日本史

満州事変が起こった理由を東大卒元社会科教員がわかりやすく解説【日本史】

【日本史】満州事変が起こった理由を東大卒元社会科教員がわかりやすく解説

こんにちは。もちおです。

本記事では、

満州事変が起こった理由

について説明をします。

 

この記事の信頼性

僕(もちお)は、元社会科教員。

  • 日本史についてそれなりにくわしい。

僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。

  • 日本史についてそれなりにくわしい。

 

もちお
もちお
もちおです。TwitterYouTubeやっています! お問い合わせはこちら

 

 

満州事変とは

日本が中国で持っている権益を守るために、1931年から1932年にかけて陸軍が起こした事件。

※権益=ある国が他国内に持つ権利と、それに伴う利益。

 

日本がその後、戦争(日中戦争・太平洋戦争)へと突き進むことを決定づけたと言えるトンデモナイ事件です。

 

超ざっくりですが、こんな感じの流れです↓

・1900年頃から1920年頃にかけて、日本は南満州(中国東北部の南の方)での権益をゲットしていた。

くわしくはこちら。

・欧米+日本にズタボロにされ続けていた中国が、1920年頃から「中国の権利を取り返すぞ!」っていう運動を起こした(南から北に向かって)

・関東軍が「せっかくゲットした権益が失われるかも…」って焦った。

※関東軍=満州にいた日本の陸軍。

・関東軍が「満州の権益を守るために、満州を『日本の一部』にしちゃえ!もうそれしかない!」って考えた。

・1931年9月、関東軍が南満州の鉄道を爆破して「中国軍のせいだ!」って言いがかりをつけ、中国で軍事行動を起こした。【満州事変スタート】

・関東軍は日本の権益がない北満州まで攻めて、満州全土を占領した。

・日本は「満州を日本に併合したら欧米が黙っちゃいないよな…」って思って、「満州人が自分たちで国を作ったんだよ!」ってことにした(満州国)

・1933年5月、日本と中国の間で停戦協定が結ばれた。【満州事変終了】

 

ここからはもうちょいくわしく説明して、関東軍がなんで満州事変を起こそうと思ったのか?が伝わるように頑張ります!

 

 

満州事変が起こった理由

「満州の権益が失われるかも!」っていう危機に直面した

日本は、「満州で持っていた権益が失われるかも…」っていう危機感を抱くことになりました。

 

※満州での権益をどのようにゲットしたか?についてはこちらの記事で。

満蒙の危機とは?

 

 

危機感を抱くことになった理由を2つ説明します。

 

理由①:中国での統一化運動&国権回復運動

 

アヘン戦争での敗北&日清戦争での敗北以降、欧米諸国+日本にズタボロにされた中国で、1920年頃から「中国を統一するぞ!」っていう運動が起きました。

 

1926年7月からは、実際に蒋介石っていう人が率いる集団(国民政府)南から北に向かって「中国を統一するぞ!」運動を起こしました。これを北伐と言います(1926年7月〜1928年12月)

日本からしたら「うわ!だんだん南から迫ってきやがったよ!満州に来るなよ?絶対に来るなよ?」みたいな感じなわけです。

 

んで、結局1928年12月には中国東北部の満州も国民政府の支配下の土地となってしまいました。

 

ただ、満州を支配する人が誰になったとしても、「日本は満州で○○の権利を持つよ」っていう約束をしている以上、その権利は守られなければいけません。

んが、新たに中国を統一した国民政府が「今までの約束を取り消してくれ!っていうか、あんな約束は無効だ!」とか言い出したら、日本からしたら厄介です。

 

そして実際に中国は、その後「不平等条約を撤廃しろ!」「中国の権利を取り戻すんだ!」っていう運動を起こしたんです。これを国権回復運動と言います。※日本も不平等条約改正交渉をしましたよね。それとほぼ同じだと思ってください。

 

あと、南からだけではなく北からの脅威もありました。

 

理由②:ソ連の経済的・軍事的成長

 

社会主義国となったソ連が五カ年計画っていうのを打ち出して「国を強くするぞ!」って張り切っていました

 

日本は、ソ連になる前のロシアとうまく付き合っていて、満州付近でのお互いの勢力圏を確認し合ってはいましたが、

もはやロシアはなくなって「ソ連」になってしまっていたので、「満州がヤバイかも」って危機感を抱くことになったのです。

 

しかもソ連は当時の日本が絶対に受け入れられなかった社会主義の思想の国だったので、その危機感はなおさらでした。

 

 

満州での権益を守りたかった

「満州の権益が失われるかも!」っていう危機に直面した日本は、「満州の権益を手放してもOK!」とは思えませんでした。

 

理由①:たくさんの血を流した日露戦争でゲットした場所だった

 

理由②:資源をゲットする場所、商品を売る場所として重要だった

 

理由③:将来予想されるアメリカとの戦争において重要な場所だとされた

 

 

「満州を直接支配するしかない!」って思った

満州地域の防衛のために置かれていた陸軍(関東軍)は、「満州の権益が失われるかも!」っていう危機の中で、「満州を直接支配するしかない!」って考えてしまいました。

 

