日本史

日本が韓国併合した理由と韓国併合までの流れ【日本の歴史】

韓国併合までの流れをざっくりまとめました!

日本が韓国併合した理由をざっくり言うと、、、

(日本の意図)

  • 明治新政府は「国境の外側に勢力圏を確保することが必要だ!」という方針を持っていた
  • 明治新政府は朝鮮を日本の勢力圏に組み込むことで、自国を防衛しようとした

(実現できた理由)

  • 日本の軍事力が想像以上に強力だった
  • 日清戦争に勝利して、朝鮮半島に対する中国の影響の排除に成功した
  • 日露戦争に勝利して、朝鮮半島に対して日本が影響力を及ぼせるようになった
  • アメリカ、イギリスのお墨付きをもらえた

(併合まで突き進んでしまった理由)

  • 韓国内での抵抗(義兵運動)が激しかったので、強硬手段に出た?
  • 伊藤博文が暗殺されて、鼻息が荒くなってしまった?

※併合まで突き進んでしまった理由はよくわからんので、自分で考えてみてください!

韓国併合までの流れ

以下、韓国併合までの流れをざっくりと・でもなるべく丁寧に説明します!

明治初期の日本の外交方針

明治新政府は、国境を防衛して独立を守ろうとしていました

もうちょっと雑な言い方をすると、日本という国の内部にまで外国が(いろんな意味で)侵入してこないようにしよう!って考えていたってことです。

じゃあ国境を防衛して独立を守るために具体的にどんな方針を持っていたのか?というと、

明治新政府は「国境の外側に勢力圏を確保することが必要だ!」という方針を持っていたんです。

というのも、国境の外側に日本が勢力を持っている地域があれば安全だから。

外国との間で何かヤバいことがあった時に、まずはその勢力圏を差し出して「これで許してください!日本の内部には入ってこないでください!」って感じの対処をすることができるわけです。

でも明治時代初期の日本は、国境の外に勢力圏を持っているとは言えない状況でした。

関連:明治初期の外交について

朝鮮を勢力圏に組み込もうとする

明治新政府は朝鮮を日本の勢力圏に組み込むことで、自国を防衛しようとしました。

どういうことかというと、、、

日本も「国境の外に勢力圏を持ちたい!」って考えたわけですが、じゃあどこを日本の勢力圏にするか?っていう話になりますよね。

んで、日本の周りを見渡してみると、

  • 東は太平洋だからムリ
  • 北はロシアだからムリ
  • 南は東南アジアだけど欧米諸国が勢力を持っていたからムリ
  • 西は中国だからキツい
  • じゃあ朝鮮半島かな

って感じで、勢力圏になりうる場所は朝鮮半島しかない、という状況だったんです。たぶんこんな感じだったはずです。

ってことで、明治新政府はまず朝鮮に対して「国交を結びましょうよ」っていう交渉をしました。

ところが、当時の朝鮮で権力を握っていた人が「外国ぶっとばせ!」っていう攘夷の方針だったので、なかなか明治新政府の思い通りにはいきませんでした。

武力行使を考えたが、踏みとどまる(征韓論の挫折)

その後、岩倉使節団が海外に行っている間に、日本に残っていた政府のメンバー

「朝鮮がまた拒否しやがったら、もう武力を使っちゃおうぜ」

っていう考え(征韓論)を持つようになりました。

で、この方針でいくことが一度決定されたのですが、、、

岩倉使節団が帰国して、彼らが「征韓論なんて絶対ダメ!」って猛反対したので、征韓論は挫折しました。

→征韓論を否定されたメンバーは政府を離れて、自由民権運動や士族反乱を展開

不平等条約を押し付ける(1876 日朝修好条規)

ところが、1876年に日本は朝鮮に不平等条約を押し付けることに成功しました。

1875年、日本は朝鮮の江華島っていう島の近くに軍艦を送って、空砲をバンバン鳴らしたり測量をしたりするなどの威圧行為を行い、朝鮮を挑発するというトンデモないことをしました。

んで、この挑発により朝鮮が砲撃をしてきたので、「砲撃しやがったな!復讐だ!」ってことでバトルに発展しました(江華島事件)。

この事件をきっかけに、1876年、日本は軍事力を背景に交渉を進めて朝鮮と日朝修好条規を結びました。朝鮮にとって不平等な条約です。

日朝修好条規(1876年)

  • 釜山だけでなく、他に2港を開く(→仁川・元山に決定)
  • 日本の領事裁判権や関税免除を認める

朝鮮はそれまで世界とは限られた関係しか持たなかったんですけど、この条約によって朝鮮は開国することになりました。

日本がペリー来航以降アメリカにやられたことと同じようなことを、今度は日本が朝鮮に対してやった、って感じです。

清との対立

こうして明治新政府は朝鮮を自分の勢力圏にするための第一歩を踏み出すことができたわけですが、当時の朝鮮はアジア流の国際関係の中にいて、まだ中国の影響のもとにある状態でした。

朝鮮を完全に日本の勢力圏にするためには、親分的存在である中国をなんとかしなきゃいけないわけです。

朝鮮内での混乱

朝鮮は「力を伸ばしてきた日本」と「親分の中国」の間で板挟みになっているような状況です。

そのため、「外国はぶっとばして今まで通り清との関係を維持しよう!」っていう勢力と「日本と接近して国を発展させよう!」っていう勢力の間で対立が起きることになりました。

