シンガポールの歴史についてざっくりまとめました!
※写真はシンガポール国立博物館、旧フォード工場で撮ったものです
シンガポールの歴史
シンガポールの歴史を知る上で重要なのは「シンガポールがむっちゃ良い場所にあった」ってのを理解することだと思います。シンガポールは交易の拠点として有利な場所。
シンガポールの地理的特徴
- インド洋と南シナ海をつなぐマラッカ海峡にある(→ヨーロッパから中国に船で行きたかったら、シンガポールの横を通る必要がある=シンガポールに拠点を作ると中国との交易をしやすくなる)
古代まで
よくわかっていない(記録が全然ない)ので省略
シンガプラの時代(中世)
14世紀、マレー世界の交易拠点(港)として栄えていた!
- 地元で作られた陶器やラカの木、中国の磁器や石器が取引された
- シュリヴィジャヤー王国の王子(マレー人)がシンガポールを発見し、ライオンらしき動物を見つけた→その島をシンガプラ(獅子の街)と名付けた
↑交易の拠点だったことがよくわかります
その後、シンガプラは滅亡(くわしいことはよくわかっていない)
↓
シンガポールは歴史の表舞台から姿を消し、小さな漁村へと変化
イギリス直轄植民地の時代(近世)
マラッカ海峡の重要性がアップ
16世紀頃から、インド洋と南シナ海のつなぎ目(マラッカ海峡)の重要性がアップします
(理由)
- ヨーロッパ人が船でいろんなところに行けるようになった(大航海時代)
※陸路で中国に行くこともできたけど(シルクロード)、船の方がモノを大量に楽に運べて便利
※ヨーロッパ人は異国の珍しいモノが欲しかった(例:東南アジアの胡椒・香料、中国の生糸、インドの綿布)
そのマラッカ海峡の中で重要な場所だったのはマラッカでした(@現在のマレーシア)
(理由)
- 明がインド洋に遠征する際の重要な拠点だったので、国際交易都市として発展していた(鄭和の遠征)
↓
1511 ポルトガルがマラッカを占領
↓
1641 オランダがマラッカを占領
※オランダの東南アジアにおける拠点はジャワ島のバタヴィア(現在のジャカルタ)だったので、シンガポールの重要性は相対的に低かった
イギリスがシンガポールに目をつける
ここまでシンガポールは全然重要な場所じゃなかったんだけど、、、
イギリスがシンガポールに目をつけます!
(理由)
- イギリスは(イギリス東インド会社は)インドを支配していた
- さらに「マラッカ海峡を経由して中国と貿易をしたい!」って思っていた
- そのためには水や食料を補給する寄港地が必要だけど、マラッカはオランダの支配下にあった
※イギリス東インド会社:アジアとの香辛料貿易における巨大な利益を求めて1600年に創設された民間会社
↓
イギリス東インド会社に勤務していたラッフルズという人が、小さな漁村だったシンガポールを拠点にしよう!って考えた
↓
いろいろあり(くわしくは省略)、シンガポールはイギリスの支配下に置かれた(イギリスによる領有が確定したのは1824年)
※1826 マレー半島のペナン・マラッカ・シンガポールを海峡植民地に
ラッフルズによるシンガポール建設
↑真ん中にいるのがラッフルズ
当時小さな漁村だったシンガポールを一気に発展させたのがラッフルズ(←超重要人物)
- シンガポールをアジア貿易の中心地にするべく、1820年に「自由港宣言」を発する
- 1822年に貿易と商業が発展するための都市計画を策定
- 港湾や操船所、政庁、警察署などを建設
- 民族別の居住区を作る
ラッフルズは「シンガポールの建設者」と言われている
移民社会の成立
1870年代からイギリスは港市だけでなくマレー半島(マラヤ)の支配に積極的に介入していった(→1895 マレー連合州)
※海峡植民地:イギリスの直轄領域
※マレー連合州:イギリスの間接統治を受ける保護国
↓
マレー半島でゴムのプランテーション開発と錫鉱山開発を行う
※ゴムは自動車生産と結びつく有力な商品として20世紀以降注目された
↓
シンガポールはゴム・錫の中継・加工貿易港となり、それにともなって移民がたくさん流入
華人
- 錫鉱山の労働者として出稼ぎにやってきた(ほとんどが中国南部の出身)
- シンガポールは「仮の宿」っていう認識
- イギリスは中国移民に法的保護をほとんど与えなかった
- そのため、出身地の血縁・地縁を利用した互助的なネットワークを形成した
マレー人
- ほとんどがマラヤやオランダ領東インド(インドネシア)からの移民
