本記事では、室町幕府の仕組みについて説明をします!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
室町幕府の仕組みについてわかりやすく
室町幕府について話をします。
今回話をする時代は、室町時代です。
①室町幕府とは
まず、室町幕府の「室町」の由来についてです。
足利将軍家の邸宅(住宅)が、京都の北小路室町っていうところに作られたっていうのが由来です。
この足利将軍家の邸宅のことを、花の御所と言います。
室町幕府は京都にあった、っていうのがポイントです。
ここが鎌倉幕府と違うんですよね。
鎌倉幕府は朝廷から遠い場所にあったけど、室町幕府は朝廷にむちゃくちゃ近いんです。
3代将軍の足利義満は天皇と良い感じの関係を作り上げて、朝廷が持っていた権限を吸収していきました。
そして、足利義満は1394年に将軍を辞めた後、太政大臣に任命されます。
幕府のトップである将軍が、朝廷の内部でも役人としてトップの座に立ったっていうことですね。
②室町幕府の仕組み
じゃあ、室町幕府はどんな仕組みで日本をまとめていたのか?です。
「日本をまとめていた」っていう表現をしましたが、室町幕府がむちゃくちゃ力を持っていて、日本全体を従わせていたわけではありません。
実際には、日本各地に力を持った人がたくさんいて、その人達との絶妙なバランスのもとで、室町幕府は全国を支配していたに過ぎない、っていう感じです。
だから、そのバランスが崩れると室町幕府は一気に崩壊するんです。(実際、バランスが崩れて、日本各地にいる力を持った人同士で争う戦国時代に移り変わっていきます)
室町幕府の内部
まず、室町幕府の内部について。
将軍が自分でいろいろなことを決めてはいましたが、地域をまとめている守護(守護大名)の中で特に有力な守護(守護大名)が、将軍と一緒に話し合いをしたり、将軍に意見を伝えたりしていました。
将軍が1人で暴走しないように、有力な守護大名がコントロールしている感じです。
有力な大名は、交代で役職につきました。
将軍のサポート役である管領っていう役職や、京都周辺の警備などを行う侍所っていう役所の長官(所司)です。
管領っていう役職に交代でついたのが、細川・斯波・畠山っていう人達です。
所司っていう役職に交代でついたのが、京極・山名・赤松・一色っていう人達です。
たくさん名前が出てきて混乱しそうですが、とにかく、
有力な大名が何人もいて、その人達のコントロールを受けながら、将軍がいろいろと決めていた
っていうことがポイントです。
守護大名による地方支配
次に、地方について。
地方では、守護(守護大名)が地方の武士をまとめて、その地方を支配していました。
地域ごとにまとまっている感じです。
じゃあなんで守護が地方を支配することができるのか?というと、幕府が守護を任命しているからです。
守護は、幕府に「守護の仕事をしてね」って認められたっていうお墨付きがあるから、いろいろなことをできるんですね。
これが、「幕府が全国を支配している」っていうことです。(ここポイント。戦国大名との違い。)
日本各地に力を持った人がたくさんいて、その人達との絶妙なバランスのもとで、室町幕府は全国を支配していた、ということ。
だから、そのバランスが崩れると非常にマズいわけですが、4代将軍足利義持の時代までは将軍と有力な大名達とのバランスが保たれていて、室町幕府の全国支配は安定していました。
ただ、文字通り「全国」を支配していたわけではなく、例えば関東は室町幕府の支配が濃いわけではありませんでした。
前の時代に幕府が置かれていた鎌倉に鎌倉府っていう役所(地方機関)が作られて、鎌倉府の長官である鎌倉公方がら半ば独立した形で関東を支配することになったんです。
しかも、鎌倉公方は室町幕府の将軍に対抗意識もあって、お互いに対立して緊張が高まる場面が結構ありました。
このように、室町幕府は、幕府がむちゃくちゃ力を持っていて、日本全体を従わせていた、っていうわけではありません。
実際には、日本各地に力を持った人がたくさんいて、その人達との絶妙なバランスのもとで、室町幕府は全国を支配していたに過ぎない、っていう感じです。
4代将軍足利義持の時代までは、将軍と有力な大名たちとのバランスが保たれていて、室町幕府の全国支配が安定していたんですけど、6代将軍足利義教の時代から、バランスが崩れていきます。
で、ここまでの話を聞いて、「地方の武士をまとめている守護(守護大名)が、どうやって将軍と一緒に話し合いをしたり意見を伝えたりするの?」って疑問に思ったかもしれません。
疑問に思った人はスルドイ!と思う
守護(守護大名)は地方にいるのか将軍の近くにいるのか、どっちなの?ってことですよね。
結論を言うと、多くの守護(守護大名)は、家来の人と一緒に京都に住んでいました。
(関東の守護は鎌倉に住む)
京都に住んで、幕府の運営に携わっていたんです。
だから、京都にいるのって楽しかったと思うんですよ。地方の田舎で住むよりは、京都の方が良さそうですよね。想像ですけど
で、じゃあ地方はどうするのか?
地方は、守護代っていう代わりの役人が派遣されて、守護代のもとで支配が行われていたようです。
(この守護代が守護大名を倒して、その地域を支配する戦国大名になったら、それがこの後の戦国時代で出てくる下剋上ってやつです。)
③室町幕府の経済基盤
次は、室町幕府はどうやって財政をまかなっていたのか?(運営するための費用をどうやってゲットしていたのか?)について、説明をします。
室町幕府は幕府が管理する土地(御料所)を各地に持っていて、そこから富をゲットしていたんですけど、それだけで幕府財政をまかなうことはできなかったようです。
そのため、室町幕府は何かしらの方法で富をゲットする必要があった。
そこで目をつけたのが、経済活動でした。
お金を貸す業務(金融業)をしていた土倉や酒屋に、「金融業をやるんだったら、税を納めてね」って言って税を課したんです。(土倉役・酒屋役)
ちなみに、土倉って名前は、土塗りの壁で囲まれた倉庫が由来らしいです。
お金を借りたい人が、お金を借りるために何かしらのモノを質に入れるので、それを保管するための倉庫が必要だったんです。
酒屋は、文字通り「お酒を造る業者」です。
何で酒屋がお金を貸す業務をするの?ってツッコミたくなりますが、どうやら酒屋はかなり儲かっていたらしく、お金を貸す業務もやる酒屋が結構あったようなんです。
この土倉と酒屋に、室町幕府は目をつけて、税を課すことにしました。
他にも、交通の要所に作られた関所っていうゲートを通る時に通行料をとりました。これを関銭と言います。
ちなみに、奈良時代にも関所はありましたが、古代の関所と室町時代の関所は、だいぶ意味合いが違いました。
古代の関所は、争いが起きた時に敵が移動しないようにするためのものだったんですけど、室町時代の関所は、通行料をとって富をゲットするためのものだったんです。
あと、室町幕府は港で船が出入りする時にも通行料を取りました。これを津料と言います。
室町幕府が富をゲットする方法は他にもありますが、とりあえずここまでにします。
とにかく、室町幕府は経済活動に目をつけて、そこから富をゲットしようとしたんです。
土地からの収入だけに頼らなくなったっていう点が、鎌倉幕府と違うところです。
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