昔、中学校の定期テストで出題した問題を載せました!
なぜ日本は戦争へと突き進んでいったのか?
問題
次の文章を読んで、あとの設問に答えなさい。(12点)
(1)1920年代の恐慌のなかで、多くの企業が財閥に支配されるようになった。市場を独占した財閥は、政党や軍部と結びつき、政治への影響力をいっそう強めたため、しばしば汚職が起こった。そのようななか、政治家や財界人に対する殺傷事件も起こった。
(2)青森の老爺は「今年は飢饉の飢饉、これでは来年は百姓めらは干ぼしになって、飢え死んで野たれ死んで、それで足りなくて、首をくくって死ぬ、ということになるだあ。…おかみさん、わしも一人の息子を満州の兵隊に出しているだが、こないだも手紙で言ってやっただ。国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死をしろ、とな。そうすりゃ。なぁおかみさん、なんぼか一時金が下って、わしらの一家もこの冬ぐらいは生きのびるだからな。娘を持ってるものは娘を売ることができるだが、わしは息子しか持たねえから、そうして息子を売ろうと考えてるだよ…。」と言った。
(3)1932年、海軍の青年将校が総理大臣を暗殺するという事件が起きた。多くの国民は海軍の青年将校たちに同情的であり、青年将校たちの刑を軽くする嘆願書に署名する人は100万人をこえた。
(4)1920年代末の恐慌を機に、イギリスやフランスは本国と植民地の関係を密接にした、閉鎖的な貿易システムをとった。日本はアフリカや中南米などの市場を新たに開拓しようとしたものの、やがて輸出は頭打ちになってしまった。
(5)第一次世界大戦後のワシントン会議では、中国に関しては、アメリカ流の機会均等主義(各国の経済活動の自由をお互いに保障するというスタイル)がとられ、各国は中国内政への不干渉を約束した。一方、中国政府には列国の経済活動に不可欠な平和と安定を確保することが求められ、中国は欧米や日本による経済侵略を保障し、半ば半植民地状態を自ら支えることになった。1928年に中国をほぼ統一した蔣介石は、満州における日本の権益を中国に返還するよう求めた。一方で、ソ連も満州をねらい、周辺の兵力を増強していた。
(6)市場や資源供給地として重視された満州に対して、1931年以降、日本は国の方針として、1932年にまずは6000人、1936年には20年間で500万人の移民を送る計画を立て、満州移民を進めた。満州への移民は、恐慌の影響を受けた養蚕農家を中心とした地方農村から多くの志願者が出た。
(7)大日本帝国憲法では、国家機関(内閣の各省など)同士の対立を、天皇によってのみ調整することが可能だとされていた。しかし、「神聖ニシテ侵スへカラス」と規定された天皇が対立を調整することで、天皇に政治責任が生じることにならないよう、元老(天皇を非公式に補佐し、首相の選定や外交政策など重要な国政事項の協議、決定にかかわる)の制度が慣例として定着した。元老は伊藤博文など8人いたが、西園寺公望をのぞいて全員1924年までに死没した。残された西園寺には、陸海軍をコントロールできるだけの政治力はなかった。
(8)1937年、植民地政策の研究者で戦争政策への批判を発表した東京帝大教授の矢内原忠雄が辞任に追い込まれた。また、1942年のミッドウェー海戦で実際に沈んだ戦艦の数は日本が5つ、アメリカが2つであったが、日本の新聞では、日本が1つ、アメリカが4つと報道されていた。マスメディアによって「欲しがりません勝つまでは」など多くのスローガンが出され、映画や歌謡曲も戦争と結びつけられ、戦争映画や軍国歌謡がつくられた。
【設問】 なぜ、日本は戦争へと突き進んでいったのか。説明しなさい。
採点基準
(1)→財閥や政党に対する不満が増大した(2点)
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(2)→恐慌によって、国民の生活が苦しくなった(2点)
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(3)→国民は軍部に期待した(2点)
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(4)→世界恐慌後、植民地を多く持つ国はブロック経済を行い、国際協調体制が動揺した(2点)
(4)→植民地の少ない日本では、軍部が大陸進出をめざした(2点)
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(5)→ワシントン体制は、そもそも中国を犠牲にした、課題のある体制だった(2点)
(5)→満州権益への危機感が高まり、外国と対立した(2点)
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(6)→日本にとって満州は、市場や資源供給地、恐慌後の移民受け入れ先として重要だった(2点)
(6)→満州は、日本にとって手放せない場所だった(2点)
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(7)→大日本帝国憲法では、国家機関同士の対立を調整する仕組みがそもそもなかった(2点)
(7)→陸海軍の暴走を止めることができない仕組みだった(2点)
(7)→大日本帝国憲法は、そもそも欠陥をかかえていた(2点)
(7)→元老がいなくなった後、大日本帝国憲法の問題があらわになった(2点)
(8)→言論への統制がなされ、マスメディアが戦争をあおった(2点)
解答例
国民にとって、満州は日露戦争で多大な犠牲を払って獲得した特別なものという意識がある中で、政党内閣や普通選挙法により、植民地や権益を手放すという国民の支持や理解をえにくい政策の実行はより難しくなった。世界恐慌後のブロック経済化の動きや満州権益への危機感の高まりは、主権線防衛のために利益線を確保しようと、大陸進出をめざす軍部を後押しした。国民もそのような軍部を支持し、軍部は政治的発言力を増していった。
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