【日本史】豊臣秀吉の政策をわかりやすく(太閤検地、兵農分離、朝鮮出兵)

本記事では、豊臣秀吉の統一事業について説明をします!
豊臣秀吉の統一事業
織田信長とその後の豊臣秀吉が大きな権力を握っていた状態のことを、織豊政権と言います。1573年の室町幕府滅亡から1603年の江戸幕府成立までの約30年間です。
今回は、この織豊政権の後半。1582年の本能寺の変で織田信長が自害した後の、豊臣秀吉の時代についての話です。
4つに分けて話をします。
- 信長の後継者争いで、秀吉が勝った
- 朝廷の権威を利用しつつ、秀吉が天下統一を実現した
- 秀吉が近世社会の基礎を作った
- 秀吉の外交

信長の後継者争いで、秀吉が勝った
まず、織田信長が死んだ後の信長の後継者争いについてです。
秀吉は織田信長の家来でした。この時はまだ羽柴秀吉っていう名前。(豊臣秀吉って名乗るようになるのは、もうちょっと後)
で、羽柴秀吉は本能寺の変で織田信長を自害に追い込んだ明智光秀を倒します。(1582年:山崎の戦い)
その結果、羽柴秀吉は織田政権の中でリーダーシップを取れるようになりました。

よく「ここ一番の大勝負」の時に「天王山を迎える」って言ったりしますよね。
あれは、この山崎の戦いが語源らしいです。羽柴秀吉の軍と明智光秀の軍が戦った山崎の戦いって、京都にある天王山のあたりで行われたようです。
秀吉はさらに、1583年に織田信長の家来の中で重要人物だった柴田勝家を倒しました。(1583年:賤ヶ岳の戦い)
こうして、羽柴秀吉は織田信長の後継者としてのポジションを確立。ゲットした大坂エリアの中の石山本願寺の跡地に大坂城を作って、そこを拠点にしました。

ただ、羽柴秀吉は織田信長の子供である織田信雄と対立することになりました。で、バトルが起きます。
羽柴秀吉は徳川家康と同盟を結んだ織田信雄と戦うことになりましたが、この戦いに秀吉は勝利。(1584年:小牧・長久手の戦い)
こうして、羽柴秀吉は政治のリーダーシップをガッツリと取れるようになりました。
朝廷の権威を利用しつつ、秀吉が天下統一を実現した
その後、羽柴秀吉は朝廷の権威(オーラ)を利用しつつ、天下統一を実現していきます。
朝廷の権威を利用
まず、1585年に羽柴秀吉は関白になります。関白っていうのは天皇のサポートをする役職です。
そして、秀吉は1586年には太政大臣になって天皇から豊臣っていう姓をもらいます。(ここから、豊臣秀吉と名乗るようになる)
太政大臣っていうのは、天皇の周りで仕事をする役人の中でトップの人です。

さらに、平安京の宮城(天皇の家)の跡地に聚楽第(じゅらくてい)という建物を作って大坂城から移動し、1588年には天皇(後陽成天皇)を招待しました。
そこで、戦国大名を集めて「天皇と秀吉に従うこと」を誓わせました。
このように、秀吉は朝廷の権威(オーラ)を利用して天下統一を実現していったのです。
教科書だと鎌倉時代あたりから天皇の存在感って薄くなりますけど、実際には、武士(大名)が権力を握るうえで天皇との関係性を作ること(権威=オーラを利用すること)は重要なことでした。※武士にとって征夷大将軍に任命されることが大事だった・・・ってのも同じ

このように朝廷の権威を利用していく中で、秀吉は歴史上、超重要なことを行います。
惣無事令
秀吉は、「天皇から全国の支配を任されたんだ」って言って、全国各地の戦国大名たちに「もう戦うのはやめなさい!支配領域の争いの解決は私(秀吉)に任せるんだ」って伝えました。
この「戦闘の停止と領地の確定を秀吉に任せる命令」を惣無事令(そうぶじ れい)と言います。

これ、むちゃくちゃ大事です。
平安時代末から始まって、鎌倉時代、室町時代、戦国時代と続いてきた「中世」は自力救済の時代(自分のことは自分でなんとかする時代)でした。
(正確に言うと、平安時代末から戦国時代までは「自力救済」(自分のことは自分でなんとかする)という特徴が共通しているので、まとめて「中世」って分類されている)
例えば、武士が力を伸ばしたり、一揆が結ばれたり、村や都市で自治が行われたり、、、っていうことがありましたが、これらは全て「自力救済」(自分のことは自分でなんとかする)の現れです。
そんな「自力救済」の時代が秀吉の惣無事令によって終わります。
惣無事令は「もう自力救済はするなよ。トラブルが起きたら自分たちで実力で解決するんじゃなくて、私(秀吉)に任せろよ」ってことです。