  • 1882 壬午軍乱
  • 1884 甲申政変

くわしくはこちら

1894〜95 日清戦争

1894年に朝鮮国内で甲午農民戦争と呼ばれる農民の反政府暴動が起きました。

そして、この事件が引き金となって日清戦争が勃発。

日清戦争が勃発するまでの経緯についてくわしくはこちら

日清戦争は日本の勝利に終わり、1895年に日本と清との間で下関条約が結ばれました。

この下関条約によって、「朝鮮が独立国であることを清が承認する」ことになりました。

親分的な存在だった中国の影響の排除に成功。ようやく朝鮮を日本の勢力圏にするための準備が整った!って感じです。

ロシアとの対立

ところが、今度はロシアが黙ってはいなかった。

ウラジオストクなどの極東ロシアの安全のために、ロシアは朝鮮半島の中立を確保したかったんです。

※朝鮮半島が日本のものになってしまうと、対馬海峡を安全に航行することができなくなる恐れがある

また、ロシアは不凍港を手に入れるために満州に進出することを考えていたんです。

※下関条約で獲得した遼東半島を足がかりに、日本が中国に(満州に)進出してくる恐れがある

こうして行われたのが三国干渉(1895年)です。ロシアはドイツ・フランスとともに日本に「遼東半島を中国に返せ!」と詰め寄りました

→日本人「ロシアむかつく!臥薪嘗胆!」

関連:日露戦争のきっかけは?本質をわかりやすく解説

朝鮮で親露政権が成立(1897 大韓帝国)

親分的な存在だった中国の敗北後、朝鮮は日本にすり寄っていったわけではなく、、、

なんと日本の思惑とは裏腹に、朝鮮はロシアに近づき、反日感情を高めることになりました。

日本は朝鮮を自国の影響下に置きたかったが、、、

三国干渉後、朝鮮で新日政権が倒される(by閔妃ら)

日本の三浦梧楼が「新日政権をつくるぞ!」ってことでなんと閔妃を殺害

王妃を殺害された国王高宗はロシア公使館に逃れ、朝鮮で親露政権が誕生

1897年、朝鮮は国号を大韓帝国(韓国)と改めました。

※これ以降、「朝鮮」ではなく「韓国」と呼ぶようになります(→1910 韓国併合まで)

日本は「せっかく日清戦争で清に勝って、やっと朝鮮半島を日本の影響下に置けると思ったのに…」って焦ります。

1904〜05 日露戦争

その後、日本とロシアの対立が激化。交渉で対立を解決しようとしましたが、1904年初めに日本とロシアの交渉が決裂。

お互いに宣戦布告し、日露戦争がスタートすることになりました。

日露戦争が勃発するまでの経緯についてくわしくはこちら

日露戦争は実質的に日本の勝利に終わり、アメリカのローズヴェルト大統領に仲介してもらって、1905年に日本とロシアとの間でポーツマス条約が結ばれました。

このポーツマス条約によって、「日本の韓国に対する指導・監督権をロシアが認める」ことになりました。

中国・ロシアの影響力を排除することができて、ようやく邪魔者はいなくなった!って感じ。

韓国の植民地化

※日露戦争中の1904年、朝鮮半島での戦闘で日本が実質的に勝利したことを背景に、日本は第1次日韓協約を結んでいた(→日本が推薦する財政・外交顧問を韓国政府に置くことを認めさせた)。

いよいよ日本は韓国への支配を推し進めていきます。

日本はアメリカと桂・タフト協定を結び、イギリスとは日英同盟協約を改定して、韓国を日本の勢力下におくことを認めさせました

そのうえで、、、

1905 外交権を奪う(保護国化)

1905年、第2次日韓協約を結びました。

(主な内容)

  • 韓国の外交権を奪う
  • 漢城(ソウル)に韓国の外交を統括する統監府を置く

第1条:日本国政府は、在東京外務省に拠り今後韓国の外国に対する関係及事務を管理指揮すへく、日本国の外交代表者及領事は外国に於ける韓国の臣民及利益を保護すへし

第3条:日本国政府は、其代表者として韓国皇帝陛下の闕下に一名の統監を置く、…

保護国=国家の主権はあるけど(=一応、独立国だけど)、外交権を他国に奪われてしまっている状態の国家

1907 内政権を奪う

第2次日韓協約の内容に不満だった韓国の皇帝(高宗)は、国際会議の場を使って抗議しました(→失敗)。

=1907 ハーグ密使事件

この事件をきっかけに、日本は韓国皇帝の高宗を退位させ、1907年に第3次日韓協約を結びました。

(主な内容)

  • 韓国の内政権を奪う

第1条:韓国政府は施政改善に関し統監の指導を受くること

日本はさらに韓国軍を解散させました(→義兵運動の本格化)。

1910 韓国併合

1909年、日本が義兵運動を鎮圧した際、前統監の伊藤博文がハルビン駅で暗殺されてしまいました(by安重根)。

この事件をきっかけに(口実に)、1910年、日本は韓国併合条約を結ばせました(=韓国の植民地化)。

第1条:韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲渡す

第2条:日本国皇帝陛下は前条に掲けたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す

植民地=国家の主権を失い(=独立国ではなくなり)、他国の支配下に置かれた状態にある地域

韓国併合後、日本がしたこと

  • 漢城を京城と改称
  • 土地調査事業
  • 朝鮮総督府の設置 @京城(ソウル)

くわしくは別記事で

疑問:なぜわざわざ併合する必要があったのか?

  • 保護国の状態、もしくは内政権を奪った状態にとどめておくのではダメだったのか?
  • 韓国併合する(=日本化する)必要はあったのか?
  • どんな意図で併合したのか?

→高校レベルを超えていて僕もよくわかっていないので、興味がある人は考えてみてください!

動画でも確認

日本史の記事・動画一覧はこちら

日本史まとめ記事【日本史サイト】

日本史を解説したYouTube動画まとめ

参考文献

関連:高校日本史Bの参考書・問題集を東大卒元教員が紹介【大学受験にもおすすめ】

関連:日本の歴史の漫画を東大卒元教員が比較して紹介

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