【香港の歴史】わかりやすく:なぜ「特別」であり、「特別」でなくなった?世界と中国のハザマで変わりゆく地位

香港の歴史についてまとめました。
なぜ香港が発展し、なぜ最近になって衰退しているのかがわかるように、香港という地域の立ち位置の変化に重点を置いて説明します!
香港の歴史の全体像
ただ香港で起きた事件等を列挙しても芸がないので、時期区分をして、香港という地域がどのように変化したのか?をざっくりつかみます。

| 年号 | 時期区分 | 香港の位置付け |
|---|---|---|
| 〜1842 | 植民地になるまで | 台風を避けるための避難所。 |
| 1842〜1949 | 植民地時代①(割譲から日本占領まで) | イギリスにとって上海に次ぐ2番手的存在。 |
| 1949〜1997 | 植民地時代②(中華人民共和国成立から返還まで) | 上海が社会主義陣営に組み込まれて利用しにくくなってしまったため、香港の地位が相対的にアップ。経済が急速に発展し存在感が増した。 |
| 1997〜 | 返還以降 | 迷走し、中国の香港への依存度が徐々に下がった。 |
香港の歴史を理解するためのポイント
歴史の中身に入る前に、まず香港がどのような場所にあるのか?を確認します!
香港の位置


珠江の河口部
河川の両側に位置するのがマカオと香港
→中国本土への玄関として機能した(※後述)
入り組んだ地形


台風や悪天候から船を守りやすい
→避難港として機能した(※後述)
天然の良港


水深が深い(←山がちな地形で、島が点在するため珠江から流れてくる砂が堆積しにくい)
東南アジアと極東地域(東アジア)の中心に位置する
→中継貿易港として機能した(※後述)
香港の歴史
〜1842 植民地になるまで

小さな村であり、台風を避けるための避難所(台風シェルター)だった
「香港」という名前の由来

いま香港島と呼ばれている島の南部に「香港仔(アバディーン)」という地域がある。
この地域がもともと「香港」という名前だった。
(理由)諸説あるが、「香木の港」という説が有力。ベトナム等から持ち込まれた香木を広州に運び出すために、アバディーン付近の港が使われていた。

つまり、いま香港島と呼ばれている島の南部にある限られたエリアのみが「香港」だった
が、外国人がここに来た時に「香港」という町の名前を島全体の名前だと勘違い
↓
「香港島」という名前をあとで変えるのが大変だったので、そのままにした
その代わり、この町を「アバディーン」という名前にした(スコットランドにあるアバディーンの港に似ていたから)
穏やかな村


職人や農民、漁師が暮らしていた小さな村で、香港にはたくさんの島があり、地理的に波風をしのぎやすい場所だった
→船が台風をしのぐための台風シェルターとして活用された

イギリスに目をつけられる

17世紀に王室でティータイムの習慣が始まる
→一般市民にもティー(茶)が普及

「お茶飲みてー!!!」って猛烈に思うようになったイギリス人は中国のお茶を大量に輸入
しかしイギリスは中国に売れるものを持っていない・・・(綿製品は中国では売れない)
→結果、イギリスの貿易は赤字に。イギリスの銀が中国に大量に流出・・・

なんとかしなきゃいかん!って焦ったイギリス人はとんでもない解決策を思いついた
=イギリスは三角貿易で貿易赤字の解決を図った
- イギリスは中国から茶を買う
- これだけだとイギリスから銀が流出してしまうので、間にインドをかませる
- 中国に流れた銀を回収するため、インドにケシの栽培をさせてアヘンを作って中国に密輸させる
- 中国からインドの元に流れた銀を回収するため、イギリスはインドに綿製品を売る

(結果)
- 中国でアヘンの吸飲が広がり、大量の銀が国外流出
- イギリスは中国の茶を輸入しつつ銀の流出を抑えることに成功

中国政府からしたらたまったもんじゃない。国内の人々がクスリ漬けになったら困る。
なんとか阻止しなければいけない!
イギリスと広州当局の緊張
アヘン貿易をめぐってイギリスと広州当局の緊張が高まる中、イギリスは香港が重要な海軍基地として利用できる港であることに気づいた
※中国は1757年以降、ヨーロッパ船の来航を広州1港に制限していた(広東システム:Canton System)