ここで、他国での権益を維持する方法について整理して考えてみたいと思います。

 

他国での権益を維持する方法は2つあります。

 

①その地域を自分で直接支配する(他国から自国にする)

②現地の協力者(自分を有利にしてくれる人)に支配を任せる

 

②は、邪魔者が登場した時にどうするか?という観点で、さらに2つに分けることができます。

A:邪魔者の排除に直接的に協力する(直接ぶん殴りに行く)

B:邪魔者の排除に間接的に協力する(現地の協力者を応援する)

 

「他国での権益を維持する方法」は、こんな感じで整理できます。

 

んで、これを1920年代〜1930年代初めの日本の歴史に当てはめてみると、

  • ①→関東軍
  • ②+A→田中外交
  • ②+B→幣原外交

って感じの対応になっています(この後くわしく説明します)

 

 

満州での権益をどうやって守ろうとしたのか?

幣原外交(1回目)

【日本史】幣原外交と田中外交とは?東大卒元社会科教員がわかりやすく解説
  • 加藤高明内閣(1924年6月11日~1926年1月30日)
  • 第1次若槻礼次郎内閣(1926年1月30日~1927年4月20日)

で外務大臣を務めた幣原喜重郎が推進した外交政策が幣原外交です。

 

幣原外交では、満州での権益を維持するために

  • ②:現地の協力者(自分を有利にしてくれる人)に支配を任せる
  • B:邪魔者の排除に間接的に協力する(現地の協力者を応援する)

という方針をとっていました。

 

具体例

【日本史】幣原外交と田中外交とは?東大卒元社会科教員がわかりやすく解説

・奉天で勢力をもっていた張作霖を支援することを通じて、満蒙(南満州・東部内蒙古)の権益を守ろうとした

=中国に直接関与するのではなく、間接的に関与した。

 

・蒋介石が行った北伐の中で南京事件が起き、アメリカとイギリスが軍事介入した際、共同出兵を拒否した

=中国国内の問題に対して、不干渉主義を貫こうとした。

 

 

田中外交

【日本史】幣原外交と田中外交とは?東大卒元社会科教員がわかりやすく解説
  • 田中義一内閣(1927年4月20日~1929年7月2日)

で外務大臣を兼任した田中義一が推進した外交政策が田中外交です。

 

田中外交では、満州での権益を維持するために

  • ②:現地の協力者(自分を有利にしてくれる人)に支配を任せる
  • A:邪魔者の排除に直接的に協力する(直接ぶん殴りに行く)

という方針をとっていました。

 

具体例

【日本史】幣原外交と田中外交とは?東大卒元社会科教員がわかりやすく解説

・蒋介石の北伐を抑えて満蒙(南満州・東部内蒙古)の権益を守るために、3次にわたる山東出兵を行った

 

 

張作霖爆殺事件

ところが、現地の協力者である張作霖が「中国を統一するぞ!」運動(北伐)をしていた国民政府に負けてしまったのを受けて、関東軍が暴走します。

張作霖が乗っていた列車を爆破して殺しちゃったんです。これを張作霖爆殺事件と言います。

 

実際に現地で防衛にあたっている関東軍は、「満州の権益が失われるかも!」っていう危機感をリアルに肌身で感じるわけです。

だから、関東軍は「満州の権益を守るために、満州を『日本の一部』にしちゃえ!もうそれしかない!」って考えるようになっちゃったんだと思います。んで、張作霖を爆殺。

 

この事件をきっかけに、田中義一は内閣を総辞職しました。

 

 

幣原外交(2回目)

【日本史】幣原外交と田中外交とは?東大卒元社会科教員がわかりやすく解説
  • 浜口雄幸内閣(1929年7月2日~1931年4月14日)
  • 第2次若槻礼次郎内閣(1931年4月14日~1931年12月13日)

で外務大臣を務めた幣原喜重郎が推進した外交政策が幣原外交です。

 

田中外交から一転、再び

  • ②:現地の協力者(自分を有利にしてくれる人)に支配を任せる
  • B:邪魔者の排除に間接的に協力する(現地の協力者を応援する)

という方針に戻りました。

 

具体例

 

・条件つきで中国に関税自主権を認めた(1930:日中韓税協定)

 

 

満州事変

関東軍は「満州の権益を守るために、満州を『日本の一部』にしちゃえ!もうそれしかない!」って考えるようになっていたので、幣原外交は気に食わないわけです。

 

「もう現地の協力者に頼ってちゃダメだ!」って考えた関東軍は暴走します。

1931年9月に南満州鉄道の線路を爆破して(柳条湖事件)「中国軍のせいだ!」って言いがかりをつけ、中国で軍事行動を起こしたんです。これが満州事変のスタート。

 

んで結局、関東軍は日本の権益がない北満州まで攻めて、満州全土を占領しました。

まさに「①その地域を自分で直接支配する(他国から自国にする)」の方針そのものです。

 

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました!

 

おすすめの学習教材
関連記事

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA