台湾の歴史を理解するためのポイント
台湾の歴史についてまとめました!
※「詳しく・細かくじゃなくていい!ざっくりでいい!」っていう人向けです
台湾の歴史の全体像
台湾の歴史はざっくり8つの時期に分けることができると思います。
- インド洋・太平洋と関わりが深かった時期
- 密貿易の拠点となった時期
- オランダが中継貿易の拠点にした時期
- 鄭氏が反清活動の拠点にした時期
- 清朝の領土になった時期
- 日本に統治された時期
- 国民党政権が統治した時期
- 民主化以降(現代)
年号 | 時期区分 | ポイント |
---|---|---|
インド洋・太平洋と関わりが深かった時期 | ||
16世紀頃 | 密貿易の拠点となった時期 | |
1642〜1661 | オランダが中継貿易の拠点にした時期 | |
1661〜1683 | 鄭氏が反清活動の拠点にした時期 | |
1683〜1895 | 清朝の領土になった時期 | |
1895〜1945 | 日本に統治された時期 | |
1945〜1991 | 国民党政権が統治した時期 | |
1991〜 | 民主化以降(現代) |
ちょっと時代区分が多くて理解するのが大変な感じがしますが、台湾という地域の本質をつかめばそんなに複雑ではない!(はず)
↓
台湾の歴史を理解するためのポイント
あまり立ち寄る必要のない辺境の島国
語弊がある言い方かもしれないけど、台湾っていう地域は決して地理的に重要な場所・価値のある場所ではない!って捉えるとわかりやすいかなと思います。
まず台湾は島国でアクセスしにくいです。
特に東側は広大な太平洋が広がっているので(そもそも)東側からアクセスする人はあまりいない。
じゃあユーラシア大陸と近い西側はどうかというと、島の西岸には実は遠浅の海が広がってるらしく、船をつけにくいとのこと。
一方で対岸には廈門(アモイ)や福州のような天然の良港があります。
であれば、わざわざ台湾海峡を渡って台湾を港として活用する必要はあまりないですよね。
しかも台湾はシンガポールのような「必ず通らなければいけない場所」にあるわけではありません。
このように、こう言うと辛辣かもしれませんが、
台湾は本来は地理的に重要な場所・価値のある場所ではないわけです。
ただ、だからこそ(このあと説明しますが)台湾は1600年頃まで「未開の地」的な場所でした。
中国も別に重要視していないし、ましてや日本も重要視していない。
島国でそもそも攻撃・侵略を受けにくいし、港としての利用価値もそんなに高くない。
だからこそ、台湾の原住民にとっては17世紀頃まで安泰な時代が長く続いたのです。
※中国が重要視していない地域であったことは、日清戦争で台湾を割譲したことからもなんとなくわかります。本当に本当に大事な場所だったら割譲しないですよね
で、ここが台湾の歴史を理解する上でのミソかなと思いますが、
台湾という地域を活用・利用する時には何かしら特別で複雑な事情・意図がある!
(例)
- 密貿易の拠点
- オランダの東アジアでの拠点
- 大陸にある政権と敵対する勢力の拠点
日本にとっては「南の島」
あと日本からの視点でも見ておきます。
日本にとって台湾は「南の島」ですよね。
赤道からそこそこ離れているので熱帯!っていうほどではありませんが、日本列島と比べると温暖で亜熱帯と言われるような気候。
気候が違えば、育ちやすい作物も違います。
つまり、台湾は日本にとってはレアなモノが手に入る貴重な場所なんです。
(例)砂糖とか
→日本は日清戦争で台湾を獲得し、統治した
※同じような理由で、日本にとって沖縄(琉球)もレアなモノが手に入る貴重な場所でした(→琉球処分)
※逆に、中国にとっては台湾のような気候は決して珍しくありません。そう考えると、中国にとって辺境にある台湾はそれほど貴重な場所ではなかったと言っても良いと思います。夢を見るドリーマーたちにとってフロンティアとしての意味はあったかもしれませんが。
中華人民共和国の隣の資本主義陣営
以上、台湾の特性について
- あまり立ち寄る必要のない辺境の島国
- 日本にとっては「南の島」
という2点を指摘しましたが、これらはともに台湾の地理と密接に結びついた特性(台湾がもともと持っている特徴に関する話)。
この他の重要な特性として、第二次世界大戦後に新たに獲得した「中華人民共和国の隣の資本主義陣営」という特性について理解することも大事だと思います。
資本主義陣営と共産主義陣営の対立が深まる中、台湾は資本主義陣営(特にアメリカ)にとって戦略上とても重要な地域になったのです。
まあしばらくしたらそっぽ向かれるんですけど・・・
ポイントのまとめ
ここまで言ったポイントを振り返ります。
台湾の歴史を理解するためのポイントは3点。
- あまり立ち寄る必要のない辺境の島国
- 日本にとっては「南の島」
- 中華人民共和国の隣の資本主義陣営
雑にまとめると、
- 台湾という地域自体はそれほど大きなパワーを持っているわけではないけど、
- 他の地域の事情により時代に応じて価値が見出されてきた
って感じです。
ということで、これだけだとなんのこっちゃ!って感じだと思うので、ここからは台湾の歴史をざっくり説明したいと思います。
台湾の歴史
インド洋・太平洋と関わりが深かった
旧石器時代
↓
新石器時代
↓
鉄器時代
台湾には17世紀に漢民族が大規模に移住してくる前から原住民が住んでいた。
台湾の原住民はオーストロネシア語族に属す。
※オーストロネシア語族=台湾から東南アジア・太平洋・マダガスカルに広がる語族
このことから、台湾はインド洋・太平洋地域と関わりが深かったことが推測される。
密貿易の拠点となった(16C頃)
16世紀頃、台湾が中国人・日本人にとって利用価値がある地域となった。
(理由)
・もともと日本と中国の貿易は盛んに行われていて、明の時代には日中貿易はそれぞれの国のトップ公認の人物によって正式な形として行われていた(←勘合貿易)
=わざわざ台湾を経由する必要はなかった
↓
・しかし16世紀頃、中国側で「権力に縛られず自由にもっともっと貿易したい!」っていう人が続出した
- 日本で銀がたくさんとれるようになった(←銀山の発見、灰吹法)
- 日本は中国産の良質な生糸を求めていた
- 中国(明)で銀の需要が高まった(←銀で税を納める必要)
・それぞれの国のトップ公認の人物が貿易を行うというシステム(勘合貿易)は現実に合わなくなっていた
↓
・が、それでも明朝は民間人による自由な貿易(日本と中国間でのモノのやり取り)を認めず。。。
・もし中国沿岸で勝手に貿易(密貿易)をしたら取り締まりにあう状況(→倭寇)
・じゃあどうするか?
・彼らは中国沿岸で密貿易をするだけでなく、明朝の目が届かない台湾などを待ち合わせ場所にして密貿易を積極的に行なった!
↓
・しかも日本で勘合貿易をコントロールする勢力が衰退(室町幕府の衰退後に貿易の実権を握った大内氏が1557年に滅亡した)
・正式な貿易再開の見込みがなくなり、民間人による貿易が活発になった
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ヨーロッパ人も参入して日中貿易がさらに活発になった
- 1557 ポルトガル人のマカオ居住が認められた
- 1567 明朝が中国人の海外渡航・貿易を認めた
- 1571 スペインがマニラを建設
中国人の海外渡航・貿易が認められたことにより、密貿易の拠点としての台湾の価値は低下したと思われるが、、、
今度はオランダが台湾を利用することになった。
オランダが中継貿易の拠点にした(1642-1661)
日本の「鎖国」政策によって締め出されたポルトガルやスペインに代わって、オランダが台頭
オランダは本当はポルトガルが拠点にしているマカオを拠点にしたかった(武力で奪いたかった)けど、失敗
→オランダは仕方なく台湾を東アジア貿易の拠点に位置づけた
鄭氏が反清活動の拠点にした(1661-1683)
しかし、オランダは台湾から駆逐されてしまう
=オランダは台湾という拠点を失うことになった
(理由)
・中国本土で明朝が滅亡(by李自成)
・新たに成立した清朝に反発した海賊(鄭成功ら)が、1661年に台湾のオランダ人を駆逐して台湾を占領
以降、台湾は反清活動の拠点として機能することになった
清朝の領土になった(1683-1895)
清朝の4代皇帝 康熙帝は海禁政策で台湾を経済封鎖し、鄭氏政権を倒した
→1683 清朝は台湾を直轄領とした
※ただ、清朝にとって台湾はそれほど重要な地域ではなかったらしく、「台湾は放置しようかな…でも放置したらまたヨーロッパ人に占領されちゃうかもしれないしなー…仕方ないなあ」って悩んだとのこと
その後、中国からたくさんの漢民族が台湾に移住した
=ここから台湾が「中国」化した
が、一方で世界の歴史の表舞台からは再び姿を消すことに
わざわざ台湾を貿易の拠点として利用する必要はないので。。
日本の接近
しかし、19世紀後半から始まった日本の近代国家化・領土画定の動きとともに、台湾はまた歴史の教科書に登場することになります。
江戸幕府が滅亡して新たに成立した明治政府は、「欧米の近代のルール」に従って「どこまでが”日本”なのか?」をはっきりさせようとした。
- 「欧米の近代のルール」では、国境があいまいなのはダメ
- しかし、「アジアのルール」の中にいた当時の日本の国境線はあいまいだった
国境線があいまいな地域の1つが、台湾の隣にあった琉球王国。
琉球王国は「日本にもしたがっているし、中国にもしたがっている」という日中両属状態にあった。
そこで、明治政府は琉球王国を”日本”に組み込もうと意気込んでいた。
