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敗戦直後(1945〜48)
国民生活の破綻と激しいインフレ
戦後、日本人の生活はかなり苦しい状況に陥った。
- モノ不足が深刻で、食料などは戦争中から引き続き配給で入手するしかなかった(←食糧管理法)
- 配給が遅れたり配給自体ができなかったりすることがあった
- 猛烈なインフレーション
背景
- 空襲でいろいろと破壊されてしまった(工場とか交通網・流通網とか)
- 復員・引揚げで人口が急増した
- 1945年に記録的な凶作に見舞われて食糧不足になった
- 終戦処理などで通貨が増発された
【国民の対策】
闇市への買い出し:人々は満員列車に乗って農村に買い出しに行ったり、闇市で買ったりして、なんとか生活しようとした。
※闇市は強制疎開や空襲でできた空き地で始まった。配給以外で食料を入手することは違法行為だったので、闇市でモノを買うのは違法行為だったけど、そんなこと言ってられないくらい、配給だけじゃモノが手に入らない状態だった。
【政府の対策】
1946.2 金融緊急措置令 by幣原内閣
(目的)紙幣流通量を減らしてインフレを抑制する
(方法)旧円(それまで発行されていた日本銀行券)の流通を禁止し、限られた量の新円のみ引き出せるようにする
・旧円をすべて強制的に預金させ、引き出せないようにする(預金封鎖)
↓
・旧円から新円(新しい日本銀行券)に切り替える(新円切替え)
・1人1ヶ月100円のみ新円で預金を引き出せる
(結果)紙幣流通量は減らせたが、インフレ抑制の効果は一時的
※モノ不足が根本的な原因なので
金融資料館@小樽 より
1947 傾斜生産方式 by第1次吉田茂内閣
(目的)生産を復興させる
(方法)
資材と資金を石炭・鉄鋼などの重要産業部門に集中する
復興金融金庫を設立(1947)
一般の金融機関では融資が難しい企業などに対して、全額政府出資の政府金融機関が融資する →電力・海運などを含む基幹産業へ資金を供給
【アメリカの対策】
ガリオア資金(占領地域統治救済資金)
(目的)社会不安を取り除いて占領政策を円滑に行う
(方法)食糧や医療品などを援助
※学校給食にパンが登場するようになったのも、小麦が無償援助されたから
経済の民主化
GHQは
- 財閥が日本経済を支配してきたこと
- 農民が貧しいこと
- 低賃金で労働者が苦しんでいて、国内でモノが売れないこと(国内市場が狭いこと)
が戦前の軍国主義を支えた!って考えて、財閥解体・農地改革・労働改革を実行した。
大衆運動の高揚→日本社会党が衆議院第一党に
国民生活の危機により大衆運動が高揚した。
- 1946年:メーデーが復活
- 1946年:食糧メーデー
- 1946年:生産管理闘争
- 1947年:二・一ゼネスト計画(by 官公庁労働者)→前日にGHQの指令で禁止
これらの民衆運動の高揚を背景に、1947年4月の衆議院議員選挙・参議院議員選挙で日本社会党が衆議院第一党に。
→日本社会党委員長の片山哲が首相になり、日本社会党・民主党・国民協同党の3党連立内閣が成立。
保守勢力でも急進勢力(共産党勢力)でもない「中道」内閣の誕生を、GHQは評価した。
経済の復興と自立化(1948〜55)
冷戦が始まる→占領政策を転換
第二次世界対戦後、アメリカを中心とする資本主義の西側陣営と、ソ連を中心とする社会主義の東側陣営との間で、冷戦が激化した。
冷戦はアジアにも及んだ。1948年には北緯38度線で分断された南北朝鮮が成立し、1949年には毛沢東を主席とする中華人民共和国が成立して、蔣介石は台湾にのがれた。
冷戦が激化すると、アメリカは占領政策を転換し、日本の経済復興を重視するようになった。
(理由)日本を「共産主義の防壁」とし、そのためには資本主義国として成功させることが必要だと考えた。
