太平洋戦争中、沖縄がどんな目に遭ったのか?についてわかりやすく説明したいと思います。
山川出版社の『詳説 日本史探究』では軽くしか書かれていないので、記事を読んでいただいた方の理解が深まるように頑張ります!
戦時中の沖縄
戦時中の沖縄が果たした役割
- 沖縄は「本土防衛の最前線」に位置づけられた
- 来たる本土決戦に備えるための時間稼ぎとして沖縄戦が展開された
沖縄防衛の始まり
太平洋戦争の遂行において、沖縄は日本にとってもアメリカにとっても重要な場所でした。
(日本にとっての沖縄)
- 東南アジアの資源地帯と日本本土を結ぶ輸送ルートを守る航空基地がある
- 日本本土の防波堤(本土決戦に備えるために時間稼ぎできる場所)
(アメリカにとっての沖縄)
- 沖縄を手に入れれば、日本本土に進攻するための航空機の基地として活用できる
- 沖縄を手に入れれば、日本は東南アジアの資源を本土に輸送しにくくなる
1944年3月、日本は南西諸島方面の防衛を強化するために陸軍の一つの部隊として沖縄守備軍(第32軍)を新設しました(司令部は首里に置かれた)。
そして全島で飛行場と陣地壕作りが始まります。「現地自給」の方針で、人や物は沖縄現地で調達されました。
小学生や女性も勤労奉仕に駆り出されたことで、県外への疎開は進まず。。
沖縄が次の攻撃目標に
1944年7月、南の絶対国防衛圏の一角であるサイパン島がアメリカ軍に占領されました(サイパン島陥落)。
いよいよ沖縄が次のターゲットに。
疎開
1944年7月、沖縄県の老人や幼児、女性を直ちに疎開させる決定がなされました。
県外や台湾への疎開が行われましたが、「直ちに疎開」と言っても、沖縄にいる大勢の人々を短期間で疎開させることはできません。船の数は限られているし、沖縄周辺の海は戦場なので安全ではないからです。
首里以南の南部一帯が、住民の一大避難所と化しました。
対馬丸
1944年8月、学童集団疎開の子供をたくさん乗せて那覇港を出航した船(対馬丸)がアメリカの潜水艦の魚雷攻撃によって海に沈められるという事件が起きました。
乗船者約1800名のうち約8割の人が亡くなりました。
その後、事件を知る者に対して、事件について「決して語ってはいけない」と厳重な箝口令(かんこうれい)が敷かれたと言われています。
空襲の開始
1944年10月10日、南西諸島は米機動部隊の猛烈な空襲を受けました(10・10空襲)。
※この空襲の際、米軍は沖縄攻略のための航空写真を撮影したようです。
地上戦の開始(沖縄戦)
1945年3月17日に硫黄島にあった日本軍守備隊が玉砕しアメリカ軍が硫黄島を占領。次は沖縄です。
1945年3月26日の慶良間諸島へアメリカ軍が上陸。
そして1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸しました。上陸場所は沖縄島中部の読谷(よみたん)・北谷(ちゃたん)海岸。
ここから日米両軍の激しい攻防戦が始まります(沖縄戦)。
米軍は約52万人。対する沖縄守備軍は、一般人で組織した防衛隊や学徒隊などを含めても12万人に満たなかったそうです。
沖縄は「本土防衛の最前線」に位置づけられ、来たる本土決戦に備えるための時間稼ぎとして地上戦が展開されました。
- 地下陣地壕にこもって相手の砲爆撃をしのぐ
- 夜に爆雷や手榴弾などで肉弾攻撃を仕掛ける
アメリカ軍は北部一帯を20日間で制圧することができましたが、軍司令部のあった首里周辺では約2ヶ月に及ぶ激しい戦闘が行われます。
沖縄守備軍は兵力が乏しかったため、民間人も徴用されました(防衛隊、義勇隊、学徒隊)。
学徒動員
満14歳以上の男子中学生、師範学校生徒らを動員
女子師範学校や女学校生徒も看護婦として動員
鉄血勤皇隊
沖縄の男子中等学校の生徒約1800人が戦闘に参加した(半分が戦死)。
ひめゆり隊
アメリカ軍が沖縄に上陸する直前、沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の女子生徒が沖縄陸軍病院に看護要員として動員される。
(疎開は主に子供や高齢者が対象で、働ける年齢の生徒の疎開は条件が厳しかったため、彼女たちは学校と行動を共にするしかなかった)
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1945年4月、沖縄戦がスタート。
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沖縄陸軍病院は、丘の斜面に掘られた横穴に粗末な二段ベッドがあるだけの施設。そこで女子生徒は負傷兵の手当て等をした。手術をしたり、ウジを取ったり、排泄物の処理をしたり、ご飯の用意をしたり、伝令をしたり、死体の埋葬をしたり・・・。
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沖縄本島南部に撤退(アメリカ軍の本土上陸を遅らせるため=時間稼ぎ)。
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自然の鍾乳洞(ガマ)に避難し、医療器具や医薬品がほとんどない中で負傷兵の手当てを行う。日本軍は住民の口から機密が漏れるのを防ぐため、アメリカ軍に投降することを許さなかった。
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敗色濃厚となった6月18日に急に解散命令が出される・・・(「今日からは自らの判断で行動するように!」)
特別攻撃隊
沖縄を守るため、爆弾を積んだ航空機で相手に体当たりする特攻戦法もとられました。
沖縄に最も近い本土最南端の飛行場である知覧飛行場(@鹿児島)から、多くの人(若者)が出撃しました。
南部への撤退
首里周辺での激しい戦闘の末、5月下旬に首里の司令部が陥落します。
沖縄守備軍は急に南部へ撤退することを決定。首里以南の南部一帯は、住民の一大避難所と化していた場所です。
その後、住民を巻き込む形で戦闘が行われ、多くの非戦闘員が犠牲になりました。
日本軍は住民の口から機密が漏れるのを防ぐため、米軍に投降することを許しませんでした。
日本海軍部隊の崩壊
陸軍の南部撤退に合わせて、日本海軍の沖縄方面部隊も南部に移動しようとします。しかし沖縄守備軍(陸軍)との合流ができずに小禄から豊見城のあたりで孤立。
小禄地区に侵入したアメリカ軍との先頭において地下壕で抵抗するも、戦力を消耗。とうとう6月13日に司令官と参謀たちが地下壕の中で自決します。海軍部隊は壊滅。
沖縄戦の終結
6月23日、沖縄守備軍(第32軍)の牛島司令官と長参謀長が自決し、組織的な戦闘は終了。
しかしその後も局地的な戦闘は続きました。。
降伏文書が交わされたのは9月7日です。
参考資料
通信教育
学習漫画・参考書
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