満蒙の危機について説明をします!
「満蒙の危機」とは?
日本が持っている満蒙の権益が脅かされたことを受けて、日本の軍部・右翼が言うようになった言葉です。
だいたい1930年頃に「満蒙の危機だ!やばいよやばいよ!」って叫ばれるようになったようです。
じゃあ「満蒙」って何なんじゃい!って話です。
満蒙とは?
満蒙=満州+蒙古
満州は中国東北部のこのあたりの地域のことです。
ただ、日本が「満蒙」って言った時の「満」は、満州の南部のこのへんを指します。
具体的には、
- 遼東半島の先っぽにある旅順・大連っていう都市
- 旅順から長春まで走っている鉄道(+それに付属の利権)
です。これらをまとめて「南満州」って呼んでいました。
一方、蒙古はモンゴル民族が住む地域のことで、
- 現在のモンゴルにあたる「外蒙古(がいもうこ)」
- 現在のモンゴルの東側をぐるっと囲む「内蒙古(ないもうこ)」
の2つに分類されます。
ただ、日本が「満蒙」って言った時の「蒙」は、内蒙古の東部のこのへんを指すようです
(※調べても正確にわからなかったので、地図はたぶん不正確です。「大体このあたりかあ〜」くらいの感覚で捉えてください。正確な範囲がわかる人がいたら教えてー)。
この満蒙の地域(南満州+東部内蒙古)で日本が影響力を持っていることを「満蒙に権益を持つ」と表現します。
じゃあ、日本はどうやって満蒙の権益を獲得したのでしょうか?
日本は満蒙の権益をどうやってゲットしたのか?
「ロシアが中国からゲットした権益を、日本がもらった」っていう構図です。
1895年 下関条約 | →【日本】遼東半島をゲット |
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1895年 三国干渉 | →【日本】ロシア・フランス・ドイツに圧力をかけられて遼東半島を中国(清)に返す |
1896年 | →【ロシア】三国干渉の見返りとして、満州で鉄道を作る権利を獲得(東清鉄道) |
1898年 中国分割 | →【ロシア】遼東半島の旅順・大連の租借権を獲得(期限:1923年)+ハルビンから旅順までの南満州支線を作る権利を獲得 |
1900年 北清事変(義和団事件) | →【ロシア】満州を軍事占領 |
1905年 ポーツマス条約 | →【日本】旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道(南満州鉄道)と付属の利権をロシアからもらった |
1907年 第一次日露協約 | →【日本・ロシア】日本は南満州、ロシアは北満州で権益を持つことを確認 |
※租借=外国の領土の中のある地域を、期限つきで借りること。
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1911年:辛亥革命(清が滅び、中華民国が誕生)
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1912年 第三次日露協約 | →【日本・ロシア】日本は内蒙古の東部、ロシアは内蒙古の西部で権益を持つことを確認 |
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1914年:第一次世界大戦勃発
↓
1915年 中国に対する二十一カ条の要求 | →【日本】旅順・大連の租借期限などを99年延長させることに成功 |
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1917年:ロシア革命→社会主義政権が誕生(ソヴィエト政権)
1918年:第一次世界大戦終了
↓
1921〜22年 ワシントン会議 | →中国の主権尊重、門戸開放・機会均等が約束された |
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このように、ロシア・中国との交渉を通して日本は満蒙の権益をゲットしたわけですが、、、
途中でロシア・中国ともに革命が起きて、国の体制やトップの人が代わった
ってのがポイントです。日本からしたら「約束をした相手」がいなくなっちゃったような感じです。
なぜ満蒙の権益が脅かされることになったのか?
