桂園時代について説明します!
桂園時代とは
1901〜1913年、桂太郎と西園寺公望が交互に総理大臣を務めた時期のこと。
桂太郎(かつら たろう):山県有朋の後継者。山県閥・陸軍に属する。
西園寺公望(さいおんじ きんもち):伊藤博文の後継者。立憲政友会に属する。
政界の二大勢力(山県閥と立憲政友会)が内閣を交互に組織した。
- 第1次桂太郎内閣(1901.6〜1906.1)
- 第1次西園寺公望内閣(1906.1〜1908.7)
- 第2次桂太郎内閣(1908.7〜1911.8)
- 第2次西園寺公望内閣(1911.8〜1912.12)
- 第3次桂太郎内閣(1912.12〜1913.2)
桂園時代を理解するためのポイント
「スーパースターだけど、選挙で選ばれたわけではない人たちによる政治」から、
「選挙で選ばれた人たちによる政治」へと移行する過渡期
=桂園時代
ってとらえるとわかりやすいかなと思います。
僕はこんなイメージを持っています↓
桂園時代以前
権威の源泉=明治維新を成し遂げたという実績
→なので、明治維新を成し遂げた藩閥政治家が日本を引っ張った
桂園時代以後
権威の源泉=民衆からの支持
→なので、選挙でたくさんの議席を獲得した政党が日本を引っ張る
桂園時代前後のざっくりとした流れ
江戸幕府滅亡後、明治維新を成し遂げた藩閥政治家が日本を引っ張ってきた
→「一部の人だけで日本の未来を決めるんじゃねえ!」(自由民権運動)
→議会ができ、藩閥政府と議会が対立
→(いろいろあって…※くわしくは立憲政友会の記事参照)
→政党と藩閥政治家の伊藤博文が接近
→藩閥政治家の伊藤博文が率いる立憲政友会ができる
→桂園時代(←日比谷焼き打ち事件が起きる)
→(いろいろあって…)
→本格的な政党内閣である原敬内閣が成立
→(いろいろあって…)
→憲政の常道(二大政党制)
政界の構図
政界の二大勢力=山県閥、立憲政友会
山県有朋の後継者で陸軍軍人、政治家だった桂太郎は、山県閥・貴族院勢力を基盤として政権運営。
伊藤博文の後継者で立憲政友会の総裁だった西園寺公望は、立憲政友会を基盤として政権運営。
※桂太郎と西園寺公望は、お互いに協力しあう。
藩閥
明治維新を成し遂げ、長らく日本を引っ張ってきた人たち。その中で特に大きな影響力を持っていた人たちのことを元老と呼ぶ。
元老の伊藤博文と山県有朋は、1900年代初めに政界の第一線を退いていた。
※彼らは選挙によって(=民主的に)選ばれたわけではない。
衆議院
立憲政友会が最大勢力。
立憲政友会=藩閥政府のメンバーだった伊藤博文が「自分が政党のトップ(総裁)になって、政党を引っ張ろう!」って考えて、1900年9月に作った政党。
関連:立憲政友会とは?
貴族院
いわゆる貴族的な人たちが集まった議院。
官僚
いわゆる役人(国家公務員)。
山県閥
山県有朋の息がかかった陸軍・官僚のグループ。
内閣総理大臣は選挙で決まるわけではなかった
当時、首相は選挙ではなく元老の推薦によって決まっていた。
※現代の日本とは違うので要注意(←現代は衆議院で一番議席を獲得した政党の党首が内閣総理大臣になる流れになっていますよね)
※桂園時代の首相指名に関しては、元老はそこまで影響力を持てなかった(←「元老への依存から脱却しよう!」っていう意志を桂太郎は持っていた)。
桂園時代の流れ
第1次桂太郎内閣(1901.6〜1906.1)
第4次伊藤博文内閣が崩壊した後、元老は桂太郎を首相に推薦した
↓
第1次桂太郎内閣が成立(「小山縣内閣」と揶揄された)
- 「日露戦争の遂行に協力してね。そしたら次は立憲政友会に政権を譲るよ」という密約を立憲政友会と交わしていた。
- 日露戦争に勝利
- 日比谷焼き打ち事件で民衆のエネルギーを目の当たりにする
→「国民の不満を抑え込みながら政権運営をするには、政党の協力が必要だな…」
- 1904年:第1次日韓協約
- 1905年:第2次日韓協約
第1次西園寺公望内閣(1906.1〜1908.7)
- 1906年:鉄道国有法
- 1907年:第3次日韓協約
- 1907年:第1次日露協約
政党嫌いの山県有朋に妨害され、嫌気がさした西園寺は内閣総辞職を決意
→桂太郎に政権を譲る
第2次桂太郎内閣(1908.7〜1911.8)
- 1908年:戊辰詔書(→地方改良運動)
- 1910年:大逆事件
- 1910年:韓国併合
- 1911年:関税自主権回復
→条約改正の成功を機に西園寺公望に政権を譲る
第2次西園寺公望内閣(1911.8〜1912.12)
- 1911年:辛亥革命
- 1912年:明治天皇が死去
→大正天皇が即位
→桂太郎が内大臣兼侍従長に就任し、宮中で天皇を補佐する任務につく(←山県有朋が、宮中に押し込めることで桂太郎を政治的に引退させようとした)
※桂太郎は山県有朋から自立しようとしていた。
- 1912年:二個師団増設問題
→陸軍は軍部大臣現役武官制を利用して第2次西園寺内閣を総辞職に追い込む
第3次桂太郎内閣(1912.12〜1913.2)
- 桂首相は組閣にあたり元老政治から脱却する姿勢を示す
→桂首相は新しい政党(「桂新党」)の結成に乗り出した
- 第1次護憲運動が起こり、都市民衆が政府を批判
→桂太郎は約60日で総辞職(大正政変)
直後に桂太郎は病死。
→桂太郎の遺志を継いで、加藤高明が立憲同志会を結成する(→のちの憲政党→立憲民政党)。
「憲政の常道」(二大政党制)の出発点がここ!
まとめ
「スーパースターだけど、選挙で選ばれたわけではない人たちによる政治」から、「選挙で選ばれた人たちによる政治」へと移行する過渡期=桂園時代
桂園時代以前
権威の源泉=明治維新を成し遂げたという実績
→なので、明治維新を成し遂げた藩閥政治家が日本を引っ張った
桂園時代以後
権威の源泉=民衆からの支持
→なので、選挙でたくさんの議席を獲得した政党が日本を引っ張る
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