本記事では、享保の改革について説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
享保の改革についてわかりやすく
享保の改革について話をします。
享保の改革について、4つに分けて話をします。
- 享保の改革とは?
- なぜ享保の改革が行われたのか?
- 享保の改革の内容
- 享保の改革の影響
では、まず①享保の改革とは?からです。
享保の改革とは?
8代将軍徳川吉宗が1716年から行った政治のことを享保の改革と言います。
※享保の改革の終わりの時期に関しては複数の説があるらしい。
教科書に「紀伊藩主であった吉宗が8代将軍になった」って書いてあるんですけど、これはどういう意味かというと、
1716年に7代将軍家継が8歳で死んでしまって家康以来の本家が途絶えた後、「三家」(水戸家・紀伊家・尾張家)の一つである紀伊家から徳川吉宗が将軍家へ養子に入って8代将軍になった
ってことです。
三家ってのは家康の子供から続く、将軍家に次ぐ地位を持っていた家系のことです。
ちなみに、徳川吉宗は「米将軍」って呼ばれることがあります。その理由は、このあと説明する改革の背景と改革の内容を知ることでわかると思います!
では、なぜ「改革」が行われることになったのか?について説明をします。
なぜ享保の改革が行われたのか?
そもそも何も理由なく「改革」はしないですよね。
「改革」が行われることになったのは、何かしら「問題」があったからです。
で、いくつか問題があったようで、その中でも一番大きかったのはおそらく財政難です。
(前回説明をしたように、)江戸幕府は17世紀後半頃から財政難が深刻になってきていました。
理由は大きく3つです。
(1)直轄の金銀山からの金銀産出量が激減して収入が減ってしまったこと
(2)明暦の大火(1657)という江戸での火事の後の復興のために支出が増えてしまったこと
(3)農業が発展して米価安になってしまった結果、貨幣収入が少なくなってしまったこと
このうち、3つ目が特に重要です。
江戸幕府は、幕領(直轄地)からの大量の年貢米を販売・換金して貨幣収入を得ていました。
また、武士(旗本・御家人)も、給料として与えられた米を札差に換金してもらってそれでモノを買って生活していました。
そんな中、農業が発展して、お米がたくさんとれるようになった。
そうすると、お米の値段(米価)はそんなに上がらなくて、米価だけが他の物価に比べて安くなるという状況になってしまうんですよね(この状況を「米価安の諸色高」と言います)。
その結果、米を換金した時に得られる貨幣も(相対的に)減ってしまって、江戸幕府や武士の収入が実質的に減ることになってしまうわけです。
この問題(財政難)を解決する必要がありました。
そこで、吉宗は財政再建をすることになったんです。
享保の改革の内容
(1)財政再建
普通、財政を立て直そうと思ったら、やることは2つあります。
支出を抑える
収入を増やす
ですが、江戸幕府はお米を換金して貨幣収入を得ていたので、この2つに加えて
米価を引き上げる
というのも、財政再建につながる対策になりますよね。
ということで、江戸幕府の財政再建を
支出を抑える
収入を増やす
米価を引き上げる
の3つに分けて、それぞれ説明します。
【支出を抑える】
江戸幕府は、武士に質素・倹約を命じました(倹約令)。
また、支出を抑えるために1723年に足高の制という政策も実行します。これは、人材登用にともなう経費を抑えるための政策です。
江戸時代の武士は、個人ではなくて家によって給料が決まっていました。例えば「磯野家は500石ね」みたいに。
で一方、江戸幕府では役職ごとに基準となる石高が決められていました。例えば「町奉行は3,000石ね」みたいに。
つまり、磯野家は500石の給料が与えられる家なので、3,000石の町奉行には基本的にはなれない、ということです。
んが、例えば磯野家の波平っていう人がものすごく優秀だったとします。「ぜひとも町奉行になってほしい!」っていうくらい素晴らしい能力を持った人材だった。
この場合、江戸幕府は差額の2,500石を磯野家に支給するんです。そうすれば、磯野家は3,000石の家になるので3,000石の町奉行になることができるようになるのです。
ところが、吉宗の頃までは差額の分を代々引き継ぐことになっていました。
「磯野家の給料」っていう考え方だったので、
波平が町奉行の役職を終えて、波平が死んで、磯野カツオが磯野家のトップになった場合でも、3,000石のまま続くわけです。幕府は2,500石を支給し続けなきゃいけない。
磯野波平は優秀だったから良いかもしれないけど、磯野カツオが優秀じゃなかったら、なんで2,500石をプラスして支給し続けなきゃいけないの?、ってなりますよね。
ってことで、これを徳川吉宗は変えました。不足している分を”在職中だけ”支給するよ、ってことにしたんです。これが足高の制です。
【収入を増やす】
次に、収入を増やす政策についてです。4つ話をします。
1つ目が、上げ米です。(1722〜30)
これは、大名に対して、石高1万石につき100石を幕府に納めさせる、というトンデモない政策でした。
なんでトンデモなかったかというと、御恩を減らすことを意味していたからです。
将軍は大名と主従関係を結んでいて、御恩として、石高に応じた土地の管理を任せて(年貢をゲットする権利を与えて)いました。