- 過度経済力集中排除法による企業分割を緩和
- 労働運動の抑圧(GHQの命令による政令201号で、官公庁労働者は争議権を失った)
- 公職追放の解除
※GHQも一枚岩ではない
- GHQ民政局「保守政権の復活は嫌!」
- GHQ参謀第2部「左翼系の政権はマズイ!保守政権の復活を!」
日本経済の復興 & 国際貿易への復帰へ
占領政策の転換と同時に、1948年10月に芦田均内閣が倒れる(←昭和電工事件)
→第2次吉田茂内閣が成立(民主自由党)
【GHQによる積極的な政策】
(目的)インフレを抑え、経済を復興させる
(方法)
経済安定九原則の実行を指令
ドッジ=ライン
- 赤字を許さない予算編成→財政支出を削減
- 1ドル=360円の単一為替レートを採用し、ブレトン=ウッズ体制に組み込む
シャウプ税制勧告にもとづく税制改革(所得税中心主義・法人税の引き下げ)
※ドッジ:デトロイト銀行頭取
※日本が資本主義の国になるか、社会主義の国になるか?の分かれ目の時期
この時代の空気感を知るのにおすすめな本です↓
朝鮮戦争による特需景気
南北分裂状態となった朝鮮半島で、1950年6月、北朝鮮が北緯38度線をこえて韓国に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。日本は、国連軍(在日アメリカ軍)の出撃・補給基地となった。
↓
1949年から不況が深刻だった日本経済は息を吹き返した。アメリカ軍を主とする国連軍が日本から出撃する際に、多くの物資とサービスを調達し、特需景気が起こったためである。
独立回復 & 賠償を回避
朝鮮戦争によって、アメリカにとっての日本の戦略的な重要性が高まると、アメリカは、占領への反発をさけつつ、日本を西側陣営の友好国とするために、「寛大な講和」の方針を決意した。
※寛大な講和:多くの連合国は賠償請求権を放棄(←アメリカは日本経済の復興を優先した)
こうして、吉田茂内閣は1951年9月から開催されたサンフランシスコ講和会議に参加し、48カ国とサンフランシスコ平和条約を結んだ。1952年4月28日に条約が発効し、日本は独立を回復、約7年の連合国による日本占領は終了した。
日本軍により占領され、日本により損害を与えられた連合国への賠償(東南アジアなど)
→鉄道や道路、製鉄所などの建設、技術・生産物の供与という形で賠償を行うことに
=東南アジアへ経済進出する足がかりに(貿易が断絶していた中国に代わる市場をゲット!)
政府による積極的な産業政策
【資金供給】
1950 日本輸出銀行(輸出振興が目的)
1950 日本開発銀行(産業資金の供給を行う)
1952 企業の設備投資に対する税制上の優遇措置(企業合理化促進法)
【電力】
1951 地域別9電力体制への再編成(発電から配電まで一貫経営)
1952 電源開発株式会社(→大規模な水力発電所を建設)
【造船】
1947〜 政府主導の計画造船(海運企業に長期低利の財政資金を供給)
【鉄鋼】
1951〜53 第1次鉄鋼業合理化計画(→川崎製鉄が銑鋼一貫経営に転換)
【貿易】
1952 IMF(国際通貨基金):為替レートの安定と国際決済の円滑化が目的
1955 GATT(関税及び貿易に関する一般協定):自由貿易の拡大と関税引下げが目的
高度経済成長(1955~73)
いつ?:1955年から1973年まで
どんな時代?:国民総生産(GNP)が年平均10%成長し続けた
「もはや戦後ではない」
1955〜57 超好景気!(神武景気)
→1956 『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記された
背景
労働改革や農地改革→国民の所得水準が向上した
→戦後復興から技術革新による経済成長へ!次のステージ!
