広田弘毅内閣についてまとめました!
広田弘毅内閣(1936.3〜1937.2)
二・二六事件の後の「軍部に逆らえない」「誰も総理大臣になりたがらない」時期に成立
日本の軍国主義化を決定づけた内閣
広田弘毅はどんな人?
外務省出身のエリート(首席合格)。同期に吉田茂がいる。
戦後、東京裁判でA級戦犯に→絞首刑
※文官として唯一のA級戦犯
成立
二・二六事件が鎮圧された後、岡田内閣が総辞職して、代わって1936年3月に広田弘毅内閣が成立。
※当時、二・二六事件の後だったので「軍部に逆らうと殺される」という風潮があり、総理大臣になりたがる人はいなかった(参考:Wikipedia)
※組閣にあたって、陸軍から人事に対して反発があった。
二・二六事件によって陸軍の主導権を握った統制派(陸軍内のエリート軍人層)が、広田内閣に圧力をかける。
→軍の要求にしたがって、さまざまな政策を実行
内政
軍部大臣現役武官制を復活させる(1936年)
軍部大臣現役武官制
陸軍大臣と海軍大臣を現役の大将・中将から任用する制度。
陸軍や海軍が内閣を自由に倒すことができる制度として機能した。
(理由)陸軍や海軍が自分の軍から次の大臣を出さなければ、軍部大臣が欠けることになって内閣が成立しなくなるので
※1913〜36年の間は、軍部大臣現役武官制は改正されていました!
大正政変後に成立した第1次山本権兵衛内閣において、過去に山県有朋内閣のもとで行われた政策を修正する政策が行われた。
軍部大臣現役武官制の改正(1913)
陸軍大臣と海軍大臣の任用資格を「現役」だけでなく「予備役・後備役」まで拡大
→軍部の意向により内閣が総辞職に追い込まれにくくなった
しかし、1936年に「現役」規定が復活してしまった・・・
軍部大臣現役武官制の内容の変化
- 1900〜1913:現役のみ
- 1913〜1936:予備役・後備役まで拡大
- 1936〜1945:現役規定が復活
帝国国防方針を改定して「国策の基準」を策定(1936年)
→南方へ漸進的に進出する方針を決定!(南洋諸島、東南アジア)
※1936年末にワシントン海軍軍縮条約とロンドン海軍軍縮条約が失効したため(=軍艦を作れるようになった)
※南進を初めて国策として提示した
大規模な軍備拡張計画を推進
※海軍:戦艦大和・武蔵など
文部省が「国体の本義」を発行
→全国の学校・官庁に配布
国体の本義
「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」
国家主義的教育を強化…!
満蒙開拓移民
1945年の敗戦までに27万人が移住した(長野県からの移民が最大)。
(目的)
- 日本の農村での人口過剰を解消する
- 満州の治安を維持する
↓
満州国では五族協和(日本・中国・満州・朝鮮・蒙古)が掲げられたが、実際には実現せず(日本人が地主、中国人が小作人…という関係に)
↓
1945年8月9日のソ連参戦・満州侵攻により、開拓民は難民に(約8万人が犠牲に)
→中国残留孤児問題
外交
新たな国際関係づくり
1935年に国際連盟を脱退
→新たな国際関係づくりをする必要があった(理念:防共)
日独防共協定(1936年)を締結してソ連に対抗
総辞職
軍と政党の双方に反発され、1937年1月に総辞職
- 軍「国内改革が不徹底だ!」
- 政党「大軍拡には反対だ!」
※腹切り問答
1937年1月、衆議院本会議で衆議院議員と陸軍大臣との間で起こったやり取り。
衆議院議員が軍部の政治干渉を批判
→陸軍大臣「軍を侮辱しているようだが?」
→衆議院議員「どこが侮辱?速記録を調べて、侮辱する言葉があったなら割腹して謝罪する!なかったらキミが割腹せよ!」
→大混乱に陥り、議会は翌日から停会
→陸軍大臣が広田弘毅首相に「議会を解散しろ!解散しないなら俺が辞職する!」と要求
→広田弘毅は総辞職
参考:Wikipedia
→日中戦争
動画でも確認
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参考文献
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