域では先住民族のアイヌが住んでいました。
アイヌが住む地域のことは蝦夷地と呼ばれました。
このアイヌっていう”異国の人たち”と交易をする権利を、松前藩は将軍から認められたってことです(御恩として)。
ここまでは松前氏っていう松前藩の藩主(大名)と将軍との間の主従関係に関する話でした。
商場知行制とは
次は松前藩の藩主(大名)と家臣との間の主従関係に関する話です。
将軍から大名に対して御恩が与えられたのと同様に、大名から家臣に対しても御恩が与えられなければいけません。
ってことで、松前藩の藩主は蝦夷地をいくつかのエリアに区画して、上級の家臣に対して御恩としてアイヌとの交易権を与えます。
これが商場知行制です!
商場知行制
=耕地が乏しい松前藩において、藩主が「特定のエリア(商場)内でのアイヌとの交易権」を上級の家臣に対して御恩として与えた制度。
蝦夷地で区画されたエリア=「商場」or「場所」
幕府や藩が家臣に御恩を支給すること=「知行する」
→「松前藩の藩主が家臣に商場を知行した」ということで、「商場知行制」っていう名前になっている!
場所請負制とは
ところが18世紀初め頃から、蝦夷地と”日本”で変化が起き、それにともなって松前藩のシステムも商場知行制から場所請負制という制度へと変わっていきます。
場所請負制
=松前氏やその家臣が「特定のエリアでの漁業の経営」を和人商人に請け負わせた制度。松前氏やその家臣は、和人商人に税(運上金)を納めさせることで利益をゲットする。
※和人=本州系日本人
要するに、武士自身がアイヌと交易をする仕組み(商場知行制)から、商売のプロにアイヌとの交易を任せて税を取る仕組み(場所請負制)へと変わったということです。
じゃあなんでこんな変化が起きたのでしょうか?
(江戸時代での北海道の役割に関わる、超重要な話です!)
商場知行制から場所請負制へと変化した背景
理由を2つ言います!
- 蝦夷地でとれる海産物に対する需要が高まった
- アイヌの立場が低くなった
①蝦夷地でとれる海産物に対する需要が高まった
そもそもなんで蝦夷地のアイヌと交易をするのか?というと、
蝦夷地でとれる海産物が欲しくてたまらなかったからです。特にニシン(鰊)や干しアワビや昆布。
ニシンは、大きな窯で茹でた後にギューっと搾ることで〆粕(しめかす)っていう超高性能な肥料にすることができます。
超高性能な肥料(金肥)は、18世紀頃から盛んになってきた菜種や綿花などの商品作物の栽培に必要でした。
なので、肥料の原料となるニシンが獲れる蝦夷地は、本州にとって超重要な地域だったわけです。
ちなみに、ニシンをもとにした〆粕の生産は、根室や国後などの奥地で盛んに行われていたようです。
※あとテストには出ないどうでもいい雑学ですけど、ニシン漁の時にみんなが歌ったのが、あの超有名なソーラン節です。
また、干しアワビは中国料理の材料として使われる海産物です。
江戸幕府は、長崎で行われた中国商人との貿易において、貴重な金や銀ではなく、海産物を俵に詰めた俵物を輸出しようとしていました。
※俵物=いりこ・干しアワビ・ふかのひれを俵に詰めたもの
なので、金や銀の流出を抑えてくれる俵物の材料(干しアワビ)がとれる蝦夷地は、本州にとって超重要な地域だったわけです。
あとちなみに、アイヌ経由で中国産の絹織物(蝦夷錦)をゲットすることもできたようです。
ってことで、本州系の日本人(和人)にとって、蝦夷地のアイヌとの交易にはメリットありまくり!って感じでした。
なので、本州の和人商人が蝦夷地のアイヌとの交易にこぞって参戦しようとしてきたわけです。
(教科書で「北前船」ってのが太字で出てきますが、これは蝦夷地との交易が盛んになったよ!って言いたいからだと思います!)
