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寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説【日本史40】

【日本の歴史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説こんにちは。もちおです。

本記事では、

寛政の改革

について説明をします。

 

この記事の信頼性

僕(もちお)は、元社会科教員。

  • 日本史についてそれなりにくわしい。

僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。

  • 日本史についてそれなりにくわしい。

 

もちお
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寛政の改革についてわかりやすく

 

4つに分けて話をします。

  1. 寛政の改革とは?
  2. なぜ寛政の改革が行われたのか?
  3. 寛政の改革の内容
  4. 寛政の改革の終わり

 

 

寛政の改革とは?

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

田沼意次が力を失った後に、松平定信が1787年から1793年まで行なった幕政改革を寛政の改革と呼びます。

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

松平定信って何者だよ!って感じだと思うので軽く説明すると、、、

松平定信はもともと白河藩の藩主(大名)でした。で、この人、天明の飢饉の時に白河藩での被害を最小限に抑えた人で、その手腕を認められて11代将軍徳川家斉(いえなり)を補佐するために老中に就任することになった…ってのが松平定信です。

 

 

なぜ寛政の改革が行われたのか?

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

農村がぐちゃぐちゃになってしまっていたことと、江戸で大規模な打ちこわし(「こいつは悪いことをした」ってみなされた人の家をみんなで破壊する行為)が起こったことが、寛政の改革が行われるようになった主な理由です。

 

 

農村がぐちゃぐちゃになってしまっていた

 

まず、農村がぐちゃぐちゃになってしまっていたことについて。

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

徳川吉宗による享保の改革で年貢を増やす政策が行われたことと、経済がさらに発展していったことによって、農民の中で階層分化が起こるようになっていました。うまくいってものすごく豊かになる人と、失敗して貧しくなる人とに分かれていった、っていうことです。

 

もちお
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年貢を増やす政策については、「農民の負担が増えるんだから、そりゃ貧しくなる人が出るよな」って思えるので、わかりやすいと思います。が、経済の発展によって農民の階層分化が起きるってのはちょっとわかりづらいですよね。なので、くわしく説明します。

 

経済の発展、特に、商品作物の栽培が奨励されたことによって、農民の階層分化がますます加速したようです。

※商品作物=自分で消費するためじゃなくて市場で売ることを目的として生産する農作物のこと。例えば、木綿や菜種など。

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

というのも、商品作物の栽培を行うためには、農家がお金を出して購入する肥料である金肥(干鰯など)を手に入れるなどの先行投資が必要だったからです。

肥料を買うためのお金を確保するために、土地を担保にしてお金を借りたりすることもあったようです。

 

このように、商品作物の栽培を行うためには、収穫物をゲットするよりも前にリスクを負う必要があったんです。

 

でも、リスクを負ったからと言って(土地を担保にしてお金を借りたり、金肥を買ったりしたとしても)、うまく作物が育つかどうかはわかりません

うまく作物が育ってくれれば先行投資した分を取り戻すことができますが、もしその年の気候が悪かったりして作物が思ったように採れなかった場合は大打撃を受けてしまうわけです。

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

こうして、商品作物の栽培に成功してウハウハになった農民と、気候が悪かったりそもそも栽培するのが下手だったりして栽培に失敗してしまう農民とに分かれました失敗してお金を返せなくなってしまった農民は、担保にした土地を手渡さなきゃいけなくなるわけです。

 

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

これが、「経済の発展とともに農民の中で階層分化がますます加速した」ってことです。

豊かな農民は、失敗した農民の土地をゲットして広い土地を持つ地主になることができたけど、一方で、事業に失敗して貧しくなった農民は、

  • 小作人(地主から土地の使用権を得て農作業をする→地主に小作料を払う)に転落したり
  • どこかの家で住み込みで働いたり(年季奉公)
  • 日雇いで働いたり(日用稼ぎ)
  • ホームレスになったり(無宿人)
  • ギャンブルで生活費を稼いだり(博徒)

ってことになりました。

 

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

で、どうしようもなく貧しくなったら、どうするか?。。。

 

