本記事では、
- 執権政治
- 承久の乱
- 御成敗式目
について説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
執権政治と承久の乱についてわかりやすく
執権政治と承久の乱について話をします。
今回話をする時代は、鎌倉時代です。
今回の話を聞くと、鎌倉幕府ってどういうものだったのか?っていう本質的な部分がわかると思います。
まず最初に、内容をざっくり言います。
源頼朝が鎌倉幕府を成立させましたが、幕府(武家政権)が全国を支配する時代が訪れたわけではありませんでした。
京都の朝廷は前と変わらず、京都の周辺や西国(西日本)を中心に支配力を持っていました。
そんな鎌倉幕府と朝廷は、お互いに独立しつつも、協力しあうような関係だったのですが、承久の乱っていう戦いをきっかけにして、幕府が優位に立つことになりました。
また、幕府の中では、将軍が自らいろいろ決める体制から、力を持った御家人が15人くらいの集団で政治を行う執権政治へと変化して、執権が政治の最終決定権を持つようになりました。
今回は、この話をくわしくします。
①源頼朝が成立させた鎌倉幕府はこんな感じだった
鎌倉幕府について説明をします。
鎌倉幕府では、将軍であった源頼朝が自らいろいろ決める仕組みで政治を運営していました。
源頼朝って天才的だったらしくて、個人プレーで幕府を成り立たせることができていたみたいなんです。
で、この将軍である源頼朝が、各地の御家人と主従関係を結んで、それで武士をまとめていた。
なんで各地の武士が源頼朝のもとでまとまったかというと、源頼朝が貴族の血を引いていて、天皇の子孫である、というキラキラした存在で、朝廷から征夷大将軍に任命されているからです。
②北条氏が力を握る
ところが、なんと1199年にその源頼朝が死んでしまったんです。
そこで、源頼朝の子供であった源頼家っていう人が将軍になりました。
源頼家は、お父さんと同じように、将軍が自らいろいろ決める仕組みを維持しようとしたみたいです。
でも、周りの御家人は不満でした。
将軍の独裁じゃなくて、御家人中心の政治を求めたんです。
当時、源頼家は10代後半だったので、「この若造が、お前は別になんの取り柄もねえだろ。調子乗んなよ。」みたいな感覚が有力な御家人の中にあったのかもしれません。
で、有力な御家人が10人くらいで集まって政治について話し合うようになりました。
案の定、有力な御家人同士で政治の主導権を求める激しい争いが起きました。
2代目将軍源頼家の次は(3代目は)、源頼朝の子供であり、源頼家の弟である源実朝が将軍につくことになりました。
ここで、北条氏っていう人が力を伸ばしてきます。
北条氏っていうのは、伊豆出身の、むちゃくちゃ家柄が高いわけではない人だったんですけど、力を伸ばします。
源頼朝の妻は、北条政子っていう人だったんです。
つまり、源実朝のお母さんですね。
この北条政子の父である北条時政っていう人が、将軍源実朝との親族関係を背景として、将軍の仕事を代わりに行うようになるんです。
この北条時政の地位のことを執権と呼びます。将軍のサポート役です。
その後、執権は北条時政から子供の北条義時っていう人に引き継がれます。
ただ、執権についた北条氏が幕府で権力を握ったっていうわけじゃありませんでした。
3代目将軍の源実朝は、北条義時とかの有力な御家人の気持ちや考えを汲み取りつつ、自分の判断で政治を行おうとしていたみたいなんです。
しかも、朝廷で院政を行なっていた(権力を握っていた)後鳥羽上皇と、良い感じの関係を築いていた。
ってことで、御家人からすると不満がたまってくるんですね。
こうした中で、1219年、源実朝が暗殺されるという事件が起きました。
マジかよって感じですが、、、でも、ぶっちゃけた話、将軍なんかいなくても幕府は運営できそうなんです。
だって、有力な御家人たちでみんなで話し合っていろいろ決めればいいだけなので。
でも、実際はそうはいかないんです。
このあたりが、鎌倉幕府の将軍って何なのか?に関わる、本質的な部分です。
幕府っていうのは、将軍が作るものです。
そして、各地の御家人は、将軍と主従関係を結ぶことで、まとまっているんです。
将軍がいなきゃダメなんです。
じゃあ、権力を握っていた北条氏が将軍になればいいか、っていうと、そういうわけでもない。
なんで各地の武士が将軍のもとに集まってまとまるかというと、将軍が貴族の血を引いていて、天皇の子孫であるというキラキラした存在だからなんです。
そういうキラキラ存在だからこそ、武家の棟梁として、みんなが認めるわけなんです。
北条氏は、伊豆っていう地方出身の、むちゃくちゃ家柄が高いわけではない人でした。
将軍としてはふさわしくありません。
じゃあ誰が将軍になるか?っていうと、いないんですよ。
実朝の弟とかはいないんです。
超、危機的な状況です。
そこで、北条政子たちの幕府の主要メンバーは、京都(朝廷)から将軍を招こうとしました。
後鳥羽上皇の子供を将軍にしようと思って、後鳥羽上皇に「お願いします」って交渉をした。(天皇家ってキラキラした存在だから、将軍としてふさわしい)
ところが、後鳥羽上皇は拒否します。
で、結局、幕府の主要メンバーは摂関家の藤原氏を連れてきて、将軍にすることにしました。(摂家将軍)
ただ、その将軍は当時2歳でした。
ここに、鎌倉幕府の将軍っていうのがどういう存在なのか?が表れています。
血筋が優れていて、キラキラとした要素、オーラさえ持っていれば、将軍はお飾りで良いってことです。
で、北条政子は2歳の将軍の代わりに、将軍としての役割を実質的に担うようになって、尼将軍って言われるようになりました。
執権である弟の北条義時が、補佐します。
③承久の乱
一方、朝廷の後鳥羽上皇は、幕府と対決して朝廷の勢力を挽回しようとしました。
3代将軍源実朝の時は、良い感じの関係を築けていたので、後鳥羽上皇は実朝を通して幕府をコントロールしようとすることができていたんですけど、実朝が暗殺された結果、それができなくなっちゃいましたからね。
で、後鳥羽上皇は「北条氏を倒せ!」って言って、兵をあげます。
これが1221年に起きた承久の乱です。
ところが、尼将軍の北条政子が「みなの者、よく聞け。あんたたち、源頼朝にお世話になっただろう。」って東国の武士たちに呼びかけて、武士たちをまとめ、幕府と戦って、圧勝しました。
この結果、幕府と朝廷の関係は、幕府の方が優位になります。
京都に六波羅探題っていう朝廷を監視したり京都の警備をしたりする役所を作りました。
また、上皇に味方した貴族や武士の土地を没収して、そこに幕府が新たに地頭を任命しました。
こうして、幕府の力は、京都周辺や西国にも広く及ぶようになったんです。
④御成敗式目
最後に、御成敗式目の話です。
承久の乱に勝利したことで、幕府内での北条氏の地位も確かなものになりました。
1225年に尼将軍北条政子が死ぬと、執権を補佐する連署と評定衆という役職が作られて、執権を中心に15人くらいの集団で政治を行う執権政治が整います。
こうなると、幕府の政治を行う時のルールをはっきりすることが必要になってきます。
また、承久の乱の後、東国の御家人が京都の周辺や西国で新しく地頭に任じられた結果、土地に関する混乱と争いが起きるようにもなりました。
各地で「おいおい、そのやり方は俺たちのやり方とは違うんだよ」みたいな感じで不満が生まれた、っていうことです。
そこで、幕府の執権北条泰時は1232年に御成敗式目というルールを定めました。
これは、武家社会の慣習(道理)と源頼朝以来の先例をもとにして定められた、初めての武家独自の成文法です。(成文法っていうのは、文字によってちゃんと書かれている法のこと)
この御成敗式目の効力は幕府が支配している範囲内に限られてはいましたが、この後、だんだんとその範囲が広がっていくことになります。
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