この記事では
- なぜ原敬内閣が誕生したのか?
- 原敬内閣はどうやって崩壊したのか?
について説明します!
※この記事は下記の記事の続きです。
原敬内閣が本格的な政党内閣と言われる理由をわかりやすく解説【日本史】

上の記事(原敬内閣の何が特別だったのか?についての記事)を読んでから、こちらの記事をお読みいただくのがおすすめです!
この記事の信頼性
僕(もちお)は、元社会科教員。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
僕(もちお)は、東大入試で日本史を選択。
- 日本史についてそれなりにくわしい。
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「本格的な政党内閣」である原敬内閣が誕生した理由
「本格的な政党内閣」と言われる原敬内閣が1918年に誕生します。

【復習】原敬内閣が「本格的な」政党内閣と言われた理由
- 原が華族でも藩閥出身者でもなく、衆議院に議席を持つ初めての首相だった(→だから「平民宰相」って呼ばれて国民から歓迎された)
- 陸軍・海軍・外務大臣以外はすべて立憲政友会のメンバーだった
「これの何が本格的なの?」っていうことについては、前の記事で説明しています!
原敬内閣が本格的な政党内閣と言われる理由をわかりやすく解説【日本史】
とりあえず「国民に近い内閣(=国民の意思をより反映した内閣)が誕生した」って思えばOKなんですけど、
じゃあなぜ1918年までこのような内閣(「本格的な政党内閣」)が実現していなかったのでしょうか?
結論、明治新政府のメンバーが「民衆の考えを取り入れるのは(=民主主義は)まだ早い!」って考えていたからです。
このことは自由民権運動の頃に国会開設をしぶったところからもわかります。っていうか、仮に自分自身が「新しい国家」の中心人物だったら…って考えると、新政府のメンバーと同じように「しばらくは自分たちが国を引っ張っていこう。民主主義はまだアブナイ!」って思いたくなりそうですよね。
でも、1918年に民衆の考えを取り入れた政治体制と言える「本格的な政党内閣」がいよいよ成立することになります。なぜなのか?
理由を3つの観点から説明します。
(1)政治参加に向けて民衆のエネルギーが高まっていた
第一次世界大戦にともなう大戦景気の中で、都市部に住む”そこそこの収入がある人”が増加しました(都市中間層:サラリーマン)。
このような人々(都市中間層)は、都市部に住んでいるので
- 情報をゲットしやすい
- 誰かと集まったりしやすい
という意味で、政治的なエネルギーを蓄えやすい存在でした。
また、この頃には教育もそれなりに充実していた(←1907年には小学校の就学率が97%を超えていた)ので、都市中間層はそれなりの知識を獲得した存在でもありました。
この都市中間層を中心に民衆の政治参加を求める風潮が広がっていた(「大正デモクラシー」)ことが、1918年に「本格的な政党内閣」が誕生することにつながります。
(2)政党内閣の理論的根拠が整っていた
また、政党内閣を支える理論的な根拠が整っていた、ということも1918年に「本格的な政党内閣」が成立した背景にあります。
政党内閣を支える理論的な根拠
- 天皇機関説(by美濃部達吉:1912年)
- 民本主義(by吉野作造:1916年)

(3)米騒動に直面して、元老が政党内閣に期待をかけた
このような状況の中で、米騒動という大事件が起きました。この事件が「本格的な政党内閣」である原敬内閣が成立する直接のきっかけです。
※「 政治参加に向けて民衆のエネルギーが高まっていた」「政党内閣の理論的根拠が整っていた」ってのが前提条件で、「米騒動」でピストルのトリガーが引かれた!って感じ。
米騒動(1918年)
米騒動について説明します。

米騒動は1918年に起きた米の安売りを求める運動です。最初は富山県で起きた騒動に過ぎなかったんですけど、だんだんと周りに広がっていつの間にか全国的な運動になり、民衆が米商人や地主を襲って警官隊と衝突したりするなどの約70万人を巻き込む大騒動になりました。
んで、なぜこのような運動が起きて全国に広がったのか?が大事なところです。
米騒動の背景
①労働者の生活が苦しくなった
第一次世界大戦によって経済が発展した結果、労働者の賃金はアップしたんですけど、それ以上に物価がアップすることになったので、労働者の実質賃金がダウンしてしまったんです。

②米価がアップした
そのような状況で、米価が上昇してしまいました。というのも、米の需要に対して供給が追いつかなかったからです。
- 都市部の人口増加+工業労働者の増加⇒米の消費量が増える
- 農村人口が都市部へ流出⇒米の生産量が伸び悩む
③シベリア出兵に向けて商人が米を買い占めて売り惜しみする

このように米価が上昇している状況で、シベリア出兵がさらに追い打ちをかけます。
1917年のロシア革命を見た欧米諸国は「ロシアで社会主義国家が誕生してしまう!やばい!」って焦って、「よっしゃー邪魔してやるぜ」ってことでロシアに戦争を仕掛けることにしました。
日本の寺内正毅内閣もこれに乗っかって、1918年8月に「シベリア出兵をするぞ!」って宣言をしたんです。
これから戦争が起きるぞってことになると、戦争に必要なもの(食糧など)への需要が高まって物価がまた上がることが予測できるわけです。
そこで、「これから米価がさらにアップするだろうな」って予測した商人たちは、米を買い占めて売り惜しみした(=値段がもっと上がるまで待つ)んです。この結果、米価が一気に上昇することになって、民衆からしたら「おいふざけんなよ!」ってなるわけです。
寺内内閣が総辞職に追い込まれる
こうして米騒動が起きました。寺内内閣は軍隊を出動させてこれをしずめたんですけど、民衆から「責任を取れ!」っていう批判の声が高まった結果、寺内内閣は総辞職に追い込まれることになりました。
この状況を目の当たりにした元老の山県も「もう民衆のエネルギーをちゃんと受け止めた形で政治を行わないとダメだな」ってとうとう認めることになって、「よし、次は政党内閣しかないわ」って決断したんです。こうして、「本格的な政党内閣」である原敬内閣が成立することになりました。

原敬内閣はどうやって終わってしまったのか?
ところが、せっかく「本格的な政党内閣」が成立したのに、原敬内閣は3年余りで終わってしまいました。
というのも、原敬が暗殺されてしまったからです。
原敬は1921年に東京駅の(今で言う)丸の内南口の改札付近で中岡艮一という人に心臓を刺されてほぼ即死しました。ちなみに、東京駅の丸の内南口の改札付近には、原敬が刺された場所を示すマークがあります。
じゃあなんで暗殺されてしまったのか?
暗殺するくらいですから、もちろん原敬内閣に対する不満が高まっていたことが背景にあります。
原敬内閣への不満が高まった理由
こうして不満の矛先となった原敬は暗殺され、「本格的な政党内閣」は3年余りで終わってしまいました。
その後、立憲政友会の総裁を引き継いだ高橋是清が内閣を組織しましたが、リーダーシップをうまくとれずに立憲政友会の内部で対立が起きてしまい、7ヶ月ほどで総辞職しました。
かわって海軍の加藤友三郎が首相となり、結局「政党内閣」の流れは途切れてしまうことになりました。
動画でも解説
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参考文献
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通信教育



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