イギリスに奪われた

1839年、中国政府は林則徐という人物を広州の港に派遣し、アヘンの密貿易を取り締まろうとした
- イギリスなどが持ち込んだアヘンを没収して海に廃棄
- イギリス商人に「今後アヘン貿易はしません!」っていう誓約書を書かせようとする(※「誓約書に違反した場合は死刑に処す」という非常に厳しい条件だった)
↓
「自由貿易させろよ!」ってブチギレたイギリスは海軍を派遣。戦争開始。

これがアヘン戦争
※アヘン貿易についてはイギリス国内でも批判があった

アヘン戦争に負けた中国は、1842年に南京条約をイギリスと取り交わして香港島をイギリスにプレゼント。
1842 南京条約
- 香港島の割譲
- 上海・寧波・福州・厦門・広州の5港の開港
- 賠償金の支払い

ここからイギリス植民地となった「Hong Kong」の時代が始まる。
1842〜1949 植民地時代①(割譲から日本占領まで)

「イギリスにとって上海に次ぐ2番手的存在」だった時期
イギリスの開発スタート

現在の香港の中心地「セントラル(中環)」はあまり人がいない丘陵地帯だったが、イギリスはここに倉庫やオフィスを作り開発をスタートした
(理由)沖の水深が深く、貨物の陸揚げがしやすかったから
※ヴィクトリア・ハーバーの名前の由来は、当時のイギリスの船乗りがヴィクトリア女王に乾杯したことからとのこと。
※船の大型化に伴い、水深が深い香港の重要性はますます高まった・・・ってことだと思う
「香港」の拡大

1856-60 アロー戦争
→1860 北京条約
- イギリスに九龍半島南部を割譲

1899 日清戦争での日本の勝利に乗じ、深圳河以南の「新界」や周辺島嶼の99年にわたる租借に成功
中継貿易港として成長
アジア各地に届けたいもの(=売りたいもの)を目的地に近いところにいったん集めて、
- 中国の広州向けのもの
- 中国の上海向けのもの
- 日本向けのもの
みたいな感じで仕分けてから、目的地へ再輸出する!香港は商品を集めて仕分けるための経由地(中継貿易港)として成長。
しかし香港は、極東一の経済・文化都市として発展した上海に次ぐ、2番手的ポジションだった。
※上海も南京条約で開港した


1941-45 日本に占領される
第二次世界大戦中、一時的に日本に軍事占領された。が、日本の敗戦により再びイギリスの植民地に復帰した。

九龍半島の南端にあるザ・ペニンシュラ香港。このホテルの336号室で日本軍とイギリス軍との降伏文書が取り交わされた。
1949〜1997 植民地時代②(中華人民共和国成立から返還まで)

経済が急速に発展し存在感が増した時期
中華人民共和国が「現状維持」の方針を打ち出す

1949年に成立した中華人民共和国が香港に関して重要な方針を打ち出した
- 過去の不平等条約は継承しないが、
- 香港は「長期打算、充分利用」する(=長期的に考えて、充分に利用する)
(理由)中国の思惑とイギリスの思惑が合致した
| 中国の思惑 | 香港での貿易や外貨獲得を通じて、共産圏封じ込めの抜け穴として活用する |
| イギリスの思惑 | 極東での権益維持を図る |
上海が社会主義陣営に組み込まれて利用しにくくなってしまったため、香港の地位が相対的にアップした
経済が急速に発展
朝鮮戦争以降、軽工業や加工業が一気に発展した
(理由)
- 東西陣営の対立激化によって、香港にある西側諸国系企業が中国向けに輸出できなくなった
- →貿易業や関連産業(金融業、保険業、海運業)打撃を受けた
- →中国本土から逃げてきた人を利用し、香港は西側諸国向けの紡織・アパレル輸出に力を入れた
オイルショック以降、サービス業が一気に発展した
→金融センターへ
(理由)
- 1960年代後半頃から韓国やシンガポールなどのライバル国が成長しつつある中で、
- オイルショックにより西側諸国の経済が停滞し、香港の輸出が激減した
- →その結果、サービス業(金融、不動産、観光など)への産業構造の転換が加速した