なので、その土地から1万石につき100石を幕府に納めさせるっていうことは、将軍から大名への御恩を減らすっていうことを意味していたんです。
そこで、江戸幕府は上げ米をする代わりに、大名の参勤交代で江戸に滞在する期間を半減(半年に)することにしました。
御恩を減らす代わりに奉公も減らしたわけです。
結局、この上げ米は幕府の財政が良くなった8年後に廃止させて、参勤交代も元に戻ることになりました。
将軍と大名の主従関係に関わる部分にまでメスを入れなきゃいけないくらい、幕府の財政は厳しかったっていうことだと思います。
2つ目は、年貢の徴収方法を検見法から定免法に改めた、という政策です。
検見法=毎年、農地の一部を刈り取って収穫状況を調査し、それに基づいて年貢高を決める方法。
定免法=過去数年間の年貢高を基準として、収穫状況に関係なく一定の年貢高に決める方法。
検見法だと毎年の収穫状況によって収入が変わって不安定だし、毎年調査をしなきゃいけなくて大変だし、不正をされることも多かったので、収入を安定させて確実なものにするために定免法に変えたんです。
3つ目は、商品作物の栽培を奨励する、という政策です。
商品作物っていうのは、自分で消費するためじゃなくて市場で売ることを目的として生産する農作物のことです。例えば、木綿や菜種など。
田んぼだけじゃなくて畑にも年貢が課されている(米じゃなくて収穫物などを納める)わけですが、換金価値が高い商品作物を村が栽培できるようになれば、村の年貢負担能力が上がるわけです。
4つ目は、新田開発をする、という政策です。
商人の力を借りて新しい田んぼを作って、米をたくさん取れるようにしました。
【米価を引き上げる】
最後に、米価を引き上げる政策についてです。
江戸幕府は、1730年に堂島の米市場を公認して米価を引き上げさせようとしました。大名や商人たちに米の買占めさせたり、米の流通量を減らして米価の値上げを図ったりと、あれこれと介入をしたんです。
が、1732年に享保の飢饉と呼ばれる凶作になってしまって米価がものすごく上がってしまった以外、あまり効果はなかったみたいです。
以上のように、享保の改革では
支出を抑える
収入を増やす
米価を引き上げる
の3つの方向から、財政再建のための政策が行われました。
享保の改革では財政再建以外の政策も行われたので、それらの政策についても説明をします。
(2)江戸の都市政策
17世紀後半以降の経済の発展にともなって、農民の中で階層分化が起こるようになりました。うまくいってものすごく豊かになる人と、失敗して貧しくなる人とに分かれていったのです。
そうすると、貧しくなった農民の中には、そのまま餓死する人だけでなく村を離れて都市へとさまよっていく人が出てきます。
このようにして、17世紀後半以降、経済の発展にともなって村から江戸に流入する人が増えました。
都市に流入した人は、都市の裏通りの集合住宅(棟割長屋)に住んで、日雇いの仕事をして苦しい生活をしたりしていました。彼らは貧しい生活をしていたので、物価がちょっと変動すると生活が立ち行かなくなる…って感じで、都市の雰囲気を不安定にさせる存在だったんです。
ということで、享保の改革では、江戸の都市政策も行われました。
吉宗は人々からの意見を将軍が直接入手するために、目安箱を設置しました(1721)。
で、その目安箱への投書を採用して、貧しい病人向けの医療施設である小石川養生所を設置したりしました(現在は東京大学の植物園になっています)。
また、火事対策も行いました(1657年の明暦の大火っていう江戸での大火事の後も、江戸では火事が何度も起きたから)。
定火消に加えて、町人による町火消を組織させた。
広小路や火除地などの防火施設を設けた。
江戸の都市政策については、このあとの寛政の改革でも出てきます。また今度説明します。
(3)幕府機構の整備
さらに、享保の改革では幕府の仕組みの整備も行われました。
お金の貸し借りに関する訴訟が増えて仕事が回らなくなっていたので、相対済し令というものを出しました(1719)。これは、お金の貸し借りに関するトラブルは当事者同士の解決に委ねる、という政策です。
あと、訴訟をすばやく処理できるように、裁判や刑罰の基準となる法典を編纂しました(1742 公事方御定書)。
享保の改革の影響
最後に、享保の改革の影響についてです。
改革の結果、幕府の財政は安定することになったようです。
が、一方で、村の百姓への負担は増えたので、その地域のリーダー(領主)に対して百姓がみんなで「年貢を減らしてくれ!」などと訴えることが増えたようです。これを百姓一揆と言います。
また、商品作物の栽培が奨励された結果、村のあり方が変化していくことになりました。この点に関しては、寛政の改革のところで説明します。
まとめ
8代将軍徳川吉宗が1716年から行った政治のことを享保の改革と言う。
改革が行われた背景の一つ=17世紀後半頃から江戸幕府が財政難になったこと
享保の改革では(1)支出を抑える、(2)収入を増やす、(3)米価を引き上げる、の3つの方向から、財政再建のための政策が行われた。
他にも、江戸の都市政策や幕府機構の整備などが行われた。
享保の改革の結果、幕府の財政は安定したが、村の百姓への負担が増えて百姓一揆が増えることになった。
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