- イギリスは植民地支配において、土地所有や公務員採用に先住民であるマレー系を優先した(→ビジネスに参入したマレー人が少なく、このことが現代におけるマレー系の地位の低さにつながっている)
インド人
- 南インドの囚人が建設労働者として連れてこられた
- 囚人労働は1873年に禁止されたが、労働期限を終えても多くのインド人は帰国しなかった
- その後、インド南部タミル州からゴム園労働者、建設・港湾労働者として大量の移民がやってきた(低いカーストに属する者がほとんど)
プラナカン
- かなり早い時期にシンガポールに移住し、現地女性と結婚するなどして土着化した人々
- 英語教育を受けて社会的地位の高い職業に就いた人が多い
日本軍政期:昭南島の時代(1942〜45)
日本に占領されるまで
1894〜 日清戦争の頃からシンガポールに居住する華人に反日感情が芽生えていた
1914〜 第一次世界大戦中はヨーロッパ製品の輸入が途絶えたため、代わりにシンガポールに日本企業が進出した(1915 二十一か条の要求→日本製品ボイコット運動)
1931〜 満州事変→華人の反日感情が一気に燃え上がった
1937〜 日中戦争→シンガポールは抗日救国運動の拠点になった
1941〜 太平洋戦争
1942.2.8 日本によるシンガポール侵攻
1942.2.15 イギリスが降伏
日本占領後
シンガポールは日本陸軍による軍政が敷かれ、「昭南島」と命名された
イギリス時代よりも徹底した民族別の支配が行われた
- マレー人を優遇(泰緬鉄道の工事に駆り出された人も多かったけど)
- インド人も比較的優遇(泰緬鉄道の工事に駆り出された人も多かったけど)
- 華人は冷遇された(シンガポールが東南アジア華人の抗日救国運動の拠点だったから)
日本が華人に対して行ったこと
- 「抗日分子」「共産主義者」を粛清
- 日本軍は抗日救国運動の「償い」として華人に強制献金を課す
その他、学校で日本語教育が強制されたり、伊勢神宮を模して昭南神社が造られたりと、「日本化」が行われた
占領終了後
イギリスの植民地に戻る
日本敗戦後、1941年9月1日にイギリスはシンガポールを再び直轄植民地とした
しかし、日本による占領を受けたことが「植民地支配を打倒して、自分達の国家を作ろう!」という決意につながった
1957 マラヤ連邦がイギリスから独立
1959 シンガポールがイギリスの自治領に
マレーシア連邦に
1963 マラヤ連邦、ボルネオ島のサバ・サラワク両州とともにマレーシア連邦が成立
シンガポールはマレーシアと一体化した!
シンガポールの分離独立
1965 シンガポールがマレーシア連邦から追放される形で分離独立した
シンガポールの立場
- マレーシアは経済的に重要(ゴムと錫が豊富&市場として魅力がある)
- マレーシアに経済協力をしてほしい
- シンガポール単独だと華人が圧倒的多数派になってしまうので、マレーシアと一緒の方が都合がいい
マレーシアの立場
- シンガポール経済を抑え込んでマレー系を優遇したい
- シンガポールと一体化することで、シンガポールの中心にいる華人に政治的支配を及ぼすことができる
つまり、どちらにとっても華人は厄介な存在だったということ。しかし経済協力に関してシンガポールとマレーシアは足並みが揃わなかった。
↑シンガポールの首相リー・クアンユーが涙を流しながら独立を説明
マレーシアからの分離独立後
※編集中
1965〜
外資系企業を誘致して経済発展を加速させる
輸出志向型工業化政策(労働集約型の電機・電子産業から石油化学などの資本集約型産業に幅を広げる)
※日本を利用
1985年に独立後初めて景気後退に直面
(理由)
- 第二次石油危機
- 1979年からスタートした高賃金政策によるコスト増(資本集約型産業への転換のため)
↓
金融、物流などのサービス産業誘致へ政策を転換
1997 アジア通貨危機
2001 ITバブル崩壊
2003 新型肺炎(SARS)
電機・電子分野などの工場が閉鎖・撤退し、他の東南アジア諸国や中国に移転した
↓
バイオメディカルなどの知識集約型産業誘致へ転換
ASEANの域内経済統合の推進
FTA締結を進める
法人税引き下げ、外国人受け入れに関する規制緩和、カジノ解禁
2010年以降、政府は外国人労働者の伸びを抑制する方向へ転換
参考文献
通信教育
学習漫画・参考書
社会科チャンネル
社会科(歴史・地理・公民・政治経済)の内容について、本質的な部分をわかりやすく解説するチャンネルです。