香港は関税ゼロ
中国との関係性が変わり始める

租借期限が切れた後どうなる?という問題をスルーできなくなる
(理由)
- 都市機能の飽和を緩和するために新界地区の開発が必要になった
- が、租借期限が切れた後のことがわからないと投資しづらい

中国の鄧小平は一国二制度による解決を提案した
(理由)
- たぶん中国は香港の開発を続けて欲しかった(一国二制度を提案しないと投資してもらえなくなる)
- 香港を中国の経済成長に利用しようと思った(市場経済化する上での資金や技術やノウハウをゲットする)
- 台湾や香港を統一して求心力を向上させようとしたが、台湾の復帰には時間がかかりそうだったので香港から手をつけた
1982 中国で憲法改正
- 31条「国家は必要な時は特別行政区を設置することができ、特別行政区内で実行する制度は具体的な状況に基づいて全国人民代表大会が法律で定める」
1978 中国で改革開放が始まった
※社会主義の政治体制のもとで市場原理を導入(類似:ベトナムのドイモイ)

1980 深圳が経済特区に指定された
→人件費が安い深圳に香港から工場が移転
→香港は貿易に特化


香港返還に対する不安から、イギリス系資本がロンドン市場で香港ドルを売りまくる
→香港ドルが大暴落し大混乱
※「香港を中国化すると香港経済が大変なことになるよ…!」って中国を揺さぶりたかったっていう側面もあると思う
- 香港ドルの為替レートをアメリカドルと連動させることにして解決(ペッグ制)
- =香港は自国の金融政策を放棄した
※香港ドルの米ドル化
1984 香港返還が正式に決定
決定後、イギリスは急いで民主化を進めた(区議会の設置など)
1985年以降、中国政府は香港基本法の作成を始めた
香港からの海外移民が急増
1989 天安門事件
→香港からカナダやオーストラリアに脱出する人が急増
1997 中国に返還
一国二制度のもと、香港が中国に返還された
※社会主義の中国において、香港(とマカオ)には資本主義を認めた
1997〜 返還以降

迷走し、中国の香港への依存度が徐々に下がった時期
1997 アジア通貨危機
香港経済も打撃を受けた
観光業の強化



コンテナターミナル拡張の可能性を犠牲にし、テーマパークを誘致した
※上海との誘致競争に勝った(上海は2002年に誘致が決定)
→2005 開業


2000s〜 中国の香港への依存度が次第に弱まる
中国が「世界の工場」に
2001 中国が世界貿易機関(WTO)に加盟
上海も国際金融センターとして機能


香港を特別扱いしなくなる
中国は一国二制度の修正に着手
2017年に予定される香港初の行政長官の普通選挙において、指名委員会が候補者を事前に審査することが明らかになった
→「そんなの普通選挙って言えないでしょ!」っていう反発
市民は催涙弾を雨傘で防いだ

※イギリス植民地時代も民主化されていたわけではない。イギリス時代、行政長官に相当する「総督」は本国からの任命制であり、選挙はなかった。

参考文献
関連記事
中国の政治の仕組みをわかりやすく:建前では民主主義国だけど・・・
参考:香港特別行政区行政長官
董建華(1997〜2005)
董建華(とう けんか:Tung Chee Hwa)
曽蔭権(2005〜2012)
曽蔭権(そう いんけん:Donald Tsang )
梁振英(2012〜2017)
梁振英(りょう しんえい:Leung Chun-ying)
2014 香港反政府デモ(雨傘革命)
林鄭月娥(2017〜2022)
林鄭月娥(りんてい げつが:Carrie Lam Cheng Yuet-ngor)
李家超(2022〜)
李家超(り かちょう:John Lee Ka Chiu)
2023.12 香港区議会選挙