そのまま餓死する人もいましたが、一方で、「このまま死んでたまるか!」ってことでいろんな行動をする人もいたようです。

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

例えば、豊かなの農民と貧しい農民の間で対立が生じて、貧しい農民は農村の中で力を持っている(農村の運営をしている)村役人や豪農に対して、「村をちゃんと運営してくれ!」「土地を返してくれ!」って求める運動を起こしたりしました。このような運動のことを村方騒動と言います。

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

また、貧しくなった農民の中には、村を離れて都市へとさまよっていく人もいました。「都市に行けばなんとかなるかもしれない!」っていう期待を抱いて、です。

 

このような状況は、江戸幕府や各地の藩にとってはマズイことでした。

村の中で対立が生じると、村が共同体(お互いに助け合う関係性)として機能しにくくなるからです。

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

将軍や大名は百姓を一人一人直接管理していたわけではありません。村のことは百姓たちの自治に任せていて、将軍や大名は年貢を村全体の責任で納めさせていました(村請制)。だから村の中では、年貢をちゃんと納めるために百姓同士でお互いに助け合っていたはずです。

それなのに百姓同士が対立し始めると、お互いに助け合う関係が壊れてしまいますよね。そうなって困るのは、村から年貢を納めてもらっている将軍や大名です。だから村がぐちゃぐちゃになるのはマズイことなんです。

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

また、村から離れて都市へと移動する人が出てくると(あと餓死する人が出てくると)、村の人口が減って農業をする労働力が減り、土地が荒れ果ててしまう可能性が高くなります(=農村の荒廃)。これは農業生産の停滞につながるので、やっぱり将軍や大名からしたらマズイことです。

 

とにかく、将軍や大名からしたら、村は共同体として機能してほしいし(百姓同士はお互いに助け合う関係でいてほしいし)、百姓たちにはちゃんと農業をしてほしいんです。そうすれば、農作物がとれずに飢饉が起きたとしても、村が崩壊することも防げます。

 

 

でも、経済の発展とともに農民の中で階層分化が起きてしまった。

 

 

貧しい農民は村を離れて都市に流入し、都市の裏通りの集合住宅(棟割長屋)に住んで、日雇いの仕事をして苦しい生活をしたりしていたらしいです。彼らは貧しい生活をしていたので、物価がちょっと変動すると生活が立ち行かなくなる…って感じで、都市の秩序を不安定にさせる存在になってしまいました

 

 

江戸で大規模な打ちこわしが起こった

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

こういう状況で、飢饉が起きて最悪なことになりました。(天明の飢饉:1872〜88年)

ますます階層分化が加速しますし、食べ物が手に入らなくて死を猛烈に意識することになりますから、行動もさらに過激になります。

 

 

【日本史40】寛政の改革とは?東大卒の元社会科教員がわかりやすく解説

で、打ちこわしが起きました。 打ちこわしっていうのは、「こいつが悪いんだ!」ってみなされた人の家などをみんなで破壊する行為のことです。「あいつの家、壊そうぜ」って感じ。すごいですよね。

この打ちこわしが、1787年、江戸や大坂などの主要都市を中心に約30か所で発生しました。これを天明の打ちこわしと言います。

 

特に江戸での打ちこわしがものすごく激しかったらしく、その強烈な印象が心に焼き付いていた松平定信が「なんとかせねばっ!!!」ってことで行ったのが、寛政の改革です。

 

 

いったん、ここまでをまとめます。

・徳川吉宗による享保の改革で年貢を増やす政策が行われたことと、経済がさらに発展していったことによって、農民の中で階層分化が起こるようになっていた。

→江戸幕府にとって超重要な存在である村で、共同体(お互いに助け合う関係性)としてのあり方が揺らいできていた。

 

・貧しくなった農民の中には、村を離れて都市へとさまよっていく人もいた。

→農村を離れて都市に流入した人は、物価がちょっと変動すると生活が立ち行かなくなる…って感じで、都市の秩序を不安定にさせる存在だった。

 

・そんな状況で、天明の飢饉が起きて、1787年には天明の打ちこわしが発生した。

→その様子を見た松平定信は「なんとかせねばっ!!!」って思って、寛政の改革を行なった。

 

では、ここからは寛政の改革で行われた具体的な政策について説明します。

 

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