- 神武景気(1955〜57)
- 岩戸景気(1958〜61)
- オリンピック景気(1963〜64)
- いざなぎ景気(1965〜70)
- 列島改造ブーム(1972~)
所得倍増計画
池田勇人内閣(1960.7〜1964.11)
国民所得倍増計画
- 経済成長によって政治的安定を確保しようとした
- 安保条約のおかげで軍事支出を最小限にとどめることができ、経済発展に注力できた
- 1962 全国総合開発計画を閣議決定(各地に工業開発の拠点を設ける)
- 郵便貯金などを財源として財政投融資を行い、高速道路や空港の建設などに資金を供給
農業
1961 農業基本法
(目的)経営規模が大きく、生産性の高い自立農家を育成する
↓
経営規模の拡大による生産性の向上は実現せず
(理由)
- 戦時下に導入された食糧管理制度が戦後も存続したから
- 政権を担う自民党の支持基盤は農村部なので、思い切った改革はできなかったから(食糧管理制度を利用して政府の米買い入れ価格を高く設定し、農家所得を政策的に維持した)
ただし、農家所得は向上した(→国内市場の拡大)
(理由)
- 農業生産力の向上(←化学肥料や農薬、農業機械の普及)
- 米価の政策的引き上げ(←食糧管理制度、農協の圧力)
- 農外所得の増加
関連:米政策の歴史をざっくりまとめた【日本のコメ・日本の農業】
政治の季節から経済の季節へ
高度経済成長や農業政策によって国民の生活が豊かになり、技術革新によって労働が効率化・単純化する中で、労働運動などの社会運動は衰退。
=政治の季節から経済の季節へと転換。
日本的経営の確立
日本的経営の特徴
- 終身雇用
- 年功序列賃金
- 労使協調
こうして労働者の生活が保障されたが、企業社会の恩恵を受けたのは大企業の正社員だけだった
→社会保障制度が補う
- 1961 国民皆保険、国民皆年金
企業集団の形成
←独占禁止法が改正され、法人による株式保有や重役兼任などがOKになった
企業集団の特徴
- 銀行の系列融資
- 株式の相互持ち合い
- 同系商社が媒介する集団内取引
- 人的結合(重役の兼任、社長会)
(六大企業集団)三井、三菱、住友、芙蓉、一勧、三和
※1950年代後半以降、6つの企業集団が成立
貿易や資本の自由化
資本取引の自由化
海外投資家や海外の発行者、仲介者を受け入れること
外国企業が日本企業を乗っ取れるようになったということ。そのため、上場企業は株式を相互に持ち合うことで対抗した(安定株主工作)
大衆消費社会の誕生
高度経済成長の問題点が顕在化
列島改造ブーム
高度経済成長の終焉
安定成長(1970年代半ば〜1980年代)
戦後国際秩序の動揺
日本は不況からいち早く脱出
経済大国に
アメリカとの貿易摩擦
アメリカ経済の後退
プラザ合意
円高不況(1986~87)
内需主導型の経済へ転換
バブル経済(1987〜91)
日本企業の多国籍化
労働者が不足
アメリカとの貿易摩擦
バブル経済の崩壊
長期にわたる経済低迷(1991~)
汚職事件の続発 → 55年体制の崩壊
政財界と大企業の癒着
- 1988 リクルート事件
- 1992 佐川急便事件
- 1993 ゼネコン汚職事件
選挙での大敗
- 1989 参議院議員選挙で自民党が参議院単独過半数割れ
背景
- リクルート事件
- 消費税導入
- 牛肉・オレンジの輸入自由化
↓
自民党は政局安定のために公明党などと連携(自公民路線)
1993 自由民主党が分裂
→総選挙で第敗北
→共産党を除く非自民8党派の連立政権(細川護煕内閣)
=55年体制の崩壊
政治改革
- 小選挙区比例代表並立制
- 政治資金規正法(企業・団体による政治家個人向けの献金を制限)
- 政党助成法(政党に対して国が助成を行う)
平成不況
・株価や地価の暴落(資産デフレ)
・金融機関の経営が悪化
・企業によるリストラ
規制緩和と経済のグローバル化
情報通信技術の飛躍的な発達
→日本企業もグローバルな競争に巻き込まれる
1997 消費税3%→5%に
1997 アジア通貨危機
1996〜2001 金融ビッグバン
- 銀行・証券・保険業務への新規参入の促進
- 新たな金融商品の導入(金融派生商品の自由化など)
- 株式取引手数料の自由化
(目的)
- 日本の金融システムを間接金融方式から直接金融方式へと転換する
- 東京の金融市場をニューヨーク・ロンドンと並ぶ国債市場とする
小さな政府を目指す新自由主義的政策
2001 小泉純一郎内閣成立
小さな政府を目指す新自由主義的な政策
・民営化
・規制緩和
(結果)
・福祉政策が後退
・所得格差や地域格差が拡大
緩やかな景気回復(2002〜08)
リーマンショックにともなう世界金融危機(2008)
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参考文献
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通信教育
学習漫画・参考書
社会科チャンネル
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