ただ、急に「自力救済」が否定されたわけではありません。
戦国大名は、自分の支配地域(領国)の中のルール(分国法)で喧嘩両成敗を定めていましたよね。
喧嘩両成敗は、「俺が解決するから、お前らお互いに手を出すなよ。手を出したら、お互い処罰するからな。」っていうルールでした。
このように「自力救済」を禁止する考え方は以前からありました。
が、秀吉はその喧嘩両成敗の原理を全国に広めて、さらに前に押し進めたっていうことです。
で、このあとの江戸時代は「自力救済」が否定された時代です。約260年間も「平和」が続くことになりました。
つまり!
「自力救済」の時代である中世から「自力救済」が否定された近世へと移り変わっていく間の時代=織田信長や豊臣秀吉の時代
ということです!
そして、惣無事令は中世から近世へと移り変わるうえでの象徴的な出来事だったので超重要です。

で、いよいよ天下統一です。
秀吉は、惣無事令に違反したという理由で各地の戦国大名を倒していきます。
- 九州平定(島津)
- 小田原平定(北条)
小田原攻めの際に、伊達政宗ら東北の大名たちが秀吉に従うことになって、1590年に天下統一(全国統一)が完成しました。
小まとめ
秀吉は織田信長の後継者争いに勝って、政治のリーダーシップをガッツリと取れるようになった。
秀吉は朝廷の権威(オーラ)を利用して、天下統一を実現していった。
秀吉は「戦闘の停止と領地の確定を秀吉に任せる命令」(惣無事令)を出した。
秀吉は、惣無事令に違反したという理由で、各地の戦国大名を倒し、1590年に天下統一(全国統一)を実現した。
豊臣秀吉の政策
秀吉が近世社会の基礎を作った
秀吉は近世社会の基礎を作ったという話をします。この後の江戸時代につながる話で、むちゃくちゃ大事です。
2つ話をします。
- 全国の土地の価値が米の生産力(石高)で表された社会になった(石高制)
- 武士と農民との身分の区別がはっきりした社会になった(兵農分離)

全国の土地の価値が米の生産力(石高)で表された社会になった(石高制)
秀吉は全国の土地の調査をしました。秀吉が行った全国の土地の調査のことを太閤検地(たいこう けんち)と言います。(秀吉が関白を辞めた後に、太閤と呼ばれたので)
土地は富を生み出す基盤なので、その土地についてしっかりとした情報(「この土地からはお米がこれくらい取れる」のような情報)を持っておくことって大事です。
が、戦国大名も自分の領国で土地の調査(検地)を行なっていたものの、みんなそれぞれのやり方でやっていたので測定をする時の基準がバラバラでした。
そこで秀吉は、全国統一の基準を作って検地を行います。これが太閤検地です。
太閤検地では、一人一人が管理している土地の面積を調べました。
土地の面積を調べるときの基準は「1歩」です。1歩はだいたい「畳を2枚並べた大きさ」です(左足、右足、って歩いた時の長さが1歩の由来らしい)。で、300歩=1段(たん)としました。1段はだいたいテニスコート4面分の大きさです。

こうやって土地の面積を調べたんですけど、土地の面積だけ調べてもあんまり意味がないですよね。土地によってどれだけの収穫物をゲットできるのか?は違うので。
ってことで、太閤検地ではそれぞれの土地の生産力(どれだけの収穫物をゲットできるのか?)も調べました。
秀吉は土地の生産力を「その土地でとれる米の量」で表すことにしました。(その土地で米を生産していなかったとしても、土地の価値を米の量で換算して表した)

米の量は体積で測定します。体積の表し方は現代でも使われているやつ。
1石=10斗=100升=1000合
(1合は、現代だとお茶碗2杯分くらい)
で、秀吉は、1升を測定する基準として京枡っていう枡を使うことにしました。全国統一の基準です。
こうして、土地1段あたりの土地の生産力を調べました。この1段あたりの生産力のことを石盛と言います。


ここまで来たら、石盛×面積という計算をすれば、ある範囲の土地の生産力を表すことができますよね。この石盛×面積のことを石高と言います。
この太閤検地によって、各地の大名がそれぞれ支配している土地の石高が明確になりました。全国の土地の価値が米の生産力(石高)で表された社会になったんです。この仕組みのことを石高制と言います。
石高制は主従関係の基準にもなりました。大名は、自分が支配している土地の石高に応じた規模の軍隊を準備することになったんです。
武士と農民との身分の区別がはっきりした社会になった(兵農分離)
また、秀吉の政策によって武士と農民との区別がはっきりした社会になりました。
それまでは、農民の中には自ら武装をして武士と主従関係を結んで侍身分を獲得していた人がいました(地侍)。農民っていう「支配される側」でありつつ武士という「支配する側」でもあった、っていう人たちです。
そのような人たちが、秀吉の政策によっていなくなります。これを兵農分離と言います。

この兵農分離が実現するうえで、重要な政策を3つ説明します。
1つ目が太閤検地です。
太閤検地では、1区画の土地ごとに年貢を負担する責任者を1人登録しました。これを一地一作人の原則と言います。
- 管理を認められた土地の石高に基づいて年貢を負担するのが農民
- その年貢を受け取り、石高に応じた軍役を負担するのが武士
という形で、身分の区別がはっきりすることになりました。
ちなみに、この一地一作人の原則によって中世までの荘園制は否定されて、「この土地は一体だれのものなんだ?」っていうことがなくなりました。