んで、アイヌとの交易の規模が拡大してくると、いろんな意味で(=資本的に・技術的に)武士には手が負えなくなってくるんですよね。所詮は武士ですからね。
やっぱり商売のプロに任せた方が良い!ってことになる。
こうして、松前氏やその家臣が「特定のエリアでの漁業の経営」を和人商人っていう商売のプロに請け負わせる場所請負制へと変化していったのです。
②アイヌの立場が低くなった
さらに、和人商人が「特定のエリアでの漁業の経営」を請け負えるようになったのには、アイヌの人々を労働に使うことができるようになった、という理由もあります。
1669年にアイヌの人々が松前氏に反抗するシャクシャインの戦いっていう蜂起が起きたんですけど、鎮圧されちゃったんですよね。
これ以降、アイヌの従属化が進んで、アイヌの立場が低くなってしまいました。
となると、「ニシンや干しアワビをゲットするぞ!」って乗り込んできた和人商人は、単にアイヌの人々と交易をするんじゃなくて、アイヌの人々を労働に使うことができるようになります。
ニシン漁をしたりギューっと搾って〆粕を作ったりするっていう大変な作業を、アイヌの人々にやらせるわけですね。
アイヌとの交換で手に入れるよりも、蝦夷地にくわしいアイヌに実際に労働させた方が、欲しいものを欲しい分だけ手に入れやすくなりますよね。場所請負制は和人商人にとって便利な制度だったわけです。
以上、
- 蝦夷地でとれる海産物に対する需要が高まった
- アイヌの立場が低くなった
という事情が、松前藩のシステムが商場知行制から場所請負制へと変化した背景です。
で、場所請負制への変化の延長線上にクナシリ・メナシの戦いという事件があります。
そしてクナシリ・メナシの戦いへ(1789年)
クナシリ・メナシの戦いはアイヌの最後の抵抗と言われる事件です。
さっき、「ニシンをもとにした〆粕の生産は、根室や国後などの奥地で盛んに行われていた」っていう話をしました。
つまり、根室や国後などでは、アイヌの人たちがこき使われていたんです。
、、、だから「クナシリ」なわけです。
和人がアイヌを酷使するのに抵抗して国後島と知床半島のメナシ(目梨)のアイヌが蜂起した出来事が、クナシリ・メナシの戦いです。場所請負制の延長線上にある事件なんですよね。
そして!
このクナシリ・メナシの戦いは鎮圧されたんですけど、
江戸幕府のメンバーは「和人に反発しているアイヌとロシアが手を組むかも!そしたらヤバイ!」って危機感を抱くようになりました。
そしてクナシリ・メナシの戦いから3年経った1792年に、ロシア人のラクスマンが根室に来航するわけですよ。
「まじでやばーーーーい!」って感じです。
んで、危機感を抱いた江戸幕府はこのあと蝦夷地への介入を強めていきます。
- 1789年:近藤重蔵・最上徳内らに択捉島を探索させる
- 1800年:八王子千人同心100人を蝦夷地に入植させる
- 1802年:東蝦夷地を直轄地とし、アイヌを和人とする
- 1807年:松前藩と蝦夷地をすべて直轄地とし、松前奉行の支配のもとにおく
この後、江戸幕府は外国からの危機と国内の危機の両方に対応しなきゃいけなくなり、滅亡へと向かっていきます。
まとめ:商場知行制と場所請負制の違い
商場知行制
=耕地が乏しい松前藩において、藩主が「特定のエリア(商場)内でのアイヌとの交易権」を上級の家臣に対して御恩として与えた制度。
場所請負制
=松前氏やその家臣が「特定のエリアでの漁業の経営」を和人商人に請け負わせた制度。松前氏やその家臣は、和人商人に税(運上金)を納めさせることで利益をゲットする。
※和人=本州系日本人
商場知行制と場所請負制の違い
- アイヌを労働させたか否か
- 和人商人が進出したか否か
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