その中国(中華民国)で、「中国を統一するぞ!」「列強を倒すぞ!」っていう運動が起きました。
これが満蒙の権益が脅かされることになった直接的な原因です。
中国の歴史を軽く理解しておいた方が中国の動きがよくわかると思うので、日清戦争らへんからの中国の歴史をざっくり確認します。
- 日清戦争での敗北後、中国分割が行われた
- 辛亥革命が起こり、中華民国が誕生した
- 中華民国は安定せず、主導権争いが起こった
- 「中国を統一するぞ!」「列強を倒すぞ!」っていう運動が起きた
①日清戦争での敗北後、中国分割が行われた
日清戦争後、「なんだ中国(清)って弱いじゃん!」って気づいた列強が、一気に中国に乗り込んで「ここはオレの縄張りね」ってのを決めて、中国に認めさせました。
これを中国分割と言います。
②辛亥革命が起こり、中華民国が誕生した
そうなると中国の人々は「政府ダメじゃん!」って思うようになります。
んで、「満州人が作った清を潰して、新しい国を作ろう!」っていう雰囲気になり、辛亥革命が起きて中華民国が誕生しました(この動きの中心にいたのが孫文っていう人)。
※ちなみに、辛亥革命のタイミングで、中国(清)の一部だった外蒙古が独立を宣言しました。これがのちにモンゴルになります。
③中華民国は安定せず、主導権争いが起こった
1925年の中国。オレンジが主要な軍閥の勢力圏。青が孫文の革命派の軍閥の勢力圏。(Wikipediaより)
ところが、新たに誕生した中華民国はうまくまとまりませんでした。
うまいことやって中華民国のトップになった(←くわしい説明は省略)袁世凱っていう人が、中華民国で独裁をしようとしたけど失敗。
「くっそー下手こいたー」って落ち込んだ袁世凱は1916年にそのまま病死。
↓
各地にいた軍閥っていう武装集団が「オレが北京政府の主導権を握るぞ!!」っ争い始めた。日本の戦国時代みたいなイメージ。
④「中国を統一するぞ!」「列強を倒すぞ!」っていう運動が起きた
1925年の中国。オレンジが主要な軍閥の勢力圏。青が孫文の革命派の軍閥の勢力圏。(Wikipediaより)
そんな中で、中国の南の方では孫文っていう人が中国国民党っていうグループを作って(1919年)支配を広げていました(中心地は広東)。
中国の北の方では軍閥たちが主導権争いをしていて、南の方では中国国民党が勢力を持っていた、っていう構図です。
南にいる孫文からしたら、「北にいる軍閥をぶっ潰せば中国統一が完成する!」って感じなわけです。
「中国を統一するぞ!」「列強を倒すぞ!」って決意していた孫文は、「ソ連と提携した方がうまくいくかも」って考えて、かなり主義主張の異なる中国共産党とタッグを組みます(1924年:第1次国共合作)。
ところが孫文はガンに侵されていて、志半ばにして1925年に死んでしまいます。「革命はまだ成功していない!仲間たちよ、よろしく頼むぞ」みたいな遺言を残したそうです。
んで、孫文のあとを蒋介石っていう人が引き継いで、国民政府を樹立し、1926年7月からいよいよ北にいる軍閥をぶっ潰しに行きます。これを北伐と言います(北伐:1926年7月~1928年12月)。
結局、1928年12月には中国東北部の満州も国民政府の支配下の土地となり、北伐が完了=中国全土の統一がほぼ達成されました。
日本からしたら
「このままだと日本が満蒙に持っている権益が損なわれるかもしれない!満蒙の危機だ!やばいよやばいよ!」
って感じなわけです。
実際、中国ではその後、「不平等条約を撤廃しろ!」「中国の権利を取り戻すんだ!」っていう運動が活発になりました(国権回復運動)。
このままだとマジで満蒙の権益を失うことになるかもしれない状況に陥ったのです。
んで、日本の軍部は焦り、満州事変を起こすことになりました。。。
※弐キ参スケ:満州を牛耳った実力者
- 弐キ=東條英機、星野直樹
- 参スケ=鮎川義介、岸信介、松岡洋右
動画でも確認
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