2つ目が刀狩です。
秀吉は1588年に刀狩令を出して百姓が武器を持つことを禁止しました。(※百姓=農業・林業・漁業をしている人々)
これは「あなたは百姓として生きていくことを選んだんだから、武器はいらないでしょ」ってことで、一揆を防止して農民を農業に専念させるための政策です。
と同時に、刀狩には武士と農民を見た目ではっきり区別しようっていう狙いがあったらしいです。
武士って刃物を腰に2本指していますよね。長いやつと短いやつを1本ずつ(長いやつを刀、短いやつを脇指と言います)。刀と脇指の二本を腰に指して持ち運ぶことを帯刀と言いますが、刀狩によって農民は帯刀の権利を原則禁止されました。
この結果、見た目で武士か農民かがはっきりわかるようになりました。

3つ目が人掃令です。(高校レベル)
これは豊臣秀吉が行なった朝鮮出兵のための政策なんですけど、武士と農民の身分をはっきり分けることにつながったので「身分統制令」って呼ばれることもあります。
武士には自分の召使い的な存在がいました。戦いの時には一緒に参加して、戦いがない時には雑用的な仕事をする人です。このような人のことを武家奉公人と言います。
また、戦いをする時には戦場に食糧や武器などを運ぶ人が必要です。この役割を果たした人のことを陣夫(じんぷ)って言うんですけど、陣夫は百姓が担っていました。
で、(このあと説明しますが)豊臣秀吉は1592年から朝鮮出兵を行います。戦いなので、武家奉公人や陣夫が必要です。
そこで、人掃令というものを出しました。
これは武家奉公人が町人や百姓になったり百姓が商売を行なったりすることを禁止したルールです。朝鮮出兵の際に武家奉公人や百姓がいなくなると困るから、こういうルールを出したわけです。
1592年には、武家奉公人・町人・百姓の職業別にそれぞれの人数などを調査する政策を全国の村で行ったようです。
この結果、武士と農民の身分がはっきりと分かれることになって、兵農分離が実現しました。

まとめると、
- 太閤検地の一地一作人の原則
- 刀狩
- 人掃令
によって、武士と農民との区別がはっきりした社会になったということです。(兵農分離)
秀吉の外交
秀吉が行った外交について話をします。
ポイントは2つです。
- 南蛮貿易を積極的に行いたかったので、キリスト教の取り締まりは中途半端になった
- 「日本を東アジアの中心にするぞ!」ってことで朝鮮出兵を行なった

南蛮貿易とバテレン追放令
ポルトガル人やスペイン人との貿易である南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動とくっついて行われていました。
そんな中で日本でも当然のようにキリスト教徒が増えていったわけですが、なんと、ある事件が発覚します。
肥前の大村純忠っていう人が、「イエズス会に長崎を差し上げます!」ってことをしちゃっていたんです。秀吉からしたらビックリですよね。「おいおい、それはさすがにやりすぎだろ」と。
ということで、秀吉はキリスト教の取り締まりを行いました。
- 一般人がキリスト教を信仰するのは、「その者の心次第」
- 大名がキリスト教を信仰するのは、秀吉の許可が必要
としたうえで、宣教師に国外追放を命じました。(バテレン追放令)
ただ一方で、秀吉は南蛮貿易で得られる利益はゲットしたかった。
そこで、1588年に海賊取締令っていうのを出して倭寇などの海賊行為を禁止して海の平和を実現しようとします。そして、南蛮貿易は積極的に行おうとしたんです。
南蛮貿易自体が宣教師の布教活動とくっついて行われていたので、宣教師を国外追放しつつ南蛮貿易を積極的に行うのって矛盾していますよね。
ってことで、結局、キリスト教の取り締まりは中途半端になりました。(これが、後々の「鎖国」につながります)

朝鮮出兵
また、東アジアの中心とされていた中国(明)が衰えている中で、秀吉は「日本を東アジアの中心にするぞ!」ってことで、明を征服しようとしました。
で、明に攻め入ることを目指して朝鮮へと出兵することになりました。
1回目の文禄の役(1592年)では李舜臣っていう人が率いた朝鮮水軍っていうのがむちゃくちゃ強くて、日本は苦戦。
で、日本は仲直りをしようとしたんですけど、そこでまたトラブルが起きて、結局、2回目の出兵をすることになりました。(1597年:慶長の役)
結局、途中で秀吉が死んで「戦いは終わりだー!」ってことになり、朝鮮出兵は終了しました。






秀吉が死んだ後、いよいよ徳川家康が力を伸ばします。
まとめ
秀吉は太閤検地と石高制により、全国の土地の価値が米の生産力(石高)で表された社会を作った。
秀吉は太閤検地と刀狩と人掃令により、武士と農民との身分の区別がはっきりした社会を作った。(兵農分離)
石高制と兵農分離は、近世社会の基礎となった。
秀吉はキリスト教を取り締まろうとしたが、一方で南蛮貿易を積極的に行おうとしたため、キリスト教の取り締まりは中途半端になった。
秀吉は「日本を東アジアの中心にするぞ!」ってことで、明を征服しようとした。













