【日本史】南蛮貿易をわかりやすく:なぜポルトガルは中継貿易を行った?

南蛮貿易について説明します!
南蛮貿易とは
日本が主にポルトガル人と行った貿易のことを南蛮貿易と言います。
(ポルトガル人やスペイン人のことを南蛮人って呼んでいました)
ポルトガル人による中継貿易
1557年にポルトガル人が中国のマカオに住みつくことを認められて以降、ポルトガル人は日本と中国の間に入って中継貿易をしました。
- 日本の銀をポルトガル人が中国に持っていって、中国の生糸と交換する。
- 中国の生糸をポルトガル人が日本に持っていって、日本の銀と交換する。


これがポルトガル人が行った中継貿易です。いわゆる転売です。転売をすることによって転売ヤーが儲かるのは、現代も昔も同じです。
日本の銀に目をつけた
ここで重要なのが、日本で銀がたくさんとれるようになったということ。
灰吹法っていう、鉱石から銀を取り出す方法が朝鮮半島から日本に伝わった結果、石見大森銀山などからの銀の生産量がむちゃくちゃ増えたんです。
その銀を狙ってポルトガル人がやってきた。

一方、中国(明)では銀が必要とされていました。税として銀を納めなきゃいけなかったらしく、中国の人々が「銀をゲットしたい!」って思っていた。
ただ、戦国時代になって日明貿易がストップしていました。中国は日本の銀を直接ゲットすることはできません。
ポルトガル人はそこに目をつけたんだと思います。「銀がとれる日本」と「銀を求めている中国」の間に入って中継貿易をして、がっぽり儲けよう、と。

キリスト教の布教とセット
ちなみに、この南蛮貿易はキリスト教の布教とセットになっていました。ポルトガル人は、「キリスト教を広めていいよ」って言ってくれた戦国大名の港にだけ入るようしたんです。
こうして、ポルトガル人はキリスト教を広めつつ、がっぽり儲けることに成功しました。
なぜ中国と日本が直接貿易をしなかったのか?
ブログの読者の方から、
「南蛮貿易でなぜ中国と日本が直接貿易をしなかったのですか?」
という質問をいただきました。本質をつく質問だな〜と思ったので、僕も中国と日本の貿易について勉強し直しました。
ざっくり言うと
- 明では自国民の出国を禁止する海禁政策が発動されていた。
- 日本にとっては、わざわざリスクを冒して明まで行き、密貿易をしなくて済む。
という理由から、ポルトガル人による中継貿易が行われるようになりました。

日明貿易(勘合貿易)から南蛮貿易までの流れ
日明貿易から南蛮貿易へと移り変わる流れをまとめます↓
日明貿易
- 朝貢形式(日本国王の朝貢と明皇帝からの返礼という形式)
- 明は自国民の出国を禁止(海禁政策)
- 明は周辺国のリーダーに勘合という証明書を発行する
- 日本商人は勘合を持った遣明船に乗って明の寧波などに行き、そこで交易をする
1400年頃に開始。
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1408年に足利義満が死去した後、4代将軍の足利義持は朝貢形式を嫌って勘合貿易を中断。
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6代将軍の足利義教のもとで、貿易利益を求めて再開。
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15世紀後半、室町幕府の衰退とともに貿易の実権は大名(大内氏・細川氏)へと移る。
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16世紀になると、遣明船の派遣は大内氏と細川氏が独占。両者が実権をめぐって争う。
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1523年、明の寧波で大内船が細川船を焼き払うという事件が発生(寧波の乱)。
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この争いに勝った大内氏が勘合貿易を独占。
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16世紀半ばに大内氏が滅亡し、それにともなって勘合貿易も断絶。
中国商人との密貿易
勘合貿易は断絶したが、九州の大名が派遣した遣明船と中国商人との間で、福建地方などで密貿易が行われた(後期倭寇)。
南蛮貿易
大航海時代のさなか、ポルトガルがインド洋沿岸から中国に至る交易ルートに参入。
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明政府は公的な貿易を認めなかったため、ポルトガル人は中国人倭寇と密貿易を行った。
→こうした中で、種子島にポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が漂着する(→鉄砲を購入)。
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明が倭寇を倒すのに協力した見返りとして、1557年にポルトガル人のマカオ定住が認められる。
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それ以降、ポルトガル船は日中間の中継貿易を行う。
ポルトガル人による中継貿易に依存した結果・・・
ただ、日本は
- ポルトガル人宣教師がキリスト教の布教する
- 中国産生糸をポルトガル商人から高値で買わなければいけない
という問題に直面することになり、
といった対処をすることになりました。最終的には江戸幕府はポルトガル船の来航を禁止し、南蛮貿易は終了します。