そんな状況において、1871年に台湾において琉球王国が関わるトラブルが発生。
台風により台湾に漂着した琉球民が、なんと台湾原住民に殺害されてしまった(54名が死亡した)。
- 日本からしたら「(これから日本人に組み込もうとしている)琉球民が殺害されてしまった!うちの国民になんてことをっっ!」って感じ。
- ところが、中国は「台湾の原住民は清朝の支配が及ばない人達だからなあ・・・」というリアクション
ってことで、怒った日本は1874年に台湾に軍隊を派遣(台湾出兵)。
日本と清朝の交渉により、
- 琉球は日本の領土
- 台湾は清朝の領土
という合意に至った。
1894-95 日清戦争
日清戦争は日本の勝利に終わり、1895年に日本と清との間で下関条約が結ばれた。
- 清は遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に譲る
その後50年間、台湾は日本に統治されることに。
※下関条約で台湾が日本の領土になったことで、「琉球は中国のものか?日本のものか?」問題に決着がついた(←「台湾が日本のものなら、台湾と日本にはさまれている琉球も日本のものでしょ」)
日本に統治された(1895-1945)
台湾で「日本統治反対!」っていう反対運動が起きたが、日本は軍隊を派遣して対抗した。
- 1895 台湾総督府(初代総督:樺山資紀)
- 1895 乙未戦争(いつびせんそう)
台湾総督府による植民地統治が始まったが、その後も現地住民によるゲリラ的な抵抗が続いた。(〜1915頃)
- 1898 土地調査事業(→土地所有権を確定)
- 鉄道の敷設
- 港湾の整備
- 砂糖や樟脳、米の生産
1945 日本敗戦
- カイロ宣言に基づいて台湾・澎湖諸島が中国に返還された
「犬去りて、豚来たる」(1945-1947)
日本の台湾総督府に代わって、蒋介石率いる国民党政権が台湾統治を始めた。
- 中国本土から官僚や軍人が台湾へ渡ってきた
- 民衆は党幹部の腐敗に失望
- 物資不足に陥って激しいインフレが起きた
1947 二・二八事件
- 激怒した民衆が台湾政府に抗議
- 政府は民衆を武力で弾圧
- 戒厳令が発令された
国民党統治・白色テロの時代(1947-1987)
1947 国共内戦が本格化
蒋介石(1948-1975)
1949 国民党政権が戒厳令を布く(国家の緊急事態を理由に)
※1987年まで継続
1949.12 敗北した国民党政権は台湾に逃れ、台湾で中華民国政府を維持した
- 社会主義国やイギリスは中華人民共和国を「中国」とした
- アメリカ合衆国は中華民国を「中国」とした
1950年代から工業の発展に力を入れた(輸入代替型工業化)
- 1954 台湾プラスチック(by王永慶)
1960年代からは輸出指向型工業化が進んだ
※ベトナム戦争時にアメリカが台湾から軍需物資を調達したため、台湾経済は活況を呈した
1970年代に台湾は岐路に立たされた
・蒋介石の衰え(1969 交通事故、1972 肺炎)
・国際的な立場が揺らぐ
- 1971 国連の中国議席が中華民国から中華人民共和国に継承された
- 1971 怒った中華民国は国連から脱退
- 1972 アメリカ大統領ニクソンが訪中
・1973 オイルショック
たぶんこのあたりの時期から、台湾は国際社会で生き残るためにどうすればいいか?を模索し始めたんだと思う
- 1973 行政院長の蒋経国が大規模インフラ整備計画を打ち立てた(十大建設)
1975 蒋介石が死去
厳家淦(1975-1978)
蒋介石が任期中に病死したため総統に就任
実質的には蒋介石の息子 蒋経国が実権を握っていた
蔣経国(1978-1988)
アメリカとの関係が悪化した
- 1979 米中国交正常化
- 1979 アメリカと中華民国が断交
台湾は国際社会においてどんどん立場がなくなっていく(追い詰められていく)
→大改革!
- 民主化(←中華人民共和国との差別化という意味合いがあったのでは?)
- 付加価値が高いエレクトロニクス産業に思いっきり投資して、世界から必要とされる国になるぞ!不可欠な国に
民主化へと動き始めた
- 1979 美麗島事件(民主化運動)
- 1987 戒厳令を解除
なぜ戒厳令を解除した?なぜ民主化運動が起きた?
- レーガン政権が戒厳令の解除を求めた
民主化以降の時代(1991〜)
李登輝(1988-2000)
国民党
民主化を推進
- 1996 初の中華民国総統選挙
陳水扁(2000-2008)
民進党
2000 総統選挙で民進党の陳水扁が当選(史上初の政権交代)
馬英九(2008-2016)
国民党
2008 三通(中国と台湾の「通商」「通航」「通郵」)が実現
2009 中国資本による台湾への投資が解禁された
2014 ひまわり学生運動
蔡英文(2016-2024)
民進党
頼清徳(2024-)
民進党