東久邇宮稔彦内閣についてまとめました!
東久邇宮稔彦が敗戦後の首相になった理由
敗戦後の首相を誰にするか?はものすごく重要!

ポツダム宣言受諾の3日後、皇族であり、かつ陸軍大将でもあった東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこ おう)が首相になりました。
(理由)皇族かつ陸軍大将ってことで、「終戦にともなう手続きをスムーズにできるはず!」「軍の暴走を防げるはず!」って考えられたから
※東久邇宮内閣は憲政史上唯一の皇族内閣
東久邇宮稔彦内閣(1945.8〜1945.10)の下での政策
実際、東久邇宮稔彦内閣は以下のことをスムーズに実行します。
- 連合国軍が日本に入ってくること(進駐受け入れ)
- 陸海軍の解体
- 降伏文書への調印
ところが、東久邇宮稔彦内閣が掲げた「一億総懺悔」「国体護持」という方針は、GHQとの対立を生みます。
一億総懺悔
東久邇宮稔彦王はいわゆる「一億総懺悔」発言をしました。
「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。」
※当時、日本列島の日本人は約6000万人だったらしいんですけど、「一億」ってのは朝鮮や台湾の住民なども合わせた数だったようです。
この一億総懺悔発言は、日本の戦争責任が誰にあるのか?が曖昧になってしまうという意味で、日本の戦争責任を当時の政府・軍のトップに負わせる方針だったGHQからしたら困ったものでした。
国体護持
また、東久邇宮稔彦内閣はなんとしても天皇制を維持して、今までの国のあり方を壊さないようにしようとしました(国体護持)。
なので、天皇制を打倒しうる共産主義革命を抑えるために、治安維持法に基づく弾圧体制を維持したい!と考えていたようです。
人権指令への反発

連合国軍最高司令官総司令部が入った第一生命館(1950年頃撮影)
ですが、GHQは1945年10月に「政治や宗教に関してどんな考えを持ってもOKだよってことを認めて、人々の人権を確保せよ」っていう指令を出しました(人権指令)。
人権指令
- 治安維持法や特別高等警察(特高)を廃止せよ!
- 共産党員などの政治犯をすぐに釈放せよ!
- 内務大臣・警察関係の首脳部・弾圧活動に関係のある官吏を罷免せよ!
ですがこれは、東久邇宮稔彦内閣からしたら「ちょっと待ってくれよ」って感じです。
彼は国体護持の方針を掲げていて、「なんとしても天皇制を維持して、今までの国のあり方を壊さないようにしたい!」「天皇制を打倒しうる共産主義は認められない!」って考えていたからです。
※内務大臣の罷免は内閣不信任ということでもある
※弾圧活動に関係のある官吏まですべて罷免すると、約4,000人にも及んでしまう
つまり、アメリカ的な自由の価値観と、これまでの日本的な価値観とが衝突したわけです。
※アメリカ的な価値観との衝突って、いろんな国で起きてますよね…
総辞職
結局、東久邇宮稔彦内閣は「人権指令は実行できん…」ってことで総辞職。
成立から約50日で退陣した、むちゃくちゃ短命な内閣でした。
東久邇宮稔彦王内閣が総辞職した後、新たに幣原喜重郎内閣が成立。
1945年10月、幣原首相に対してマッカーサーは「5つの改革をせよ!」って指示します(五大改革指令)。
- 婦人参政権の付与
- 労働組合の結成奨励
- 教育制度の自由主義的改革
- 秘密警察などの廃止
- 経済機構の民主化
この指令を受けて、日本政府は様々な政策をどんどん実行していきました。
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